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戦場からの手紙に残された家族への思い 埼玉県所沢市

  • 2022年09月06日

戦後77年、埼玉県所沢市で戦時中に生きた地元にゆかりがある人などを紹介する企画展が開かれました。この中で太平洋戦争の激戦地となったフィリピン・レイテ島で戦死した男性の手紙が紹介されました。戦場から家族を思いやって書き記したもので、改めて平和の尊さを伝えています。

(さいたま放送局 所沢支局 高本純一記者)

戦争の時代を生きた市民 所沢市で企画展

所沢市生涯学習推進センターで8月2日から31日にかけて、企画展「戦争の時代を生きた市民 1931-1945」が開かれました。こうした戦争に関わった地元ゆかりの人や当時の住民の生活などが、資料や写真で紹介されました。
担当者による展示解説も行われました。

展示解説の担当者
「日にちはわからないが、もう決戦間近というレイテ島に行ってからのはがきです。字も細かくなっていて、最後は泣けてくるような内容になっています」

所沢からも多くの人が兵士として戦地に赴き、命を落としました。そのうちの1人、陸軍の兵士としてフィリピン・レイテ島で24歳で戦死した小山吉蔵さんにスポットをあてたコーナーが設けられました。
展示されたのは、吉蔵さんが家族宛てに書いた軍事郵便や入隊する前日に書いた遺書、吉蔵さんと2人の弟がそれぞれ入隊した日を記録した文書、それに戦死認定理由書などです。
 

戦場からの手紙 家族に届いた最期のことば

フィリピンから家族に宛てて書いた軍事郵便には「討伐に加わった」と戦闘の中にいた様子が記されています。そのような中でも、妹に対して「留守中心配かけてすまぬが、これも決戦だ。母上を宜敷しく頼む」「弟 金太郎、彦三郎の武運長久を共に祈りて止みません」など、家族のことを思いやることばを記しています。
びっしりと文字を記した手紙の最後には「では吉蔵、元気で決戦に臨みます さようなら」。この手紙が最後になると察していたのでしょうか。

訪れた人

戦地に行きながらも、家族のことを心配していて、感動させられた。大変な生活だったんだろうなと改めて感じた。

訪れた人

戦地がいかに過酷だったか、どんな精神状況だったかを察せられる貴重な資料だと思う。書き切れないぐらいの思いだったと思うし、1人1人の名前を挙げているのは、きっと走馬灯のように、家族と暮らしてきた自分がよみがえってきたんだと思う。それを察するといたたまれないし、戦争は決して起こしてはいけないということが、一兵士の資料からいたく感じます。

手紙を残した小山吉蔵さんとは

昭和18年9月頃の家族写真 後列右側が吉蔵さん

手紙を書いた吉蔵さんは、大正9年7月、いまの所沢市で鮮魚店を営む小山家の長男として産まれました。弟の金太郎さんと彦三郎さん、妹のとり子さんの4人きょうだいでした。父親が亡くなったあと、店を切り盛りする母親のきくさんを助けていましたが、2人の弟が先に出征。吉蔵さん自身も昭和19年3月、陸軍に入隊して、第102師団通信隊の一員としてフィリピンへ出征しました。

戦後、届いた吉蔵さんの死亡告知書には、レイテ島のカンギポット山付近で昭和20年6月30日に戦死したことが書かれています。

しかし、吉蔵さんが実際にどのような経緯で亡くなったのかはわかっていません。
企画展の担当者によりますと、「6月30日」という日付は同じ部隊のほかの兵士と同じで、この部隊の生存者はほとんどいなかったということです。

担当者が当時の記録などを調べたところ、吉蔵さんの部隊は昭和19年7月に九州の門司を出発し、すでにアメリカ軍との戦闘が始まっていたレイテ島に到着したとみられることがわかりました。
その後、12月下旬にレイテ島の戦いの大勢が決まると、日本軍の兵士はカンギポット山付近で食料や弾薬の補給がないまま「自活自戦」を強いられたということです。
その時点で生存していた2000人の兵士のほとんども、半年ほどの間に戦闘や栄養失調などで死亡したとされています。

母親のきくさん

戦後、遺骨引き渡しの通知が届けられ、母親のきくさんが受け取りに出向きましたが、遺骨も遺品もなかったといいます。
所沢市にある吉蔵さんの墓には、代わりにレイテ島の土が納められているということです。

残された家族の戦後

今回、展示された吉蔵さんに関する資料は、2年前に、吉蔵さんの弟・金太郎さんの娘の小山幸子さん(61)と、もう1人の弟・彦三郎さんの妻の小山いく子さん(86)が、市に寄贈しました。

幸子さんによりますと、戦後は弟の金太郎さんが昭和63年まで鮮魚店を続け、平成元年に96歳で亡くなった母親のきくさんも一緒に暮らしていました。
しかし、きくさんは、吉蔵さんのことはあまり話題にしなかったといいます。

小山幸子さん(吉蔵さんのめい)

小山幸子さん
「(きくさんは)『金ちゃん、金ちゃん』と、父の金太郎のことをかわいがっていました。吉蔵さんのことはあまり話しませんでしたが、何かあるごとに、足しげく墓参りに行っていました。お寺が近かったこともありますが、亡き息子に相談や報告に行っていたのではないかと思います。その後ろ姿はよく覚えています」

また、もう1人の弟の彦三郎さんと結婚したいく子さんは、彦三郎さんと金太郎さんがよく酒を飲みながら、兄の吉蔵さんのことをしのんでいたといいます。

小山いく子さん(吉蔵さんの義理の妹)

小山いく子さん
「兄弟仲よくて、よく会っては『家族思いで、優しい兄貴だったなあ』、『なんで兄貴いないんだよ』って、涙を流しがら話し合っていました。軍歌も歌ったりして、ずっとしのんでいました」

昭和61年に撮影された家族写真には、母親のきくさんはじめ、吉蔵さんの2人の弟、妹のとり子さんが写っています。いく子さんはこの写真を大切にしているといいます。

いく子さん

私は嫁いできた者ですが、小山家の人はみんな心が穏やかなで、ほんとにいい家族だなと思っています。

戦争の時代を生きた1人1人に思いを

企画展の会場を訪れた幸子さんといく子さんは、吉蔵さんのコーナーを見学しました。

いく子さん

吉蔵さんがとても喜んでいると思います。感謝しています。見に来てくれた人に、しのんでいただければ、うれしいです。

幸子さん

こうした実物の資料を見てもらって、かつて、こういう時代があったのかと知ってもらう機会になればと思います。

企画展を担当した所沢市教育委員会文化財保護課 田島直子さん
「今回は、地元にゆかりのある人が戦争の時代をどう生きたのか、その人の思いや顔が見えてくるような展示を企画しました。ぜひ自分のこととして考え、思いをはせてほしい」

取材後記

所沢出身でフィリピン・レイテ島で戦死した人は、吉蔵さん含め14人いるということです。それだけ戦争が身近にあったことを改めて考えさせられました。また、戦死した1人1人に、吉蔵さんのように、大切に思う家族がいたこと、まだまだやりたいことがたくさんあったことを思うと、無念さを感じずにはいられません。77年前、家族を思いながら24歳の若さで戦死した一兵士の記録。改めて平和の尊さを感じさせてくれます。


 

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