選挙を知ろう

選挙で振り返る戦後日本(前編)

今回は、「世の中の仕組みや動き」と選挙がどう絡んでいるのか、日本の戦後の歴史を振り返りながら考えてみよう。

シケセン⑥

《終戦直後》 憲法よりも選挙が先

まずは、終戦直後の選挙を巡る動きから見てみよう。

1945年に太平洋戦争が終わってから、最初の衆議院選挙がいつ行われたか、わかるかな?

女子高生

戦後、復興が大変だったろうし、実際の選挙はだいぶ時間が経ってからじゃないかな?

戦後初めての衆議院選挙が行われたのは、1946年4月10日。

日本国憲法が公布される半年以上も前に、衆議院選挙は行われていたんだ。当時はまだ大日本帝国憲法下で、今の「国会」は「帝国議会」と呼ばれていた。ちなみに憲法は変わっても、「衆議院」の名称は残ったんだ。1890年(明治23年)の第1回の衆議院選挙から数えて、通算22回目の衆議院選挙だった。

この衆議院選挙から、それまで「満25歳以上」だった選挙権年齢が「満20歳以上」に引き下げられ、さらに、女性にも選挙権が認められたんだ。

戦前も、納税額に関わらずに投票できる「普通選挙」が実施されていたけれど、それは男性に限られていた。それが、この選挙から女性に選挙権が与えられ、39人の女性議員も誕生した。

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シケセン⑥

投票する女性と、当選後席に着く女性議員たち

女子高生

日本国憲法ができる前に、選挙に関する大きな動きがすでに起きていたんだね。

《1947年》 社会党から初の首相

シケセン⑥

1947年、通算23回目の総選挙の結果、社会党が衆議院の第一党になり、片山哲委員長(前列中央)を首相とする内閣が成立。

戦前も含めて、社会党から首相が選ばれたのはこの時が初めて。

《1953年》 バカヤロー解散

シケセン⑥

終戦後、合わせて約7年の長きにわたって首相を務めたのが吉田茂。日本国憲法ができた時の首相。1951年、サンフランシスコ平和条約に調印し、日本を独立に導いた。

有名な「バカヤロー解散」は、吉田在任中の出来事。1953年、衆議院予算委員会で、社会党議員の質問中に吉田が「バカヤロー」と口走り、衆議院の解散、総選挙に追い込まれた。選挙で、吉田率いる自由党は過半数を割り込んだ。

女子高生

暴言で解散しちゃったんだ。びっくりだね。

《1955年》 「55年体制」

サンフランシスコ平和条約で日本が主権を回復した後、2つの大きな政党ができた。

この2つの政党を中心に戦後日本の政治が展開されるんだけど、何という政党かわかる?ヒントは、そのうちの1つは今でも存在している政党。

女子高生

自民党?
もう1つはなんだろう?民主党?共産党?

自民党は正解。
もう1つは「社会党」、正式名称を「日本社会党」。今は「社会民主党」という党名で活動しているよ。

この、自民党と社会党を中心にした戦後日本の政治システムを「55年体制」と呼ぶんだ。「55年体制」という名称は、自民党も社会党も、同じ1955年にできたことに由来する。

女子高生

さっき出てきた片山首相は「社会党」だったよね?それとは違うの?

よく気づいたね。厳密にいうと、党の分裂状態が解消して、社会党が再統一したのが1955年だったんだ。

55年体制下では、自民党が一貫して政権を担う一方、社会党は常に野党第一党だった。そして政権交代が一度もないまま、自民党が野党に転落する1993年までの38年間、55年体制は続いたんだ。

選挙を経ていたにも関わらず、なぜ、政権交代のない55年体制がこれほど長く続いたのか。その秘密は「軽武装」と「高成長」なんだ。

《軽武装・高成長時代》 貧しい国を豊かに

日本が55年体制下にある時、世界は「冷戦」状態だった。

日本のすぐ近くには社会主義陣営のリーダーであるソ連があったから、対抗するために強大な軍事力が必要だった。当然莫大なお金がかかるけれど、当時の自民党政権は、アメリカという超大国に守ってもらうことで、軍事の分野にあまりお金をかけずに日本の安全を確保してきたんだ。

女子高生

じゃあ、どういうところにお金を使ってきたの?

自民党政権が力を入れてきたのが、終戦直後の貧しかった国を豊かにすることだったんだ。

戦後しばらく経って、日本の経済は急成長する。「高度経済成長」だ。55年体制が始まったのと同じ、1955年頃から高度成長期に入り、70年代まで続いた。経済成長を背景に、自民党政権は様々なインフラ整備を進めた。首都高速道路や東海道新幹線もこの時期にできたんだ。また、充実した社会保障の仕組みも整備され、1961年には「国民皆保険・皆年金」が実現した。

自民党の政治に不満を持つ人もいたけれど、国全体が豊かになっていく中で、「資本主義を変えよう」という動きにまではならなかった。

女子高生

軍事になるべくお金を費やさず、その分、国を豊かにするための施策にお金をかけることで、自民党は長期政権を維持してきたんだね。

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池田勇人首相

高度成長が続く1963年、池田勇人首相が衆議院を解散し総選挙となった。

池田内閣が国民所得倍増計画を進めていたことから、「所得倍増解散」などと呼ばれる。選挙は自民党が勝利した。

シケセン⑥

佐藤栄作首相(左)

池田の後に首相に就いたのが、佐藤栄作。8年近くにわたる長期政権を築いた。

佐藤政権で2度目の総選挙となったのが、1969年の「沖縄解散」による総選挙。戦後も長らくアメリカの統治下にあった沖縄だが、佐藤首相が訪米し、日本への返還がこの年決まる。佐藤首相は、訪米直後に衆議院を解散。総選挙は、自民党の勝利に終わった。

【CHECK!】「総選挙」とは?

