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「渋沢栄一は国の恩人」 アルメニア難民支えた知られざる歴史

  • 2021年10月06日

今年7月、東京オリンピックの開会式に出席するため訪日中だったアルメニアのアルメン サルキシャン大統領は東京都北区を訪れ、渋沢栄一のひ孫、渋沢雅英さん(96)にメダルを手渡しました。いまから100年前、渋沢がアルメニア難民に差しのべた支援に対する感謝の念を表すためです。「日本資本主義の父」渋沢栄一が晩年に尽力した人道支援、国際貢献についてお伝えします。

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アルメニアと日本 知られざる絆

日本から西におよそ7,700キロ、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス諸国のひとつ、アルメニア。いまから30年前に旧ソ連から独立し、日本と国交が結ばれた国ですが、この国の歴史にはそれ以前から日本の名が深く刻まれています。

アルメニア難民の子孫であり、日本でも接種が進む新型コロナウイルスワクチンの製造元のひとつ、アメリカ・モデルナ社の共同創業者、ヌーバー・アフェヤン氏は、こう話します。

モデルナ共同創業者 ヌーバー・アフェヤンさん

ヌーバー・アフェヤンさん
私達アルメニア人の先祖は多くの支援を受け、命を救われました。世界の様々な国や機関、
そして日本人にも助けられました。

世界各国の支援で先祖が助けられたというアフェヤンさん、日本でいち早く支援に動いたのが渋沢栄一でした。

アルメニア人を襲った悲劇

渋沢が支援したアルメニア難民はなぜ生まれたのか?第一次世界大戦下の1915年、トルコ系のオスマン帝国は領土内に住む異民族、イスラム教に改宗しない異教徒に対する弾圧を始めます。キリスト教の一派、アルメニア正教を信仰するアルメニア人もその対象でした。

アルメニアの首都エレヴァンにあるジェノサイド博物館によれば、1915年から1923年にかけておよそ150万人のアルメニア人が亡くなったと言います。これは第一次世界大戦前に住んでいたと推定される人口の4分の3に当たります。また、故郷を追われた難民の数は60万に上ると見られています。(現在のトルコ政府はこの数字を否定しています。)

グラント・ポゴシャン元駐日アルメニア大使

元駐日アルメニア大使のグラント・ポゴシャンさんは、祖父ゲボンドさんから厳しい逃亡生活の様子を聞いて育ちました。ゲボンドさんは12歳のとき、母に連れられ、弟・妹とともに隣国のロシアに逃れました。

ポゴシャンさんの祖父 ゲボンドさん

グラント・ポゴシャンさん
祖父の母は3人の子どもを連れて、東へ東へ、600キロ以上逃げました。食べるものもほとんどなく、2歳だった祖父の妹は途中で亡くなりました。逃亡中、祖父たちを哀れんだクルド人の一家にかくまってもらったこともあったようです。なんとかカラバフ山の山頂にある大聖堂に逃げ込むことができましたが、着いた翌日、力尽きた祖父の母は亡くなりました。いまの私があるのはこの祖父の母のおかげです。

大聖堂に着いた後も苦労は続きました。弟と生き別れてしまったのです。逃げ延びた先でなんとか身を立てたゲボンドさんが、アメリカの孤児院に保護された弟と再会できたのはお互いに家庭を築いてからのことでした。

孤児たちを救った渋沢の支援

ゲボンドさんのように、親を亡くした孤児たちに、日本でいち早く救いの手を差しのべたのが渋沢栄一でした。1922年、自らアルメニア難民救済委員会の委員長を買って出ると、「みすみす四十万人の孤児が、餓死しますよ」と訴え、寄付を募ったのです。

寄付金の中には、アルメニアの孤児たちの窮状を知ったある学園の少年少女数百名が持ち寄ったお金もありました。これを知った渋沢は、「子どもの涙、これこそ貧者の一灯です。日本の子どもの誠意はきっとアルメニアの孤児の胸へ届くでしょう」と大いに喜びました。このとき、渋沢が送った9,000ドルの資金は、孤児たちの生活支援に使われたと見られています。
 

渋沢雅英さんとサルキシャン大統領

100年の時を経て、再評価される渋沢栄一のアルメニア難民支援。今年7月、アルメニアのアルメン サルキシャン大統領は東京北区の渋沢史料館を訪れ、渋沢栄一記念財団の相談役であり、栄一のひ孫にあたる渋沢雅英さんに面会します。

「私にとって、すべてのアルメニア人にとって、きょうの訪問は重要な意味を持ちます。1915年、故郷を追われたアルメニアの家族たちにパンを与えてくれたことに感謝したい。あなたの曽祖父は多くのアルメニア人を救った人です。さらに重要なことは、生き残った人々に希望を与えてくれたことです。きょうがどんなに苦しくても、希望さえあれば人はやり直すことができるのです」と渋沢栄一への謝意を述べたサルキシャン大統領は、雅英さんに感謝のメダルを手渡しました。 
 

渋沢栄一の功績を称えるメダル

渋沢雅英さん
アルメニアが今日あるのはこのときの栄一の支援のおかげだ、という意味のことをおっしゃいました。光栄だし、ちょっと驚きもしましたね。

共存共栄なくして国を為すことなし

70を過ぎ、会社経営などの実業から身を引いた渋沢が精力を傾けた人道支援。とはいえ、日本とのつながりが薄いアルメニアの難民に手を差しのべたのはどうしてなのか。その理由は、生前、ラジオで語ったこの言葉に現れています。

「共存共栄でなくては、国際的に国を為して行くことは出来ないのであります。(中略)真正なる世界の平和を招来せんことを、諸君と共に努めたいのであります」

アルメニア難民の子孫で、我々に日本とアルメニアの関係を話してくれたヌーバー・アフェヤンさん。いまから6年前の2015年に創設したのが「人道のためのオーロラ賞」です。毎年、世界各地で人道支援に取り組む人たちを表彰しています。

これまで、内戦で親を亡くした孤児たちおよそ3万人を保護したブルンジの女性やミャンマーの公民権運動に尽力したロヒンギャの弁護士などが受賞してきました。

われわれのリモート取材に対し、アフェヤンさんはオーロラ賞に寄せる思いをこのように話してくれました。

ヌーバー・アフェヤンさん
私たちは救われ、生きるチャンスを与えてくれたのなら、その感謝の気持ちを次の人へと受け渡していくべきなのです。私たちは支え合いによって生き残り、これからも前へ進んでいくのです。

「支え合って前に進む」、アフェヤンさんの言葉は渋沢の思い描いた共存共栄の精神と一致するものでした。

渋沢のアルメニア難民支援から100年、その間も世界の紛争は絶えることなく、いまも難民は生まれ続けています。不幸の連鎖を断ち切るにはどうすればいいのか。ともすれば、社会の分断が懸念されるコロナ禍の日本にあって、私たちがまずすべきことは困っている隣人に手を差しのべ、ともに歩もうとする渋沢栄一の博愛の志を受け継いでいくことなのかもしれません。

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