デザイナーで作家の太田和彦さん。大手化粧品メーカーでアートディレクターとして活躍したあと、独立。近年は“居酒屋作家”として人気の太田さんも、現在76歳。エッセー『70歳、これからは湯豆腐』『75歳、油揚がある』(共に亜紀書房刊)につづる、高齢になった自分を見つめる独自の過ごし方が話題を呼んでいます。
太田さんは日々、自ら“秘密基地”と称する元仕事場に通い続けています。どんなふうに過ごし、どのように“老い”と向き合っているのか、ある1日に密着しました。
放送内容と共に、こぼれ話もあわせてお届けします。
(ひるまえほっと/西村美月)
朝9時半頃。黒のシンプルな上下に身を包んだ太田和彦さんと待ち合わせました。案内された“秘密基地”は、太田さんの自宅から徒歩15分ほど、都内の閑静な住宅街にあるマンションの一室。もともとは、長年デザイン事務所を構えていた場所です。会社は2020年夏に解散。しかし愛着がありこの部屋を借り続けて、土日を含む毎日通っているといいます。
太田さん
「いいところを見つけたなと思って。ここは半地下なんだけど外光が入るのがいい。テラスの緑は長年面倒を見ている古なじみで、捨てられない」
太田さんは著書『70歳、これからは湯豆腐』にこのように記しています。
60歳。学生気分に戻って部屋を借りよう。よみがえる青春。あこがれのひとり暮らし。(中略)自炊も洗濯もするのは学生時代と同じ。困ったら自宅に帰るのも同じか。何のためにそうするか。会社にも世間にも家族にも誰にも遠慮せず、人生をもう一回はじめてみるためだ。『70歳、これからは湯豆腐 ―私の方丈記』より
太田さん
「何でも自分でする。汚したら自分で洗う。床掃除も誰もやってくれないのが、“秘密基地”。いざというときの自立の訓練になる。私の場合は仕事場をそのまま維持しているが、例えば庭のある家なら庭の奥に物置を置いて自分専用の場所を作ったり、近所に安価なアパートを借りて下宿するのもあり。お風呂はなくていいし、一間で十分。それも難しければ、定期的に通う場所を見つけるのも一考。大切なのは、自宅を離れて自分で何かする場所を持つということ。家の中だとつい家族を頼ってしまう。それを避けるためにも、日中は外に出ることが大切」
大学入学と同時に地元の信州松本から上京し、ひとり暮らしが始まった太田さん。つまり太田さんにとって、“秘密基地”は、上京したときのワクワク感への回帰でもあるんですね。しかし決して、今ひとり暮らしをしたいわけではないと言います。毎日帰る場所があり、晩酌の時間には妻との語らいも欠かせません。その上で、昼間はお互い自由に過ごす代わりに自分の面倒は自分で見る。それが夫婦円満の秘訣なのだと、照れながら話す太田さんが印象的でした。
太田さんの一日は、コーヒーをじっくりいれるところから始まります。それを持って向かったのは、仕事机。メールチェックや執筆から取り掛かりました。
そんな太田さん、仕事をするときのスタイルはこちら。
なんと、立っているんです。机の上に収納ボックスと板を置いて、その上にパソコンを乗せた即席作業台で、2時間程集中してパソコンに向かいます。
太田さん
「メリットは背筋がしゃんとすること、猫背にならないこと。資料を置ける場所も多いし、必要な資料を取りに行くにも便利。2時間もして疲れてくると、座って書いたところを見直したりします」
ひと仕事終わると、お昼の時間。太田さんは“秘密基地”で過ごす日はほとんど自炊します。その料理風景も見せてもらいました。
