キャスター津田より

3月14日放送「宮城県 女川町」

 東日本大震災から9年が過ぎました。

 私がこの9年間いつも思ってきたのは、志半ばで亡くなった方々のことです。今の被災地の姿は、亡くなった方々が喜んでくれる姿なのだろうか、今の被災地の暮らしは、亡くなった人が喜んでくれる暮らしなのだろうか、1年365日、そう考えて番組に取り組んできました。被災地の皆さんが、天国にいる方々に喜んでもらえる日々を送ってほしい…3月11日を過ぎ、改めてこの願いを強くしています。

 

 今回は、宮城県女川町(おながわちょう)です。

3月14日放送「宮城県 女川町」

人口は約6400で、養殖業が盛んな町です。約15mの津波で、中心部は壊滅的な被害を受けました。その後、大規模なかさ上げ工事が行われ、女川駅を中心に公共施設や商業・観光施設を集めた市街地が整備されました。

 はじめに、震災から2年後に取材した男性に会うため、中心部から車で20分の指ケ浜(さしのはま)漁港に行きました。当時は20代で、ホヤやホタテの養殖を行っており、こんなことを言いました。

 「ホタテの値段がこれ以上、下がらないでほしいですね。家も建てなきゃならないし、若いうちから金のことばかり考えなければいけなくて…。黒字を出していかないと続けられないんですよ」 

 あれから7年…。男性は養殖を続け、高台に新築した家で両親と暮らしていました。ホヤの最大の輸出先だった韓国では、原発事故後、岩手・宮城・福島などの水産物の輸入を禁止しています。近年は異常気象の影響か、海水温が上昇して、 成長途中のホヤが死ぬケースも出てきたそうです。

3月14日放送「宮城県 女川町」

 「漁業は不安定だよね…。国内消費だと4年目ぐらいまで海の中に置かなきゃいけないけど、夏が暑かったりして、越せないで死んでしまうのも多いから。津波の後は1年が本当に早くて、毎年、“もうこんなに経ったの?”っていう思いがありますね。だって津波の日のことなんか、昨日のことみたいに覚えているもんね。復興度合いはまだ70%くらいかな。残りの30%はやっぱり、収入の安定だろうね」

 震災前、宮城県の養殖ホヤの約7割が韓国へ出荷されましたが、輸入禁止のため、一時は過剰なホヤを数千トンも焼却する事態になりました。日本は世界貿易機関(WTO)に提訴し、去年、敗訴が確定しました。国内で生産されるホヤの約6割は宮城県産で、女川は一大産地です。影響は甚大です。

 次に、中心部の女川港に行き、観光定期船の運航会社を訪ねました。古来から霊場として知られる離島の金華山(きんかさん)へ参拝客を運んでいます。会社の代表を務める40代の男性は東京出身で、震災前に移住し、妻や娘2人と暮らしています。津波で自宅は流されましたが、船の被害は免れ、震災から2年後に運航を再開しました。船内には、自ら撮った写真を載せた震災記録集も置いています。

3月14日放送「宮城県 女川町」

 「9年はあっという間ですね。こんなに濃縮した9年はないですね。震災後は子どもも生まれてバタバタした時もあったし…。日々変わっていく復旧・復興の状況を船の中でお話しすることで、お客さんに少しでも女川に興味をもっていただこうと思っています。自分も含め、いま女川を盛り上げようと頑張っているのは、皆さん、“亡くなった方の分も…”と思いながらやっているんじゃないですかね」

 女川への観光客もかなり増え、乗船客も毎年増加しています。震災後、女川駅の周辺は石畳のおしゃれな商業エリアに生まれ変わり、立地する2つの商業施設では、40近くの店が営業しています。開業以来テナントの入居率は100%で、去年は「はばたく商店街30選」(経済産業省が全国各地から選考)に認定されました。女川駅に併設された町営温泉施設も、4年前のオープン以来、来場者は20万人を超えています。女川町は震災後に人口が3分の1も減り、被災地の中でも人口減少が激しい町です。観光客のような交流人口の拡大は、今後の町を支えるカギになります。

 

 その後、災害公営住宅や集団移転団地など、新たな住まいで暮らす方々を取材しました。女川駅に近い、約140世帯が暮らす災害公営住宅では、70代の女性を訪ねました。

3月14日放送「宮城県 女川町」

経営していた創業80年の電器店を流され、震災の2年後に仮設商店街で取材した方です。当時はこう言いました。

 「店をなくしてはならないという心がけで頑張っております。主人が“店をやめる”と言った姿を見た時、“これでは主人がダメになる”と思って、津波の3か月後にすぐ店のチラシをプリントしていただいて、着のみ着のままでお客さんの家を1軒ずつ歩きました。若さで頑張りたいと思っています」

