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田中正造の指導で地域守った歴史を後世に 埼玉・加須

  • 2022年10月07日

埼玉県加須市北川辺地区にひっそりとたたずむ1つの墓。ここには明治時代、足尾銅山の鉱毒問題に生涯を捧げた田中正造の遺骨の一部が納められています。
この墓が物語っているのは、田中正造とこの地域の先人たちが残した、地域への強い思いでした。

さいたま局熊谷支局/澤田浩二

地域守った歴史を後世に

10月4日、田中正造の墓がある小学校で開かれた式典。地元の住民などおよそ100人が集まりました。
明治時代に、住民たちが足尾銅山の鉱毒対策として進められた渡良瀬遊水地の建設計画から、地域を守った歴史を後世に伝えようと、開かれました。

その歴史をたどっていきます。

貴重な自然残る渡良瀬遊水地

埼玉県、栃木県、群馬県、茨城県の4県にまたがる渡良瀬遊水地。
湿地に広大な「ヨシ」が広がり、およそ3000種類の動植物が生息しています。豊かな自然が今も残る貴重な場所となっています。

足尾銅山の鉱毒対策として建設

この渡良瀬遊水地は、明治時代、社会問題となった足尾銅山の鉱毒対策やたび重なる洪水対策として建設されました。
足尾銅山は渡良瀬川の上流にあり、流域では洪水が発生するたびに鉱毒被害が出ました。このため、国は氾濫の軽減を目指して、渡良瀬川の下流に遊水地を建設する計画が持ち上がったのです。

計画見直しを求めて立ち上がる

この計画で、廃村となった谷中村とともに対象地域とされたのが今の加須市北川辺地区の利島村と川辺村でした。
住民たちは、計画の見直しを求め、東京での請願を繰り返しました。
その住民たちを指導したのは、足尾銅山の鉱毒問題の解決に生涯をささげて取り組んでいた田中正造でした。

鉱毒問題解決に生涯をかけた田中正造

画像提供:田中正造翁北川辺顕彰会

田中正造はいまの栃木県佐野市に生まれました。
鉱毒が広がると、衆議院議員として問題の解決に向けて、活動。
衆議院議員の辞職後には、鉱毒問題の解決を明治天皇に直訴しました。渡良瀬遊水地の建設で廃村となった栃木県の谷中村に住んで、住民たちとともに最後まで反対運動を行いました。

遊水地計画をめぐる年表(出典:「利島・川辺合同村民大会百二十周年記念誌」)
明治35年 1月 利島村と川辺村の住民代表が遊水地化計画を知る
  2月~3月 住民たちが上京して計画見直しを請願
  10月3日~11日 田中正造が2つの村に滞在
  10月16日 合同村民大会 開催
  12月27日 埼玉県知事が利島村と川辺村での遊水地計画断念を表明

 

田中正造は、明治35年10月、利島村と川辺村を訪問。村の家に宿泊しながら9日間滞在しました。住民たちを激励するとともに、より強力な活動に立ち上がるよう、説いて回ったといいます。
田中正造の行動力に影響を受けた住民たちが考えたのが「合同村民大会の開催」でした。
開催されたのは、120年前の明治35年10月16日でした。

「兵役、納税の義務を負わず」

大会には、2つの村の住民ら、1000人以上が集まりました。
当時、利根川の堤防が決壊する被害が出ていましたが、修復工事が行われていませんでした。遊水地計画の対象地になっていたことがその理由と見られていたのです。
2つの村の住民たちは「国が堤防の修復工事をしないのなら村民の手で行う。そのかわり、兵役と納税の義務を負わず」という住民たちの決死の決意をこめた決議が採択されたのです。

2つの村は計画から外れる

大会から2か月後、埼玉県は2つの村を遊水地とする計画を断念することを表明しました。大会での住民たちの決議が、計画断念の理由の1つになったと言われています。

記念碑を建立

こうした先人たちの行動を永く伝えようと、地元の人たちが集めた金をもとに、ことし、記念碑が建てられました。建てられたのは、120年前に合同村民大会が開かれた利根川堤防の一角でした。
10月2日、除幕式が行われました。
碑に刻まれた文は、「利島川辺二ヶ村の運動美事」と田中正造が残したことばで始まっています。
当時の状況や先人たちの決死の覚悟が詳細に記されています。

式典も開催

つづいて、10月4日は記念式典が開かれました。

式典でははじめに、地元の人たちがつくった紙芝居が披露されました。
この中では、当時の北川辺地区の状況や田中正造とともに続けた先人たちの活動が力強く描かれています。

このあと、この活動に関する著作がある山岸一平さんが講演しました。

山岸一平さん
「訴えが認められない場合は兵役や納税を拒否する強い決意で国の大きな計画を変えた。国内でも珍しい、住民運動の勝利だった」

60代男性

「この地を守るんだという明治の青年たちの情熱を感じることができた。地域の子どもたちにも伝えていきたい」

70代男性

「今の我々に同じことをやれといわれたときに、どれくらいできたかと考えると当時の青年たちはすばらしかったと思うし、地域を守ってくれたことに感謝している。田中正造についても非常に勉強になり、改めてみんなで顕彰していくことが必要だと感じた」

北川辺に残る田中正造の墓

遊水地の計画から外れた利島村と川辺村の住民たちは、その後は、谷中村の計画の中止を求めて、田中正造とともに運動を続けました。

大正2年9月4日、田中正造 死去。
利島村と川辺村の住民たちは、命をかけて地域を守ろうとした田中正造を今後もしのぶことができるようにしようと、遺骨の一部を譲り受けました。

こうして北川辺地区に建てられたのが、田中正造の墓です。地元の顕彰会は、田中正造の命日の1か月後、10月4日に毎年法要を行っています。
 

田中正造の指導で地域守った歴史を後世に伝えたい

地元の人たちは今後も田中正造と地元の先人たちの功績を伝え継いでいきたいとしています。

記念式典を主催した田中正造翁北川辺顕彰会 倉上皖教 会長
「この地域を守ろうと、本当に決死の覚悟で行動した、先人たちのすばらしい情熱や団結力、思いを我々が引き継ぎ、次の世代につなげたい、そういう思いです。今後も田中正造翁の功績や先人たちの行動について顕彰し継承していきたい」

取材後記

式典の紙芝居のなかで紹介された田中正造の信念、「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」は各地で多くの住民の心に響き、地域を守る原動力になったと感じました。地域の歴史を顕彰し継承していくことは大変なことだと思いますが、今後も、各地で住民たちの取り組みを取材していきたいと思います。 

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