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熊谷空襲の日に生まれて 最後の空襲“語り継ぐのが私の役目”

  • 2023年08月18日

ポツダム宣言の受諾が決まっていた昭和20年8月14日深夜。埼玉県熊谷市の市街地をアメリカ軍のB29が襲いました。「風化させずにつないでいく、これが私の役目」。その日に生まれた女性は、最後の空襲を語り継ぐ決意を胸に活動を続けています。

さいたま放送局/記者 二宮舞子

“生まれた日 街は焼き尽くされた”

「生まれた日 街は焼き尽くされた」。これは「私が生まれた日」という詩の一節です。
そして「私は焦土と化した 瓦礫の中で生まれた 翌日 天皇の玉音放送が流れた」と続きます。

詩の作者は、埼玉県熊谷市に住む米田主美(かずみ)さん(78)。
小学校の教員を退職後、趣味にしようと詩の創作講座に通い始め、最初に作った作品です。

米田さんの生まれた日、それは終戦前日の昭和20年8月14日でした。

8月14日 空襲の日に生まれて

撮影:松岡信光 写真提供:熊谷市立熊谷図書館

熊谷市は、まさにこの8月14日深夜から15日にかけて米軍の空襲を受け、当時の市街地の3分の2が焼き尽くされ焦土と化しました。
逃げ惑う人々が市の中心部を流れる星川に飛び込むなどして、266人が亡くなりました。
終戦前、最後の空襲のひとつとされています。

そして、熊谷市の中心部にあった米田さんの実家も全焼しました。

米田さんは、その8月14日に母親の利起子(りきこ)さんと祖母が疎開していた埼玉県秩父市で生まれました。

母の利起子さんが幼い米田さんを連れて熊谷市に戻ると、そこには焼け野原が広がっていました。

米田主美さん
「いつまでも疎開先にはいられないので、母と祖母は熊谷に帰ってきました。そうしたらなんと、自宅が全焼なんですね。母はあまりそのときのことは語りませんが、そのときのショックというのは相当大きかったと思います」

米田さんの父親の主登(かずと)さんは陸軍の航空士官として、熊谷陸軍飛行学校で若手の育成に励んでいました。
しかし、米田さんが生まれる5か月前に遠く離れた熊本で戦死。その知らせが届いたのは終戦後だったといいます。

母親の利起子さんは、焼け跡になった熊谷の街で一時は親戚の家を間借りするなどして、懸命に幼い米田さんを育て上げました。

「熊谷空襲の日に生まれたという運命的な自分の出生、これは私だけのものじゃなくて皆さんに一緒に考えてもらいたいし伝えたい。風化させないでつないでいく、これが私の役目だと思っています」

詩との出会い 心の奥底の思いが叫びとなって・・・

伝えることが自分の役目だと話す米田さん。
実は、空襲のことや自身の出生について語るようになったのは、ここ10年ほどです。
これまでは戦死した父親について、戦争の加害者のひとりなのではないかと考えることもあったということで、自分の出生や思いを打ち明けてきませんでした。

そんな米田さんが、心の奥底にしまいこんでいた思いを解放するきっかけになったのが詩の創作です。
定年退職後に母親の介護をしながら通い始めた詩の講座で、自分の気持ちに向き合うなかで他人に話したことのない自分の出生についての思いが叫びのように出てきたといいます。
そして最初に書き上げた詩が、冒頭の「私が生まれた日」という作品です。

私が生まれた日

「私が生まれた日」

ーもう、僕はこれで帰れないから
父は特攻で出て行った
母のおなかにいた私は
母の涙を知らなかった

生まれた日
街は焼き尽くされた
母は私を産み
私を抱いて
残骸になった自分の家の焼け跡を見た

乳も出ず
泣くばかりの我が子を抱きしめた

三月十九日
父はすでに南の空に散って逝ったことを
母は知らなかった
一九四五年八月一四日
それは熊谷空襲のあった日

私は焦土と化した
瓦礫の中で生まれた

翌日
天皇の玉音放送が流れた

米田かずみ詩集『私が生まれた日』より

米田さんは、戦時中のことは直接知りませんが、自分の出生や母親から聞いた父親の話、それに父親がいなくて寂しい思いをした幼少期の記憶などを元に、戦争や平和について考える作品を生み出してきました。

