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横浜 赤線地帯の女性たちと写真家・常盤とよ子

  • 2020年9月16日

横浜というと「赤レンガ倉庫」や「ランドマークタワー」などを思い浮かべ、港街というイメージを抱く人が多いかもしれません。しかし、75年前の終戦のあと、10万人もの連合国軍が進駐し、占領期間が終わったあともアメリカ軍が残り続けた「基地の街」でもあり、売春が事実上公認された「赤線」と呼ばれた地域がありました。戦争の傷跡が長く残ったその街で、アメリカ軍兵士らの相手をして生きた女性たちを撮り続けた1人の写真家がいました。

“基地の街” 横浜に存在した赤線地帯

終戦から2週間ほどあと、連合軍最高司令官のマッカーサー元帥が向かった先は横浜。東京に移るまで、今の横浜税関で執務にあたり、アメリカ第8軍司令部は、その後もそこに残りました。

昭和29年 横浜(撮影:奥村泰宏/寄贈:栗林阿裕子/横浜都市発展記念館所蔵)

戦後の横浜は、空襲で焼け残った主要な建物や港湾施設などを連合国軍に広く接収され、およそ10万人の兵士が進駐しました。

いまは商店街が続く伊勢佐木町も、当時は外国人兵士やその家族が歩く姿が日常の光景となり、昭和27年に占領期間が終わったあともアメリカ軍はそのまま残り続けました。 

昭和25年 横浜(撮影:奥村泰宏/寄贈:栗林阿裕子/横浜都市発展記念館所蔵)

そうした中で、横浜の赤線地帯やその周辺でアメリカ軍兵士らに体を売って生きた女性たちがいました。

女性たちの姿を追って 写真家・常盤とよ子

撮影:常盤とよ子/寄贈:栗林阿裕子/横浜都市発展記念館所蔵

その当時、赤線地帯の女性たちを撮影した写真家の追悼展が、戦後75年のこの夏、横浜で開かれました。

仕事の前に髪を整える女性。
 

赤線地帯の周辺で兵士と戯れる女性を撮ったという一枚。
 

そして、兵士と並んで街を歩く女性など、会場では赤線で生きた女性たちの日常を切り取った数々の写真が紹介されました。
撮影したのは、去年12月に91歳で亡くなった女性写真家の草分け・常盤とよ子です。

常盤とよ子 昭和32年

17歳の時、横浜の空襲で父親を亡くした常盤は、20代でカメラの道に進み、戦後10年がたった頃の横浜を撮影していきます。やがて、アメリカ軍兵士を相手に生計を立てた女性たちにもカメラを向けるようになり、写真集などで発信していきました。

常盤の追悼展を企画した資料館、横浜都市発展記念館の西村健さんは、常盤と、その写真についてこう語ります。

横浜都市発展記念館 西村健さん

「常盤は多くの人が目を背けたり、見て見ぬふりをしてきたようなテーマ、社会の陰の部分に光を当てました。常盤の写真を考える上で重要なのは、戦争の影響というものが社会的に弱い立場の人ほど強く、そして長く出るという点だと思います」

“親と死別” “人身売買” 女性たちの境遇から戦争の傷跡を知る

常盤は当初、兵士に近づく女性たちに嫌悪感を抱いていたといいます。背景には戦争で父親を奪われた憎しみがありました。

「兵隊たちになんのてらいもなく媚びを売る女たち。女たちの生態の醜悪さ、嫌らしさ」

常盤の写真エッセイ集の言葉から、当時の常盤の思いをうかがうことができます。

しかし、撮影を重ねる中で女性たちと交流していった常盤はその境遇を知ることになります。常盤がカメラを向けた終戦から10年あまりがたった時期に、行政が保護した女性たちから聞き取った内容を記した台帳が残されていました。

神奈川県立公文書館所蔵

「空襲に遇い両親と死別し、浮浪児となった」

「疎開した広島で原爆のため、両親と兄弟3人を失った」
 

神奈川県立公文書館所蔵

売春に至った理由は「転落原因」と表現され、「生活困窮」や「人身売買」と記載されています。本籍地の欄には北海道や石川県、長崎県など。全国各地から女性たちが横浜に集まっていたことがうかがえました。