“秘密基地”のキッチンは単身世帯用でコンパクトなため、段取りが大切だそう。まず、パスタをゆでるお湯を沸かします。その間に、冷蔵庫にある具材の下ごしらえ。香りづけのにんにくやアンチョビ、だしが出るのでおすすめというまいたけ、ベーコン、ピーマン、そして上に飾りつける種なしオリーブなど、具だくさん。お湯が沸いたらいったん鍋を外してフライパンを熱して具を炒め、具ができたら鍋を戻してパスタをゆでます。手際よく進め、さらにヒトワザが…
パスタをゆでている鍋のふちに菜箸を渡し、フライパンを上に。
太田さん
「こうすると、具が冷めないのよ」
作業開始から20分ほどで、太田さん特製「ベーコンとピーマンのトマトソースパスタ」のできあがりです。
太田さんは、毎日“秘密基地”に通うからこそ、料理が生活の一部になっているといいます。
太田さん
「ひとりだと誰もつくってくれないから、自分でつくって食べるしかない。凝るとどんどんおもしろくなるよ」
筆者
「家ではつくらないんですか?」
太田さん
「一度『俺パスタつくるのうまいんだよ』と言ったら、妻に『つくって』と言われてつくったけど、家のキッチンは妻の場所になっていて、作業しはじめたとたん『そこに置いちゃだめ』『それはダメ』って。それ以来、家では『つくってほしい』と言われなくなってしまった」
家のキッチンの使い方は家庭によりさまざま。夫婦・家族で上手に共有している方も多いと思います。
太田さんのように家でキッチンに立つ機会がない人でも、ひとりだけで過ごす“秘密基地”を持つことによって、ひとり暮らしのように「何でも自分でやらなければいけない」という緊張感を持つことができ、万が一のときにも自分で自分の面倒を見ることができる心構えのアイデアなのだなと、お聞きしながら思いました。太田さんにとっては自炊も“ひとりで生きる覚悟”を楽しむ一つの方法なんですね。
ちなみに太田さんは、冷蔵庫に「ぬか床」も常備。うどんやそうめん、ごはんが主食の日には欠かせないそうですよ。
午後は太田さんの自由時間。“秘密基地”では、誰に遠慮することなく、ゆっくりと好きなものと向き合えると、太田さんは言います。
“秘密基地”には、太田さんが社会人になった頃から集めたレコードがたくさん!しかし、じっくり好きな音楽にひたる時間を持てたのは、60歳を過ぎてからだそう。還暦祝いに自分で購入したオーディオセットで楽しむのが至福の時です。
太田さん
「これだけコツコツ買い集めたレコードを、味わなくちゃもったいないじゃないかと思ってね。“秘密基地”にいる限り、すべて自分の自由な時間なのでその間こうやっているんだけどこんな贅沢はなくてね」
太田さんの趣味は多岐にわたります。デザイナーならではのセンスが光る小物や美術品収集もそのひとつ。“秘密基地”のあちこちに飾られている金属製の置物や、フィギュア、そして額に入った絵。ほとんどが、旅先などで数百円~千円ほどで購入したものだそうです。
お母様と金沢旅行した際にプレゼントした文鎮。お母様が亡くなり太田さんの手元に。
古本屋や雑貨店の片隅に積み上げられた浮世絵や版画の束は、太田さんにとって宝の山。
その中からお気に入りを連れて帰り、丁寧に額装して飾るのが、太田流。
太田さん
「ブランドや名声にこだわらず、自分が発見したものが、自分にとっての本当の価値がある作品だと思うのね。誰に見せるわけでもないのだから。大切なのは、きちんと飾って愛でる時間。いろいろ集めても捨てられなくて段ボールに詰めてしまってあるだけではだめ。家だと家族に『邪魔』と言われて捨てられてしまうこともある。“秘密基地”なら、誰に遠慮することなく飾って愛でる時間が持てますよ」
実は筆者にも、お気に入りのポストカードや雑誌の切り抜きを飾る趣味があります。マスキングテープで縁取りをし、丁寧に壁に飾った時の満足感といったら!(ひとり暮らしなので満喫しています。)誰に見せるわけでもない自分だけのこだわりを貫けるのが“秘密基地”という話で、個人的にもっとも共感したエピソードでした。
