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『ゴジラより撮りたい』 円谷英二監督が映画化も企画 千葉・習志野の飛行家 「伊藤音次郎」の歴史を後世に

  • 2024年6月11日

「本当はゴジラよりも撮りたい」

ウルトラマンやゴジラで知られる円谷英二監督が、そう話したとされる幻の映画「日本ヒコーキ野郎」

主人公の1人、飛行家の伊藤音次郎は、大正・昭和の時代に千葉市や習志野市で草創期の飛行機開発に挑んだ人物です。

円谷監督をはじめ、さまざまな人を引き付ける音次郎の人生。栄光と挫折を繰り返した、激動の人生を追いました。

(千葉放送局記者・渡辺佑捺)

(※2024年6月12日に円谷監督などに関する記述を追加し、誤字を修正しました)

「伊藤音次郎」を伝える元教師

2024年5月、習志野市で開かれた講演会。講演のテーマ「伊藤音次郎」は、かつてこの地域で草創期の飛行機開発の歴史に名を刻んだ人物です。

講演をしたのは、地元の元小学校教師・長谷川隆さん(73歳)。音次郎の功績について調査し、広める活動を続けています。

長谷川さん

音次郎は、多くの飛行機で航続距離が非常に短い、10~20分しか飛べない時代に、55分間にわたって飛行し、東京都心まで往復65キロ、高度500メートルで行って帰ってきたんです。

ライト兄弟に憧れて…

明治24年、大阪で生まれた伊藤音次郎。17歳のとき、世界初の有人飛行に成功したライト兄弟の映像を見て、飛行機の開発を志しました。

20歳のころの音次郎

初めて飛行に成功した国産機の開発者・奈良原三次に弟子入りしたあと、大正4年に24歳で独立します。

音次郎が自らの研究所を立ち上げた場所は、現在の千葉市美浜区。現在、この地域は住宅街になっていますが、公園の一角には「民間航空発祥の地」という記念碑が建っています。

稲岸公園にある記念碑

この地域、埋め立てられる前は砂浜でした。砂が堅く、障害物がないまっすぐな海岸だったことから、飛行機の滑走路として格好の環境だったとされています。

大正5年に撮影された、現在の千葉市美浜区の海岸の映像です。多くの飛行機が滑走路として試験飛行を繰り返していました。

ただ、砂浜は海水を含んでいるため、飛行機の金属がさびないよう、毎回真水で洗わなくてはいけなかったそうです。

音次郎が一気に名を上げたのは独立の翌年・大正5年。短い木材を継ぎ足し、中古のエンジンを積んで手作りした飛行機「恵美号」で、千葉から東京の往復飛行を初めて成功させます。

音次郎と手作りの「恵美号」

1時間近くの飛行はほとんど成功例がなかった時代。その快挙は、新聞でも大きく報じられました。

東京朝日新聞 大正5年1月9日付
(国会図書館蔵)

音次郎は招待を受けて全国各地を巡回。向かった先々で大歓迎を受けました。

大阪・新世界での飛行(大正6年)

また、音次郎は飛行士の育成にも励み、国内初の女性飛行士、兵頭精(ひょうどう・ただし)などを輩出。全国各地に招かれて巡回飛行を行うなど、草創期の航空業界をさまざまな形でリードしていきました。

兵頭精(撮影:齋藤俊雄さん)

音次郎に「どっぷり浸る」

元教師・長谷川さんが、音次郎について調べ始めたのは12年前。きっかけは、教師を辞めた後に勤めていた公民館の生涯学習相談員として、偶然、音次郎の娘から相談を受けたことでした。

長谷川さん

突然、音次郎の娘から「自分の父のアルバムが手元にあるんだけれども、有効活用できないだろうか」と伺いました。

音次郎については、小学校の社会の副読本に掲載されていたのを斜め読みしていた程度で、ほとんど知りませんでした。

いい機会だと思って調べ始めたのですが、それ以来どっぷりと音次郎に浸っています。

音次郎の人生に魅了され、すべて記録として残そうと思い立った長谷川さん。大きな手がかりとなったのは、音次郎が晩年まで書き続けてきた日記やメモです。

書き起こされた音次郎の日記

少年時代から亡くなるまで、飛行機の開発や失敗の日々について細かく記録していた音次郎。長谷川さんは、60年分の音次郎の「生の声」をすべて読み込みました。

 

大正5年1月8日、音次郎が初めて東京への往復飛行を成功させた日の日記には、「東京ヘ飛ンデ行クベク決心シタ」と書かれています。

画像提供:日本航空協会
長谷川さん

音次郎は東京への訪問飛行をその日にいきなり決心していました。

ガソリンも予備がないので千葉まで買いに行かせ、ようやく飛び立つという貧しい飛行家でもありました。

栄光におごらず、挫折にめげず

ところが、音次郎には試練がたびたび訪れます。独立から2年後の大正6年10月、台風による高潮で、研究所の建物が自宅とともに全壊してしまいます。

全壊した研究所(最前列中央が音次郎・大正6年)

