日本を代表する演出家で5年前に亡くなった蜷川幸雄さんが旗揚げした高齢者による演劇集団「さいたまゴールド・シアター」が、2021年12月の公演を最後に活動を終えました。新たな演劇を作り出そうと15年間にわたり活動を続けてきたグループの最後の挑戦を追いました。
(さいたま局カメラマン 渡部泰山)
埼玉県出身の蜷川幸雄さんは、2006年にさいたま市中央区にある彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督に就任しました。就任早々、当時70歳だった蜷川さんが取り組んだのが、これまでの枠にとどまらない新たな劇団を作ることでした。メンバーとして募集したのは55歳以上の演劇経験のない人たち。プロの役者ではなく、人生経験を積んだ人だからこそできる新しい演劇を作りたいという思いからでした。およそ1200人の応募者から48人が選ばれ、さいたまゴールド・シアターが設立されました。
さいたまゴールド・シアターの設立会見で蜷川さんはこう話しました。
「僕と同年代の人たちが集まって実験的な劇団でも作れないかな。有限の時間のなかで新しい表現、そして、職業的俳優として育ったのではない、それぞれの生活、個人史を負っている人たちがどういう表現に到達できるのかをやってみたい」
さいたまゴールド・シアターは国内だけでなく、パリや香港など海外でも公演し、好評を得るなど、世界でも注目される演劇集団に成長しました。2016年に蜷川さんが亡くなったあとも、その志を継ぎ、活動を続けてきました。
設立から15年がたち、67歳だった平均年齢は81歳になりました。蜷川さんの志を尊重し、設立時のメンバーのまま活動を続けましたが、体の不調などで活動を続けられない人が少しずつ現れ、メンバーは48人から34人に減りました。在籍していても,さまざまな理由から活動への参加が難しいメンバーも増えてきたため、あり方を見直そうと考えていた矢先に新型コロナウイルスの影響を受けました。
2021年冬に行う予定だった公演は中止。緊急事態宣言で稽古に集まること自体も難しくなりました。稽古ができないため、メンバーの体力の低下も著しくなったといいます。このまま活動を続けるのは難しいと2021年7月、さいたまゴールド・シアターは12月の最終公演をもって、解散することになりました。
最終公演に選んだのは「水の駅」という作品です。せりふは一切ありません。舞台には、水が流れ続ける水場と、水場を見下ろす投棄物の山のセットがあるだけです。人生のさまざまな思いを持つ人が次々に水場を訪れ、去っていきます。せりふがないため、訪れる人の思いや感情を、体の動きだけで表現する難しい演技が要求されます。
実は、さいたまゴールド・シアターがせりふのない劇を上演するのは初めてです。メンバーは最後の公演で新たな挑戦をすることになりますが、人生の経験を積んだからこそ演じることができると、この作品が選ばれました。
2021年10月16日、彩の国さいたま芸術劇場で最終公演に向けた顔合わせが行われました。この日の主な目的は、メンバーに舞台で演技をする体力があるかどうかを確認することでした。音楽に合わせて歩きながら手足を動かしたり、あおむけに寝た状態から体を起こしたりする動作を何度も繰り返します。メンバーは休憩を挟みながら合計2時間、体を動かし続けました。集まったときは笑顔で談笑していましたが、稽古が終わる頃には椅子にぐったりと座る姿も見られました。
高橋清さんは、最高齢となる95歳です。高橋さんは東京で育ち、戦時中におよそ10万人が亡くなった東京大空襲を経験しました。当時10代で軍刀を運ぶ仕事をしていた高橋さんは、街全体が燃えさかるなか、なんとか逃げ延びました。終戦後はさまざまな職を転々とし、最後は電力会社に15年以上勤務して定年を迎えました。