熊谷空襲を語り継ぐ “残された者が伝える義務”

米田さんは8年前に「熊谷空襲を忘れない市民の会」を設立。
仲間とともに戦跡ツアーなどを実施し、熊谷空襲を伝える活動にも取り組んでいます。

米田さん
「私が熊谷空襲の日に生まれたという話をすると、ツアーの参加者の皆さんが『わっ』ていう顔をするんですよね。それくらい運命的な日なんですよね。戦争体験こそしてないけれども父親を失っているし家も全焼していますし、そういう体験がある残された者が若者に伝える義務があるんじゃないかなと思っています」

戦跡をたどるツアーでは、顔の部分に空襲で焼けた跡が残る弘法大師像や、幹に焦げた跡が残るケヤキの大木、それに県立熊谷女子高校に残る焼けた門柱などを案内しています。
いまも残る空襲の傷痕や慰霊碑などを巡ることで、戦争を繰り返してはいけないという思いを伝えています。

「空襲があったっていうことは知ってたけど、こんなにひどかったというのは知らなかったです。空襲経験を若い人にどう伝えていくのがなかなか難しいのですが、どんどん繋げていけるとうれしいなと思います」

「大空襲のなかで大変な思いをしながら子どもを育て守り、そうやってここが復興してきたのかなと思ったときに、悲惨さと同時にたくましさも感じました。こうやって残してつなげていくことはすごく大事なことだと思いました」

若い世代にバトンを 語り継いでいくために

今、米田さんが力を入れているのは、若い世代に語り継ぐことです。
戦争を体験した世代が減り、米田さん自身も年を重ねるなかで、後継者を育てていくことが大切だと感じていました。

終戦の日を間近に控えた8月12日に熊谷市で開かれたパネルディスカッションには、以前、米田さんの戦跡ツアーに参加した地元出身の大学生たちが、空襲を伝える側として参加しました。
戦跡巡りで学んだ戦争の傷痕について紹介したり、熊谷空襲を体験した祖母から聞いた話などを紹介しました。

大学生
「黒くなっている部分が焼けたあとです。この石灯籠は、燃えさかる炎の熱により倒れてしまったそうです。すさまじい威力だったことが分かりました」

大学生
「自分たちが気にしていないだけで、自分の住んでいる街には戦争の傷痕が数多く残されていることを知ってほしい。戦争を起こしてはいけないということと、戦争を忘れてはいけないということも伝えていきたい」

パネルディスカッションのあと、大学生からは「来年もまたやります」という力強い言葉が返ってきました。

米田さんは、自分の思いがしっかりと若者たちに受け継がれていることを実感しました。

米田さん
「ダークな部分は若い人は興味を持たない傾向があるけれど、熊谷空襲について、あれほどいろいろ戦跡巡りをしたあと考えてくれたというのは、本当に頼もしいなと思ったし、うれしいなと思いました。初めの一歩なんですけどバトンを渡せたなと」

父母に思いをはせて伝える思い新たに 78年目の8月14日

熊谷空襲から78年たった8月14日。米田さんは78歳の誕生日を迎えました。

毎年この日に父母への思いをはせ、戦争を伝え続ける思いを新たにしています。

米田主美さん
「この日がうれしいとか悲しいとかという、そういう思いはないです。重いものがありますね。熊谷で266人が亡くなって市街地が焼失した。想像以上に壮絶なんじゃなかったかと想像を膨らませています。78年間、日本が平和が続いたから、私も78年目の誕生日を迎えられる。私が生まれた日が空襲の日だから、どうしても伝えなくちゃいけないという気持ちがある。私が何もしなくていいのか、やっぱり伝えなくちゃ」

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