1. NHK
  2. 首都圏ナビ
  3. もっとニュース
  4. 坂本龍一さんの歩みと業績を振り返る 明治神宮外苑の思いとは?

坂本龍一さんの歩みと業績を振り返る 明治神宮外苑の思いとは?

  • 2023年4月4日

「100年かけて守り育ててきた貴重な神宮の樹々。未来の子どもたちへ手渡せるよう…」

東京・新宿区などの明治神宮外苑の再開発について、計画の見直しを求める手紙を小池知事宛に送られた手紙の文面です。

送ったのは、3月28日に71歳で亡くなった音楽家の坂本龍一さんです。
世界的な音楽家として活躍した坂本さんは、平和や脱原発、環境保護など社会的な分野で積極的に行動し、意見を社会に発信してきました。

坂本さんの歩みや業績を振り返ると共に、明治神宮外苑への思いを伝えます。

世界的な音楽家…坂本龍一さん

坂本龍一さんは幼少の頃からピアノと作曲を学び、東京芸術大学に入学しました。

大学院を修了後、1978年にミュージシャンの細野晴臣さん、高橋幸宏さんとともに「イエロー・マジック・オーケストラ」=「YMO」として、アルバムを発表しました。

当時の最新の電子楽器を使った斬新な音楽性で“テクノポップ”という新たなジャンルを築きました。

1983年にYMOが解散したあと、坂本さんは、同じ年に公開された映画「戦場のメリークリスマス」に俳優として出演し、坂本さんが手がけた映画のテーマ曲は、長年にわたって聞き続けられる代表曲の一つとなりました。

そして、1988年には、映画「ラストエンペラー」の音楽でアカデミー賞作曲賞を受賞したほか、グラミー賞など数々の賞を受賞して国際的な評価を高めました。

追悼の声 “残念しか言葉がありません”

坂本龍一さんの訃報を受け、東京・新宿のCDショップでは坂本さんの作品などを集めた追悼コーナーが設置されています。

「タワーレコード新宿店」では、「追悼坂本龍一さん」と書かれたボードとともに「イエロー・マジック・オーケストラ」=「YMO」の作品や坂本さんのソロ作品、それに坂本さんに関連する書籍などが紹介されています。

20代 女性

少し前にテレビで坂本さんのことを見たばかりだったので、亡くなったと聞いて驚きました。代表作ぐらいしか知らなかったのですが、「戦場のメリークリスマス」などは染み入る感じの曲でした。

60代 女性

本当に残念です。これからもたくさんの曲を作って頂きたかった。残念しか言葉がありません。若い世代の人たちに坂本さんの志を継いで、世界に通用する音楽を作って頂ければと思います。

タワーレコード新宿店 村越辰哉 副店長
「坂本さんが亡くなったのは残念なニュースですが、本当に良い音楽はこれからも残り続けます。坂本さんの音楽はひとことでは語り切れないのでこれから長い時間をかけて坂本さんの音楽を知ってもらうそのお手伝いができればと思います」

社会的な分野でも…

坂本龍一さんは平和や脱原発、環境保護や復興支援など社会的な分野で積極的に行動し、自身の意見を社会に発信してきました。

●非戦・平和
アメリカ・ニューヨークに拠点を置き、2001年の同時多発テロを経験した坂本さんは「非戦」ということばを使い、平和へのメッセージを発信してきました。

俳優の吉永小百合さんと平和を願うチャリティコンサートを各地で開催したり、集団的自衛権の行使を可能にすることなどを盛り込んだ安全保障関連法案に反対したりといった活動に取り組んできました。

2015年、国会前で行われた反対集会に参加した際は「憲法の精神、9条の精神がここまで根付いていることを皆さんが示してくれ、勇気づけられている。民主主義を取り戻す、憲法の精神を取り戻す。ぼくもみなさんと一緒に行動してまいります」と訴えていました。

●非核・脱原発
「非核」のメッセージも発信し続けました。

福島第一原子力発電所の事故のあとは作家の大江健三郎さんらと原発を廃止するための法律の制定を目指すグループを設立したほか、ほかのミュージシャンとともに「脱原発」をテーマにした音楽フェスティバルも開いてきました。

坂本さんは音楽フェスティバルを企画した思いについて、2012年の会見の際「なるべくたくさんの人に来ていただいて、この問題にまず関心をもってもらいたいし、ひとりひとりがよく考えてもらいたいという思いです」と話していました。

●環境
環境保護の分野でも意見を発信しました。
坂本さんは、樹木の保全のあり方について議論になっている東京・新宿区などの明治神宮外苑の再開発について、計画の見直しを求める手紙を小池知事宛に送っていました。

神宮外苑の再開発の主体は民間事業者ですが、都は事業の許認可を与える立場で、都によりますと、坂本さんからの手紙は封書で3月3日に都知事宛で郵送されたということです。

手紙のなかで、坂本さんは「目の前の経済的利益のために、先人が100年かけて守り育ててきた貴重な神宮の樹々を犠牲にするべきではありません。開発によって恩恵を得るのは、一握りの富裕層にしか過ぎません」などと記していたということです。

そのうえで、「神宮外苑の開発は、とても持続可能なものとは言えません。これらの樹々を、私たちが未来の子どもたちへ手渡せるよう、計画を見直すべきです。あなたのリーダーシップに期待します」と結んでいたということです。

神宮外苑への思いは どこから?

がんの闘病生活を続けてきた坂本龍一さんは、月刊雑誌で、去年7月号からことし2月号まで『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』と題する自伝を連載していました。

この連載を担当し、20数年間、親交を続けてきた編集者の鈴木正文さんに坂本さんの最後の様子について話しを聞きました。

連載では、坂本さんが「何もしなければ余命半年です」と医師に告げられたことや、息子に教わり、ふだんは聞くことがなかったアメリカのカントリーの曲に思いがけず心を動かされ、涙を流したことなどがつづられています。

鈴木さんは、連載のためのやりとりの中で、坂本さんが、毎回、音楽だけでなく社会に対するメッセージを発し続けていたことに感銘を受けたと振り返りました。

最後に会った3月8日には、坂本さんは日本文学の本を何冊か手元に持ってきて、その中に大正初期の変わりゆく東京の姿を描いた永井荷風の『日和下駄』という作品の初版本があったということです。

鈴木正文さん
「『日和下駄』は、自動車道路ができたり、開発で地形が変わったりして様変わりしていく東京を荷風が散歩するという話ですが、坂本さんは、現代の東京が、オリンピックなどを契機に変わっていくのを荷風が嘆いたのと同じように感じていたのだと思います

鈴木さんは、坂本さんの人柄について次のように話していました。

「坂本さんは何かになろうとか、偉大なものになろうとか、そういうことを思ったことはなかったと思います。自分の死期が近くなってからの生き方、死に方に悔いはないと話していました。歩んできた道の途中で倒れたわけですが、そこから先は彼に続く人がまた歩いていくのだと思います」

ページトップに戻る