赤線で働く女性たちも戦争で全てを失い、光が見えない中を必死に生きていることを知った常盤は、晩年、取材に対し、そのころの思いを次のように語っていました。

常盤とよ子(撮影 平成30年)

「食べるのに大変だったという人たちがいるわけですから、みんな必死だった。その女性たちに会えたっていうことで、ただただ写すのみ」

「ゆがめられた現実を少しでも変えたい」

常盤は、赤線で働く女性たちが定期的に受診しなければならなかった性病検査の写真も残しています。

「例外なくこの商売を10年も続けていると、茶碗にひびが入ってくるように自然にからだ全体が侵されてしまうという」

常盤は、病気におびえながらも生活のために働き続けざるを得なかった女性たちの現実と、その危険性を伝えようとしました。

その後、横浜都市発展記念館には、常盤の親族から数千点のネガや写真が寄贈され、調査研究が進められていますが、いま、その大量のネガの中からも、改めて常盤の心境の変化を裏付ける資料が見つかっています。

赤線地帯などでの写真以外に、行政に保護された女性たちの更生施設での様子を写した作品が数多く出てきたのです。

そこには、別の道で生活できるよう講義を受けたり、縫い物を習ったりして、職業訓練に励む姿がありました。女性たちに心を寄せた常盤は寝食を共にしながら撮影し、社会を変えていきたいと発信し続けました。

「彼女たちの陥っているゆがめられた現実が、少しでも正しいあり方にかえれば」

撮影を進め、事実をみつめる中で常盤の姿勢は大きく変化していったのです。

横浜都市発展記念館 西村健さん

「女性たちが自分たちと同じ人間であり、もしかしたら自分も同じような境遇になっていたのではないかという心境の変化があったのではないでしょうか。常盤は女性たちに寄り添いながら、女性たちを取り巻くより深い社会的な問題に対しても目を向けるようになったのだと思います」

「事実を見て下さい」 常盤の視点を語り継ぐ

常盤が亡くなった今、その思いを語り継ぐ動きも出ています。
常盤と半世紀近い親交があり、写真の指導を受けたこともある渡辺脩子さん(77)は、ありのままをとらえる姿勢を学んだといいます。

渡辺脩子さん

「常盤先生は見ちゃいけないものに蓋をするんじゃなく、赤線の女の人だからって目を背けるんじゃなく、『こういう事実を見て下さい』という考えでした」

写真教室で指導する立場となった渡辺さんは、事実と向き合った常盤の姿を次の世代にも伝えていこうと、生徒に初めて語りました。

「常盤先生は必ず『撮る人の気持ちが絶対だ』っておっしゃる。ぶれた写真でも、思いがあれば、『それはいい写真だ』と、常々おっしゃっていた」

受講生
「横浜の中心地が接収されていたのは想像できませんでしたが、写真を見るといろいろなことが分かりました。戦後の記憶も薄れていってしまうので、写真を通して横浜の歴史として忘れてはいけないと思います」

「この人たちがなぜ」レンズの先にあるものは

常盤の資料の中から新たに見つかった1枚の写真。シスターに髪を切ってもらっている子どもの姿がとらえられています。撮影された場所は、戦後に外国人兵士と日本人女性の間に生まれ、親が育てられなくなった子どもを多く預かっていた、横浜市の孤児院です。

聖母愛児園所蔵

残された当時の資料からは、路上や駅など、過酷な環境で放置されて保護されたり、幼いまま亡くなったりした子どもがいたことが記されています。西村さんは、見つかった写真からは、赤線で働く女性たちを撮り続けた常盤が、その先にいる子どもたちにも心を寄せていたことがうかがえると話しています。

戦後10年がたち、次第に復興に向かう社会の陰で取り残された女性や子どもたち。

写真家・常盤とよ子はカメラを構えるときの心情をこう残していました。

常盤とよ子

「写真を写すたびにいろいろ考える。『この人たちがなぜ』って、いつも思っていました。これからも『なぜ?』と思い続けていこうかと」

社会に厳然としてある弱い立場の人の苦しみを、見て見ぬ振りをしていないか、「そういうものだ」と切り捨てていないか。

常盤の写真は、いまを生きる私たちにもそう訴えかけてきているように思うのです。
 

撮影等のクレジットがある画像と本人の姿の画像を除いたモノクロ画像
撮影:常盤とよ子/寄贈:栗林阿裕子/横浜都市発展記念館所蔵

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