女子高生

よく「総選挙」って言葉が出てくるけど、どういうこと?

「総選挙」とは、全ての議員を一斉に選ぶ衆議院選挙のこと。参議院選挙の場合は、一度に全員ではなく、半数ずつ選挙されるので「総」選挙とはいわない。総選挙は、以下の場合に行われる。

1)衆議院議員の4年の任期が満了する時。
2)解散総選挙の時。簡単に言うと、国民が選んだ衆議院議員を一斉に「クビ」にできてしまうのが「解散」だ。

1976年、戦後初の任期満了での総選挙が三木武夫内閣で実施された。この年、田中角栄前首相が「ロッキード事件」で逮捕され、自民党に逆風が吹いた選挙となった。結果は、自民党が初めて過半数を割る大敗に終わり、選挙後、三木内閣は退陣した。

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記者会見に臨む三木武夫首相

シケセン⑥

ロッキードは、アメリカの大手航空機製造会社

三木内閣以降、現在の安倍内閣に至るまでに行われた総選挙は全て、「解散」が理由で実施されている。

女子高生

全部!?

【CHECK!②】「解散」にも種類が

さらにいうと、解散にも2種類ある。

1)内閣の判断だけで行われる場合。
2)衆議院で内閣不信任決議案が可決された場合。

1)の場合は、「衆議院を解散して総選挙をやりたい」と内閣が考えればいつでもできる。

2)も、最終的に判断するのは内閣だけれど、その判断に至る過程が違う。

衆議院で不信任となったら、内閣に残されている道は2つ。1つは「総辞職」。もう1つが、自分たちを信任しなかった衆議院を解散する。

つまり解散は、「内閣がやりたい時」か「衆議院で不信任となった時」のどちらかの場合で行われるんだ。

シケセン⑥

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1980年、初めて、衆議院と参議院の同日選挙が行われた。選挙期間中に大平正芳首相(上)が亡くなるという事態が起きたが、結果は自民党の圧勝に終わった。

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判決の号外

ロッキード事件の第一審で、田中角栄元首相(上)が有罪判決を受けた1983年の総選挙。いわゆる「田中判決解散」による総選挙。有権者の風当たりは厳しく、自民党は過半数割れに追い込まれた。

シケセン⑥

2度目の衆参同日選挙は、1986年、中曽根康弘内閣の時だった。

中曽根首相(前列中央)が、解散総選挙を諦めたふりをして衆議院を解散したため、「死んだふり解散」と呼ばれる。衆院選で自民党は300人が当選し、大勝した。

《1993年》 55年体制終焉の要因

国会の多数派から首相が選ばれるわけだから、ほとんどの解散が、内閣の判断だけによるもの。しかし、衆議院で不信任案が可決されて解散したケースも、これまでに4回あったんだ。このうち、55年体制の崩壊を招いた1993年の解散劇を見てみよう。

この転換点の最大の要因が、戦後約半世紀にわたって衆議院の選挙制度だった「中選挙区制」と、中選挙区制が生んだ自民党の構造だった。

女子高生

「中選挙区制」って、どんな制度だったの?

「中選挙区制」は、1つの選挙区で3人~5人が当選する制度。

ある政党が過半数を取るには、1つの選挙区で複数の候補の当選が必要になる。

しかしそうなると、仲間であるはずの同じ政党の候補が戦うことになる。このため自民党の中には、「派閥」と呼ばれる議員のグループができて、選挙の際に協力し合うようになったんだ。

女子高生

あっ、聞いたことある! 派閥って、けんかばかりしていたんでしょ?

そういわれても仕方ないかな。派閥は、▼誰が首相になるか、▼どの派閥が党内の主導権を握るかをめぐって激しい権力闘争を繰り返した。派閥のリーダーは、選挙の際などにお金を配ることで、仲間の数を増やそうとした。お金を配るためには、いろいろな企業や団体からお金を集めなければならない・・・。こんなシステムが、「お金のかかりすぎる政治」として、批判されたんだ。

女子高生

激しい権力闘争。お金…。ドラマみたいだ。

55年体制末期の1990年前後には、腐敗の根源である中選挙区制そのものを変えようという動きが活発になった。でも、それまでの選挙制度を変えることには反発も強くあったんだ。

女子高生

そうだよね。いまの選挙制度を変えるなんて、ちょっと想像できないよ。

自民党内も、賛成派と反対派に分かれた。そして、宮沢喜一内閣の時、両派の対立は沸点に達したんだ。

1993年6月、社会党などの野党が、宮沢内閣に対する不信任決議案を提出したんだ。その理由は、宮沢内閣が政治の改革に後ろ向きだ、ということ。

野党が提出した不信任決議案は、多数派の与党によって否決されるのが通例だ。ところが、この時は例外だったんだ。改革を実行するべきだと考える自民党の議員が、不信任決議案に賛成したり、採決に欠席したりして、野党に同調したんだ。その結果、決議案は可決されてしまったんだ。ちなみに、これ以降現在まで、不信任決議案が可決された例はない。

女子高生

うわぁ、これ…私が首相だったら傷つくなぁ。

不信任を受けて、宮沢内閣は衆議院の解散を選択し総選挙が行われた。これが、「政治改革解散」と呼ばれる解散劇だ。

この選挙の結果、自民党は過半数を割り込んで政権を手放すことになり、55年体制が崩壊したんだ。

シケセン⑥

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不信任決議案の採決の様子(上)と宮沢喜一首相(下)

(一部敬称略。肩書きは当時のもの)