 あれから7年…。震災後、元の敷地は商業エリアになり、自宅も兼ねた店舗は建築が許可されませんでした。現在は約100人の得意先にカタログを配り、注文を受けて製品を仕入れ、販売しています。ともに商売を再開した夫は、去年、病気で突然亡くなりました。

 「急に死んでしまって、私もびっくりしているわけ。でも、絶対にめげないの。この明るいキャラクターで、前向きに頑張ろうと思っています。今は商売をやっていますけど、何年続くか分かりません。でも私はやっぱり、夢と希望をもってやっていきたいです。若さの秘けつはそれかなと思っています」

 さらに、すぐ近所にあった家の女性からも、話を聞くことができました。いま女川では、かさ上げされた土地の隅から隅まで、新築の家がびっしり並んでいます。女性は70代で、3年前に自宅を再建し、家族5人で暮らしています。震災後は傾聴ボランティアに参加し、同じ被災者として話を聞き続けてきました。他にもコーラスグループで30年ほど合唱を続けています。

3月14日放送「宮城県 女川町」

 「今は傾聴も参加者が限られて…。でも地域から要請があれば出かけていって、お茶会をやっています。お話を聞いて、かえって私が励まされるというか…。コーラスも全員がそろうのは難しいけど、みんなにとって大事な居場所なんですよね。震災前からつながりの人もいるし…。一人一人がつながって努力をして、やっと今の女川になったと思います。これからもみんなで手をつないでいきたいです」

 その後は中心部を離れ、車で15分ほどの竹浦(たけのうら)地区に行きました。63世帯あった集落が高台の2か所に別れ、集団移転した地区です。地区の区長を務める70代の男性は、自宅を流され、3年前に再建して妻と暮らしています。ここでは海や山の景観と調和を図るため、新築する家には独自のルールを決めました。

3月14日放送「宮城県 女川町」

昔の家並みを参考に、外壁は白、屋根は黒のスレート調で、切妻(きりづま)屋根に統一されています。集団移転案の作成には県の建築士会も協力し、2年がかりで話し合いました。

 「家の間取りはそれぞれですけど、外側はできるだけ同じようなイメージにしようと考えてね。私たちは美しい復興をしたいって思っていました。何もかも無くなったんだから、新しい集落をつくるなら、遠くから見ても、道を歩いて見ても、いい感じにできたらいいなという思いがあって…。私たちの高台の団地については、本当に多くの方々の御協力と御支援がありました。みんなが“ここに移ってよかったね”という幸せな暮らしをする、それが、私たちの恩返しになると思っています」

 最後に、竹浦地区から車で10分の石浜(いしはま)地区に行き、36世帯が暮らす集団移転団地の中に、プレハブの雑貨店を見つけました。店主は60代の夫婦で、自宅は津波で全壊し、4年前に新築したそうです。以前は役場職員で、退職を機に自宅の隣に土地を購入し、雑貨店と弁当の仕出しを始めました。奥様が作る弁当は安さと味が大評判で、おにぎり1個からでも配達するそうです。高齢者向けの品揃えで、車の運転ができない人の買い物を支えています。

3月14日放送「宮城県 女川町」

奥様はこう言いました。

 「当時はみんな流されちゃって、何か一瞬、“ああ、自分だけ生きてしまった”と思いましたもんね。そう思った時に、ここで何かするべきことがあるのかなって、漠然と思いましたね。お弁当を食べて、おいしかったよって言われると、疲れが吹き飛んでしまいますよね。“ああ良かった、また明日からまた頑張ろう”という感じですね。前を向いて、歩かなきゃ…」

 また、ご主人はこう言いました。

 「集落に雑貨屋が1軒もなくなって、みんな年を取って歩くこともままならないし…。だから店を構えました。不安もあったんですけど、皆さんに好評を得ていますので、本当に楽しくやっています。できる限り店を続けて、生き残った私たちが、何とか明日に向かって元気良くしていきたいです」

 震災当時の女川は、町一面が膨大ながれきの山で、あの頃は女川の誰に聞いても、今回の方々ように笑って前向きな言葉を話す人はいませんでした。そのあと5年ぐらいは、生活の不安や復興への要望を訴える声がずいぶん続きました。今回の皆さんの言葉に、9年の時の流れをしみじみ感じます。

 女川では、災害公営住宅や宅地の整備も全て終わり、昨年度で復興計画期間は終了しています。仮設住宅も撤去され、役場庁舎をはじめ、次々つくられた新しい公共施設も町民には見慣れた姿です。もちろん女川でも、生活不安や高齢者の孤立など、被災地共通の課題は抱えています。新しい町の姿に目を奪われて、課題が埋没しないよう、復興への努力は続きます。

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