退職後に待っていたのは、やりたいことが見つからない日々でした。そんなときに出会ったのが、蜷川さんが新たな演劇に挑戦するというニュースです。高橋さんは演劇の経験が全くありませんでしたが、蜷川さんを一目見てみたいという軽い気持ちでオーディションを受けたところ、合格しました。78歳で初めて飛び込んだ演劇の世界は、退職後には経験することがなかった充実した日々でした。高橋さんは次第に演劇の魅力に引き込まれていきました。
演劇を始めて1年が経ったころ、高橋さんは病気で足が不自由になり一時入院しました。病気の間、高橋さんを支えたのは、蜷川さんがかけてくれた「待ってるよ」という言葉でした。1年間にわたるつらいリハビリを乗り越えて、高橋さんは再び舞台に復帰することができました。
高橋清さん
「これで最後だと思うと気持ちがピンとするね」
今回、高橋さんが演じるのは、山の上から水場を見守る男の役です。舞台上にある投棄物の山にとどまり、最初から最後まで出演し続ける重要な役です。
演出をする杉原邦生さんは、この重要な役は、人生経験が豊かな高橋さんにしかできないと思い、抜てきしました。
演出家・杉原邦生さん
「動きは少ないですけれど、やっぱり出てくるだけで存在感がある。高橋さんが目線を動かしたり、手を動かしたりするだけで、空間が動くというか、そういう魅力を持った俳優です」
高橋さんには、さまざまな演技が求められます。杉原さんは細かい手の動きや角度などを身ぶりで示しながら、演技を作り上げていきます。高橋さんも若い杉原さんに演技の疑問点をぶつけ、体で覚え込もうと必死に取り組みました。
高橋さんは山の上で、時には歯ブラシで歯を磨きながら、時には新聞を読みながら水場を見下ろし、人々を見守り続けます。
舞台終盤、高橋さんは自分が水場に行きたくても近づくことができない、悔しい気持ちを両手で表現しようとしました。しかし、うまくできません。
杉原さんは高橋さんに語りかけました。
演出家・杉原邦生さん
「みんな生きているなかで、叫びたいけど叫べないことがいっぱいあるじゃないですか。内なる叫びって、象徴ですから。声を出さない叫びは、みんなが持っている。息も何も聞こえない、音が何もない叫びは重要です」
高橋さんは、杉原さんの言葉に、今の自分に必要なものは、原点に戻って蜷川さんの指導を思い返し、これまでの人生で経験した悔しい気持ちや不満をさらけ出すことだと気づきました。
12月18日に行われた最後のリハーサル。悔しさを表現する場面がやってきました。高橋さんはこれまでの人生で経験したことを思い返しました。戦争中、空襲で次々と焼い弾が落ち、目の前で多くの命が失われたこと、戦後に食べ物がなく空腹を抱えながら生き延びたこと、定年退職後にやることがなく目標を見失っていたことー。舞台の上で、自分の人生が走馬灯のように見えたと言います。高橋さんは、すべての思いを両手の演技に込めました。
舞台を終えたあとのカーテンコール。出演者全員が並び、名前と年齢を大きな声で伝えます。 「高橋清、95歳」 舞台の隅々まで響き渡るその声、高橋さんの表情に曇りはありませんでした。
高橋清さん
「芝居というものに、またとりつかれて、やっていて、すごく楽しかった。拍手を聞いて、95歳まで生きていてよかったと思った」
最終公演は12月26日に無事終わりました。最終日のカーテンコールは拍手が鳴り止まなかったといいます。
高橋清さん
「さいたまゴールド・シアターは解散するけれど、もし機会があり、声をかけていただけるならば、また舞台に出てみたい」
高橋さんは最後の舞台のあと、こう話してくれました。
95歳で衰えない舞台への意欲。高橋さんの力強い声は、人生の深い喜びや悲しみを演技で表現するという蜷川さんの教えを体現していることへの自信のように感じました。
さいたまゴールド・シアターの皆さんは、強くたくましく、エネルギーにあふれていました。特に最高齢の高橋さんは、普段は車椅子で移動することも多くなったそうですが、常に大きな声で稽古場をなごませてメンバーを引っ張る、まさにリーダー的存在でした。
機会があればまた舞台に立ちたいという高橋さんの力強い答えに、私自身があきらめずに前に進めと、励まされたような気持ちになりました。