【らんまん】牧野博士とあたみ桜の関係は?
- 2023年05月31日
連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルで植物学者の牧野富太郎博士と、早咲きの桜として知られる「あたみ桜」には、実は深い関係性があります。桜を掘ると、熱海の歴史が分かる?あたみ桜の今昔物語、取材してみました。
(伊東支局記者 武友優歩)
「あたみ桜」と牧野博士の意外な関係
沖縄の桜と並んで日本で最も早く、毎年1月から2月上旬にかけて開花する「あたみ桜」。ことしも一足早く桜を見ようと、各地から多くの観光客が熱海を訪れていました。
しかし、この「あたみ桜」が、連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルとなっている植物学者・牧野富太郎博士によって鑑定されたことは、ほとんどの人が知らないのではないでしょうか。
なぜ牧野博士が鑑定することに?
なぜ、遠く離れた高知県出身の牧野博士が、あたみ桜を鑑定することになったのか。
鍵を握るのは、熱海市で江戸時代から続く老舗旅館「古屋旅館」の館主、故・内田勇次氏。
大正から昭和にかけてあたみ桜を市内各地に植える活動を行い、あたみ桜を広めた立て役者として「花咲か爺さん」と呼ばれ、熱海では知る人ぞ知る人物です。
ことの経緯が、内田氏の著書に書かれていました。
今からさかのぼることおよそ90年前、昭和10年ごろ。
皇居であたみ桜が咲き、当時の皇后さまが写生担当の日本画家に産地を尋ねられたそうです。画家は内田氏に問い合わせましたが、内田氏も分かりませんでした。
そこで内田氏は、当時、古屋旅館に泊まっていたジャーナリスト、徳富蘇峰に相談。牧野博士にお願いしたらよいとアドバイスを受け、枝を1本牧野博士に送って鑑定を依頼しました。
すると、牧野博士から返事が。
“これは寒桜の一種で、原産地はインドのダージリンで、そこでは上向きに咲くが、日本の方が気温が低いので下を向いて咲く、極めて珍しいものです”
(内田勇次『熱海桜の由来』より)
意外にも、あたみ桜は日本が原産の桜ではないんですね!もともと、あたみ桜は明治4年ごろに熱海を訪れたイタリア人が、滞在していた旅館に苗木を寄贈したことが始まりなのだそうです。
牧野博士が熱海の繁栄策も提案?
牧野博士はあたみ桜を鑑定しただけではなく、熱海の繁栄策も提案してたんです。
当時、桜を広める内田氏らの活動では桜は熱海の各地に点々と植えてありました。
これを知った牧野博士が提案したのは、桜を分散して植えるのではなく、一定の場所にまとめること。列になるように植えて、林を作るようにとしています。また「違う色の花をつける2種類の苗木を1000本ぐらいずつ植えること」と、2色展開にすることもアドバイスしています。
“熱海のような暖地では早くも1月から開花するので、熱海ではもうサクラの花が咲き、それが二色の咲き分けとなっているとて、とても評判になり、ソラ熱海のサクラの花見に行けとて押しかけるワかけるワ、汽車はいつも満員であろう。マーやってごらんなさい。きっと当たるよ”
(牧野博太郎『続植物記』より)
なるほど。あたみ桜の“早咲き”という利点を生かして観光客を呼び寄せる見どころを作るということ。先見の明がありますね。それにしても、かなり細かい戦略を考えていたことがよく分かります。文章からは、お茶目な人柄もうかがえます。
牧野博士の策はうまくいかなかった!?
今ではあたみ桜は早咲きの桜として有名になり、毎年、一足早く桜を見たい観光客でにぎわいます。牧野博士が提案した繁栄策の通りにあたみ桜を植えたことが人気のきっかけになったのかと思いきや、ここまで来るまでの道のりは一筋縄にはいかなかったようなんです。
桜を広めた立て役者である内田氏の著書には、牧野博士の提案について書かれた部分があります。
“牧野博士は何べんやっても道路に植えた苗が盗まれてしまうことや、その後、私の苦心の方策のほどをご存知なかった”
(内田勇次『熱海桜の由来』より)
牧野博士の策はすでに行っていましたが、うまくいかなかったということでしょうか・・・?では、内田氏が桜を広めた策は、どんなものだったのでしょう?
