消された戦争の歴史 後世にどう残す

  • 2019年12月13日

2020年は戦後75年となります。横浜市では、戦争に関するある案内板の記述をめぐって、行政と市民との間で、議論が起きています。戦中戦後の歴史をどう後世に残していくか考えます。《山内拓磨記者》

■修正された案内板の文言

横浜市の「根岸外国人墓地」には、外国籍の大人や子ども、およそ1100人が埋葬されています。

墓地の入り口に建つ案内板は、30年ほど前にライオンズクラブが地元に伝わる証言をもとに市に寄贈しました。
いま議論になっているのが、英語の記載内容です。設置当初は…。

(原文ママ)
…babies who were born fathered by Foreign Military civilians and Japanese women after the end of the World War II are buried here.
「第2次世界大戦後、外国の軍属と日本人女性との間に生まれたえい児たちがここに埋められている」

占領下でアメリカ兵などとの間に生まれた多くのえい児が眠っているとされてきました。ところがその後、横浜市は“裏付ける公的な資料はない”としてこの文言を削除。

(原文ママ)
…children buried after the end of World War II.
「子どもが埋められた」という記載に修正したのです。

■市「事実を確認するすべがない」

この対応を批判してきたライオンズクラブ。案内板が老朽化する中、市に記述を戻すよう求めています。

轟木洋二会長(横浜山手ライオンズクラブ)
「100年後、200年後を考えれば、文字として残っているか残っていないかは非常に重要です。事実は事実として後世に残していかないと」

一方、過去に日本とアメリカの公的資料を調べたという横浜市は。

半田恒太郎 課長(横浜市 環境施設課)
「市の調査した記録からは、その事実を確認することはできませんでした。さまざまな伝聞についても、今となってはその事実を確認するすべがないので、市としてはコメントができない」

■父親の欄は“アメリカ” 残された大量の当時の資料 

戦後の混乱期の横浜で、何が起きていたのか。終戦翌年に孤児院のひとつとして作られた市内の児童養護施設「聖母愛児園」には、当時の資料が大量に残されていました。

受け入れた子どもたちの父親の欄には“アメリカ”という文字が並んでいます。

戦後、横浜市にはおよそ10万人の占領軍が進駐。アメリカ兵らと結婚した女性がいた一方、戦争で家族を失うなどして、兵士らの相手をして生きた女性も多くいたといいます。

この施設では、そうした中で生まれた子どもたちを多く受け入れてきました。中には路上や駅などに放置され、過酷な環境で保護された子どもたちの記録も。

根岸外国人墓地に埋葬されたという記録はありませんでしたが、新たに見つかった“死亡台帳”には、この地域で多くの幼い子どもが命を落とした実態が記されていました。

工藤則光 事務長(聖母愛児園)
「戦後の混乱の中、いちばん不幸な影響を受けているのは、そういう子どもたちだった」

■当時を知る人たちの証言

さらに別の手がかりを求め、根岸外国人墓地について長年調査を続けてきた人を訪ねました。田村泰治さんは、横浜市の公的な歴史資料の編さんにも関わってきた郷土史の研究家です。

田村さんは、根岸の墓地に、アメリカ兵など外国籍の男性との間に生まれたえい児が埋葬されていると考え、論文や書籍にまとめてきました。

田村さんは、かつて小さな白い十字架が、墓標のように一帯を埋め尽くしていたのを見たといいます。

田村さん「こういうふうに(墓標のように)十字架が立っているわけですよ。われわれの感覚では30センチ間隔」

さらに墓地の管理人や近隣の住民から、死亡したえい児が運ばれてきたという証言を直接聞き取ってきました。

田村さん「(死亡したえい児を)新聞紙に包んだり、りんご箱・みかん箱に入れたりして、ここ(根岸外国人墓地)へ運ぶようになったと言っていました。(米軍の)ジープやトラックで。それはこの辺の近所の人たちはみんな目撃しています」

田村さんは、当時を証言できる人が少なくなっているからこそ、横浜市は案内板の文言を削除すべきではなかったと感じています。

田村さん「きちんとした記録を残しておくべきだと思っています。(その歴史が)いいか悪いかではなく。このままずっといったら消えてしまう、あと何十年かしたら」

■証言を根拠に案内板を設置したケースも 

案内板などの記述内容や設置をめぐる論争は各地で起きています。朝鮮人労働者が強制連行されたなどと記されたパネルが行政に撤去されたり、行政と市民の間で、追悼碑の設置をめぐって裁判となったケースもあります。

こうしたなか、公的資料がなくても生きている当事者の証言こそが根拠だとして、新たに案内板を設置したケースもあります。

2018年11月、岐阜県白川町 黒川地区の住民たちによって建てられた“乙女の碑”の案内板。“18歳以上の未婚の女性に「接待役」を強いた”と記述されています。

戦時中、この地区から開拓団として満州に渡った600人以上が、敗戦後の混乱の中、身の安全を確保しようと、旧ソ連軍の将校に助けを求めました。開拓団はその見返りに、18歳以上の未婚の女性に性的な接待役をさせたというのです。これまで口を閉ざしてきた当事者たちが、このままではなかったことになるのではないかと、当時のことを打ち明け始めました。

佐藤ハルエさん「あんたら10人ほどは犠牲になって、ここを守らにゃならんで。悔しいけどどうしようもないんです」

開拓団の遺族会では、町に公的資料が残っていなくても、女性たちが生きているうちにその証言を形に残すべきだと、案内板を設置しました。

藤井宏之会長(旧満州・黒川分村遺族会)
「いちばん大事なのは、こういうことがあったとわれわれが知っておかなければいけない。こういったものを建てることによって後世に残したい」

■専門家「口承や体験も貴重な判断材料」

白川町のケースでは、行政側がこのことをそもそも把握しておらず、案内板設置に異論を挟むことはなかったそうです。こうした歴史をどう後世に残していけばいいのか、専門家は次のように指摘しています。

加藤聖文 准教授(国文学研究資料館)
「公文書は、戦後燃やされた例などもあり、行政にとって必要なものしか残っていないので、いま公的資料とし残っているものだけが事実だとは到底言えない。口承や体験についても、後世の判断材料として貴重であり、さまざまな形で記録化し、行政が保存・保管に関わっていくことが必要だ」

(山内記者)
私も、横浜市の案内板で初めて、戦後の混乱期に生まれて亡くなった子どもたちの存在を知りました。今後さらに公的資料が残っていない歴史が消されていくと、教科書には載らないような、地域に伝わる歴史に向き合うことができなくなるという危機感を強く持ちました。

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