あきらめない音次郎は、支援者にも恵まれて資金を工面し、翌年には現在の習志野市鷺沼に研究所を再建。そして、数々の「名機」と呼ばれる飛行機の開発を手がけました。

音次郎が開発に携わった飛行機

しかしその後、待っていたのは厳しい開発競争です。軍からの仕事を積極的に請け負った中島飛行機(現在の「SUBARU」)などに押されて経営難が続きます。

中島飛行機の工場(昭和9年撮影)

一方で、あくまで民間事業にこだわったとされる音次郎。事業が立ちゆかなくなり、経営の座を追われることになります。

それでも技術者の1人として会社に残り、終戦後、GHQによって飛行機の製造が禁止されるまで開発に携わり続けました。自らの会社が業態を転換していく中、「飛行機を作らないなら」と身を引いたといいます。

長谷川さん

ライト兄弟の飛行の様子を活動写真で見て、「飛行家になるんだ。飛行機を作るんだ。飛行機で物と人を運ぶんだ」と誓いを立てて、栄光にもおごらずに、挫折にもめげすに、少年の日の夢を思い続けていたんです。

引退後 向かった場所で“運命”

航空業界から身を引いたあと、音次郎は農業を始めるため農地の開墾を行います。その場所は、現在の成田市の竹林でした。

農業を始めて約20年後の昭和40年代。音次郎の農地は、偶然にも、成田空港の滑走路の予定地になります。

成田空港B滑走路

当時、農家の間では空港建設に否定的な声が強い中、音次郎は土地提供者「第1号」の1人として真っ先に手を挙げました。ほかの農家への説得にもあたり、再び生まれた飛行機とのつながりを歓迎していたといいます。

長谷川さん

苦しい開墾の末に作った農地をとりあげられても、少しも悔いはなかったようです。

飛行機から離れたはずなのに再び接点ができるとは、「運命のいたずら」ですね。

また、そのころ、ゴジラやウルトラマンなどでヒットを連発していた円谷英二監督は、音次郎や同時代に千葉の海岸で飛行機の開発を行っていた多くの飛行家たちのことを知り、「日本ヒコーキ野郎」というタイトルで映画化を企画しました。

円谷監督は音次郎と何度も面会。「本当はゴジラよりも撮りたい」と述べ、体調を崩した療養先でも企画書をまとめていたとされますが、昭和45年、監督が亡くなったことで映画化は幻に終わりました。

そして、音次郎もその翌年(昭和46年)に80歳で亡くなっています。

「伊藤音次郎」 を現代に

2024年5月の長谷川さんの講演会には、音次郎の娘・井上和子さん(91歳)も訪れました。長谷川さんに日記などの資料を提供し、調査のきっかけを作った人です。

左から3人目が井上和子さん
井上さん

父のことをお話ししてくださって、ありがたいです。

自分の父なのですごい人だとかは思わないけど、100年くらい前に、飛行機をやっていた人間がいたことを知っていただけるといいと思います。

長谷川さんは去年、研究の成果を1冊の本にまとめました。また、集めた写真を展示する企画展も開催しています。

現在、地域には飛行機開発の痕跡はほとんど残っておらず、音次郎のことも広くは知られていません。長谷川さんは、移り変わりの激しい現代社会にこそ、音次郎の生きざまを伝えていきたいと考えています。

長谷川さん

夢を諦めずに持ち続けて挑戦し続ける心は、いまの時代に本当に必要じゃないだろうかと思います。

音次郎の生き方はその1つの典型で、私は自分ではそこまでできなかったけれども、音次郎の生き方を伝えることならできると思い、活動を続けています。

長谷川さんは、これからも音次郎について調査を進めていくことにしています。

長谷川さん

音次郎は日本中を飛行して回っています。ですので、日本中で「伊藤音次郎がわたしの村にも来ていたよ」という話が出てくるのではないかと思っています。

ぜひ、そういった言い伝えを寄せてもらえるとありがたいです。特に、音次郎が昭和4年に作った「日本軽飛行機倶楽部」の歌を知っている人がいたら、教えていただきたいと思います。

これからも、定年後に見つけたライフワークとして、音次郎の記録探しを生きがいにしていきたいです。

「首都圏ネットワーク」での放送内容は、「NHKプラス」で6月18日(火)午後7時までご覧いただけます。

取材後記

幼いころ抱いていた夢が誰しもあるのではないでしょうか。

音次郎は17歳になって夢を見つけたあと、独学で飛行機について学び始めたり、単身で上京することを決めたりしました。独立後も台風による高潮の被害のあと、わずか半年で拠点を移して再建を図るなど、決断力や実行力には驚かされます。

それもすべては、「飛行機を作りたい」という夢を抱き続けていたからこそ。幾度もつらい経験も重ねながらも、いつまでも少年の心を忘れない姿に、私も胸を打たれましたし、長谷川さんも円谷監督も魅せられていたのだと感じました。

円谷監督が撮りたかった「日本ヒコーキ野郎」が、いつか現実のものになったらいいなと思います。

  • 渡辺佑捺

    千葉放送局記者

    渡辺佑捺

    千葉県政・経済担当。理系に進んだら航空宇宙工学を学びたいと思っていました。

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