熱海の「花咲か爺さん」の苦労
内田氏が存命のころは、桜を広める活動の手伝いもしていたという、孫の進さん(77)にお話を聞きました。
内田氏の活動の始まりは、大正初期。イタリア人が寄贈した初代のあたみ桜が枯れそうになったため、切り株から出てきた芽を譲り受け、梅が散った後の熱海の名物にしようと自費で繁殖に取り組んだといいます。牧野博士と同じく、あたみ桜が“早咲き”である点に着目したのですね。
内田氏は最初、桜の苗木を熱海の錦ヶ浦街道と呼ばれる海岸線沿いの道路の脇に植えました。しかし、何度やっても全て盗まれてしまったといいます。
そこで考えたのが、熱海の街なかの家を訪問して無料で苗を配り、庭の空いているところなどに植えてもらう方法です。こうすることで、盗難を防ぐことができます。大正11年ごろから行われたこの活動は成功し、市内のあたみ桜の本数を増やすことに成功したといいます。
この活動は長年続けられ、進さんの昔の記憶にも、桜の苗木を植える季節には古屋旅館の玄関に苗木がまとめて置かれ、希望者が取りに来ていた記憶があるそうです。
あたみ桜は、早咲きの珍しさから徐々に全国の関心を集め、テレビでも取り上げられるようになったそうです。内田氏のもとには全国から寄贈してほしいと依頼があり、著書には1万本もの桜を寄贈したと書かれています。すごい数ですね!
今回の取材では、内田氏の活動をたどる記録をぜひとも見せていただきたいと進さんに依頼しましたが、残念ながら記録はほとんど残っていないそうです。唯一残っているのは、牧野博士に鑑定を依頼するきっかけとなった当時の皇后さまの写生担当の画家が、内田氏のために描いたあたみ桜の絵。進さんに、特別に見せていただきました。
近くで見ていた進さんは、祖父の活動をどう感じていたのでしょうか?
「元々熱海は冬はお客さんが全然来ず、非常に暇で、なんとかお客さんを呼ぶ方法がないだろうかということで祖父が目をつけたのが桜でした。土地に対する愛着が強く、この土地をなんとかしないとという思いだったのでしょう。最初はたった1本の木で、祖父が途中で断念すればなくなる可能性があったので、よく残してくれたなと思います。観光人としても尊敬する祖父で、生きているうちにもっと聞いておけばよかったということがいっぱいあります」(内田進さん)
内田氏が生涯をかけて取り組んだあたみ桜の普及活動は内田氏が亡くなった後も続けられ、のちに市の事業になりました。盗まれることもなくなった桜は、市内の「糸川」の遊歩道沿いや広場などに植樹されました。今や、あたみ桜が咲く季節には多くの観光客が訪れる、一大観光スポットになっています。
(おまけ)今も庭で桜を育てている人が・・・
ここからはおまけです。
取材を続けていると、今も市民の家の庭先であたみ桜が植えられているケースがあることが分かりました。熱海といえば、狭い急斜面に家が建っているイメージ。昔はともかく、今も内田氏のスタイルで庭先に植えるのは難しいのでは?そう思って、実際に育てている方を訪ねてみました。
市の元助役(今でいう副市長)、水谷昭さん(79)です。庭にはみかんの木に並んで、あたみ桜が今も植えられていました。庭先に桜があるのって、なんだか素敵です。
この桜の木は、水谷さんが助役だったおよそ20年前に、市から苗木を買って植えたといいます。
市ではこのころ、あたみ桜の普及のため市民にあたみ桜の苗木を販売していました。市によりますと、平成17年度から21年度にかけて587本を販売した記録が残っているそうです。
水谷さんの家にあたみ桜が植えられるのは実は初めてではありません。6歳で今の場所に引っ越した当時、もともと桜が1本あったそうです。すでに枯れてしまっていますが、今も敷地内に残されていました。
昔から桜とともに暮らしている水谷さん。水谷さんにとって、桜はどんな存在なんでしょうか。
「身近な存在ですね。あたみ桜はほかの桜より早く咲くから、誇らしい気持ちがあるんだよね。良いイメージがあったので、新しく1本もらって育てているけど、やっぱり愛着があります。生まれ育った街の名前がついた桜だしね」(水谷昭さん)
今も昔も、市民に愛される「あたみ桜」。来年も全国に先駆けて美しい花を咲かせることでしょう。“先人の知恵”によって繁殖した桜だということを知ったあなたは、来年の桜がひと味違ったものに感じるかもしれません。