「戦争は、ウクライナなど世界で今も起きている。昔のことと思わずに、真実を知ろうとする気持ちを持ってほしい」
「戦争や平和を自分事として考えてもらうよう訴えていきたい」
およそ10万人が命を落とした東京大空襲から77年。
今、私たちや世界が直面しているのが、ウクライナへの軍事侵攻です。「東京大空襲」の体験者の声から考えます。
太平洋戦争の末期、東京は100回以上の空襲を受けましたが、特に昭和20年3月10日未明の空襲では今の墨田区などの下町一帯が壊滅的な被害を受け、およそ10万人が犠牲となりました。
この空襲から77年となる10日、東京都慰霊堂で法要が行われました。
法要は新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため規模を縮小して営まれ、東京都の小池知事や遺族の代表などおよそ30人が参列して焼香を行って犠牲になった人たちを追悼しました。
会場の外では空襲で家族を失った人などが次々に訪れて祈りを捧げていました。
足も悪いので今回が最後かなと思って来ましたが、何年経っても忘れないし、思い出すのもつらいことは変わりません。ウクライナで戦争が起きていますが、東京への空襲と同じで一般の人が犠牲になっています。戦争で人を殺してものを壊しても何にもならないし、何があってもするべきではないと思います。
当時10歳で、新潟県の親戚の家に疎開していたので無事でしたが、東京に残った両親と、幼い弟、妹が犠牲になりました。どこで亡くなったのかも骨も分からず、毎年欠かさず足を運んでいます。ウクライナでも小さい子どもがかわいそうで何で戦争なんかするのかなと思います。
77年前の東京大空襲を子どものころに体験した84歳の都内の男性は、ウクライナで多くの市民が犠牲になっていることに怒りを強めていました。
東京・国分寺市に住む濱田嘉一さん(84)は、当時の深川区、今の江東区で7歳だったときに東京大空襲に遭いました。
次々と焼い弾が落とされる中、母親や祖母とともに近くの庭園に向かって走って逃げましたが、目の前でたくさんの人が焼かれて亡くなったと言います。
濱田嘉一さん
「人は燃えながら10メートルほど走ってパタッと倒れた。その時、おばあちゃんが『次、死ぬのはお前の番だよ』と言ったんです。それはもう怖くてまさに地獄絵図とはこういうことだと思った」
戦後、長らく中小企業を支援する仕事を続けてきた濱田さんは4年前、80歳で現場を退きました。
残りの人生をどう過ごすか考えたとき、戦争の悲惨さを訴えることが使命だと考え、講演会などで自身の記憶を伝える語り部の活動を行ってきました。
しかし、東京大空襲から77年となることし、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まり、多くの市民が犠牲となっています。濱田さんは77年前の自分と同じように子どもたちの命が脅かされていることに怒りを強めています。
濱田嘉一さん
「『死にたくない』と泣く子どもの映像を見て涙がこぼれた。空爆の爆撃音が聞こえ、いつ自分のところに来るかわからない戦慄や諦めを子どもたちは感じている。絶対に一般市民を攻撃してはいけないし、何でもいいから一時停戦して話し合うべきだ。
悲惨な経験をした者として何があっても戦争反対と叫び続け、戦争や平和を自分事として考えてもらうよう訴えていきたい」
多くの人が亡くなった隅田川の言問橋では、追悼集会が開かれ、空襲を体験した人や遺族らが犠牲者を悼みました。
集会に参加した二瓶治代さん(85)は、8歳のときに東京・江東区の亀戸で東京大空襲を経験し、火の粉が降り注ぐ中、家族とはぐれ、ひとりで逃げまどったといいます。
火のついた子どもを背負って必死に走る人の姿や、消火しようと生きたまま炎に包まれていく人の姿を目にしながら、無我夢中で逃げた二瓶さんは、やがて気を失い、押し寄せる人波の下敷きになったといいます。
しかし、覆い重なった人たちの下にいたため、やけどを負わずに助かったといいます。
二瓶治代さん
「私の上にいた人たちが、みんな真っ黒な炭になっているのを見て、焼き殺された人の下敷きになって助かったんだと分かった。そうやって、数時間、数分前まで生きていた人が炎に焼かれて亡くなっていったということを、その人たちの代わりに伝えることが生き残った私に託されていることのような気がする」
二瓶さんは、戦争を知らない世代にもその悲惨さを知ってほしいと、およそ20年にわたり、江東区にある施設、「東京大空襲・戦災資料センター」で、自身の体験を語り継ぐ活動などを続けています。
しかし、国分寺の自宅から施設までの移動は、電車とバスで2時間以上かかるため、高齢の体への負担も大きく、ことしから、週に2回だった頻度を1回に減らしました。
二瓶治代さん
「当時大人だった人はみんな亡くなり、戦争を語れるのは当時子どもだった私たちだけ。戦争や空襲で何があったか記憶だけでななく、記録に残していかないといけない」
最近では、ロシアによるウクライナ侵攻について、二瓶さんに質問する見学者も増えているといいます。
二瓶治代さん
「今、現地で逃げている子どもたちは、当時の私と同じような年ごろ。防空壕の中に入った女の子が『戦争は怖い、死ぬのはいやだ』と話す姿をニュースで見たが、大空襲があった3月10日とぴたっと重なる。
『戦争を知らない時代』と、もうそんなことを言ってられない。ウクライナや世界で、戦争は今も起きている。現地で何が起きているか、『知ろうとする世代』になってほしい」
同じく、大空襲で甚大な被害を受けた東京 墨田区。墨田区役所ではおよそ10万羽の折り鶴で作ったオブジェの展示が行われています。
オブジェは高さ13メートル、幅7メートルで、平和の象徴のはとが飛び立つ様子が表現されています。
区はロシアによる軍事侵攻を非難する声明文を出していて、オブジェの前にはウクライナの国旗をイメージした青と黄色の折り鶴も飾られていました。
このほか、区にゆかりのある著名人39人の平和への思いがつづられたメッセージも展示され、映画監督の山田洋次さんは「戦争は悪だ。人と人との殺し合いは、コロナより遥かに悪だ」というメッセージを寄せていました。
訪れた人たちは展示されたメッセージなどを見て平和への思いを強くしていました。
1歳の子どもの母親
「ウクライナで産院が襲撃されたという話を聞いて、出産したばかりなので胸が痛みました。早く収束してほしいです」
40代男性
「民間人に被害が出た国の人間として、人の命が失われることは起きてほしくありません。思いをはせながら、自分にもできることを考えていきたい」