日々、学生時代に戻った気分で“秘密基地”に通い続ける太田さん。そこには、70歳、75歳と歳を重ねるにつれて変化した「老い」への切実な思いがあったといいます。
太田さん
「還暦(60歳)になった時は、教え子たちが新宿の居酒屋に集まって『太田先生の還暦を祝う会』をやってくれて『俺が還暦だからまったく笑っちゃうよ』なんて超ご機嫌だった。しかし10年経って70歳になった時は、祝う気持ちはゼロで、いよいよ高齢者だなあと、しんみりしてしまった」
その思いから、70歳の自分を淡白ながらも味わい深い「湯豆腐」に例えるエッセーを出版。
全国の居酒屋を訪ね歩く活動的なイメージの太田さんが「老い」と向き合う姿は反響を呼び、現在も重版を重ねています。
そして5年後、さらに心境の変化が訪れます。
太田さん
「75歳…後期高齢者になったとき、あと人生が何年あるかと思ったら本当に青ざめた。そのとき強く思ったのは、ここはもう後悔のない生き方をしなくちゃいけない、75歳の今までに自分がやってきた音楽の趣味や仕事、勉強のつもりで心の中に持ってきたものをもう一度総点検して、“自分はいったいどういう人間になったんだろうか”ということを見つめ直し、真の意味で“自分という人間を完成させたい”というアクティブな気持ちが起きてきた」
その思いを、太田さんは豆腐を加工した「油揚げ」に見立て、『75歳、油揚がある』を執筆したのです。
豆腐を油で揚げた油揚は、姿も食感も味も一変。新たに生まれた独自の個性は、煮てよし、焼いてよし、包んでよし。(中略)人生にも進化や昇華はあるだろうか。経験が昇華して新たな境地に至るのなら、長く生きる価値がある。『75歳、油揚がある』より
太田さん
「“何もかもひとりでやらなくてはいけない”ということが、自分をもう一度鍛え直すと思う。そして、今まで自分が培ってきたものと付き合い利用して、進化、昇華していきたい」
夜9時になり、帰り支度をして“秘密基地”から出た太田さんに改めて「“秘密基地”はどんな場所?」と尋ねたとき、「ひとりでいることを楽しむ場所。ひとりで生まれて死んでいくのだから、それに慣れておくというのかな。楽しんでいますよ。ストレスゼロです」と、笑顔で話してくださったのが心に残りました。
「人生百年時代」といわれるものの、好きなことや趣味を楽しみたいと思いながらもどこか家族への罪悪感を覚え踏みとどまっている人や、職場という自身が長年過ごした場所を失い、途方に暮れている人もいるかもしれません。今回紹介した太田さんの“秘密基地”での時間、その背景が描かれたエッセー『70歳、これからは湯豆腐』『75歳、油揚げがある』には、家族への配慮と、自由時間が増えた今こそ好きなことを心ゆくまで堪能したいという、二つの思いに対する共存のアイデアがありました。それが、現役時代がむしゃらに働き、定年を迎えて自由時間が増えた、筆者の父を含む同世代の共感を得て、背中を押してくれる気持ちになるのだなと感じました。
なお“居酒屋作家”として人気の太田さんは、旅も居酒屋も「ひとり」で楽しむのが流儀。「ホテルの手配から移動手段、その日の食事まで、すべての行動に責任を持つ訓練になる」「高齢者は新開拓ではなく、訪れたことがある好きな街、好きな店の再訪を楽しむ」という考えは、“秘密基地”で、自立を楽しみ、好きなものにとことん向き合うという、現在76歳の太田さんの思いが貫かれています。興味がある方はぜひ、上記エッセーをのぞいてみてくださいね。
●「見逃し配信」はこちら!(放送から1週間ご視聴いただけます)