キャスター津田より

2月15日放送「宮城県 石巻市」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、宮城県石巻(いしのまき)市です。人口は約14万2千と仙台に次ぐ数ですが、震災前から2万も減りました。犠牲者は3900人以上(震災関連死を含む)、全壊家屋は2万2千棟以上と、震災では最大の被災地といわれています。1年前に4400戸あまりの災害公営住宅が全て完成し、集団移転先の造成は一昨年4月に全て終わっています。先月には、市内のプレハブ仮設住宅から最後の住民が退去し、解体工事も9割近く完了しています。

2月15日放送「宮城県石巻市」

石巻では134の仮設団地に7千戸以上が整備され(岩手・宮城・福島で最多)、約1万6千人が生活していました。白いプレハブの建物が1800以上も並ぶ、被災地最大の団地もありました。それが“仮設の入居者ゼロ”という、大きな節目を迎えたのです。

 

 はじめにスタッフは、市内で50年近く続くお茶の専門店を訪ねました。自宅兼店舗は津波で全壊し、仮設店舗を経て、3年後に新築したそうです。3代目にあたる27歳の女性は、東京で働いていましたが、3年前にUターンして家業を継ぎました。看板商品は震災後に父が開発した紅茶で、北限の茶葉といわれる、地元の“桃生茶(ものうちゃ)”を使っています。女性はさらに県内産のハーブをブレンドして新商品を開発し、東北の土産物のコンテストで最優秀賞に輝きました。

2月15日放送「宮城県石巻市」

被災したのは高校卒業の直後だったそうで、すでに東京の短大に進学することが決まっていました。

 「周りにこんなに頑張っている人がいる中で、何でもそろった東京に出ていくのは、すごく心苦しかったんです。いつかは戻って、東京で学んできたことを生かして、お茶屋として皆さんに恩返しとか、笑顔にできたらいいなと思っていました。“早く石巻に戻って皆さんに何かしないと”という思いがずっと根底にあって、それで戻って来たのに、何をすればいいか分からない気持ちでいっぱいになった時が大変でした。周りの方々の支えがあって再建できたので、根本的なところから感謝していきたいです」

 次に、さくら町(まち)に行きました。

2月15日放送「宮城県石巻市」

元は渡波(わたのは)地区と呼ばれており、津波で甚大な被害が出ました。さくら町は、渡波地区の中でも海から離れた場所をかさ上げし、新しく造成した土地です。町内に新設された消防署に行くと、消防士になって5年目の、20代の男性が話をしてくれました。実家は津波で半壊し、両親は修繕した自宅で暮らしています。3年前、男性は人命救助が専門の精鋭集団“特別救助隊”に任命され、去年の台風19号でも活動したそうです。震災時は高校2年生で、消防のレスキュー隊が人を救う様子などを目の前で見てあこがれ、今の道に進みました。

 「何もできない自分に対して、最前線で一生懸命、必死になって救助している熱意を感じて、救助隊になりたいと思いました。地元愛というか、温かい人がいっぱいいる生まれ育った石巻で、地域の人のために安全を守りたいという使命感もあったので…。もっと知識や技術、精神力を身につけて、微力ながら消防士として、石巻を守っていきたいと思っています」

 さらに、さくら町の集会所では、住民のカラオケ交流会が行われていました。

2月15日放送「宮城県石巻市」

会の代表を務める70代の夫婦は、自宅を流された後、4年間の仮設暮らしを経て災害公営住宅に入居しました。仮設住宅の集会所の催しがきっかけで、カラオケが趣味になったそうです。震災後、元漁師のご主人は病に倒れ、人と話すのもつらくなりました。しかしカラオケのおかげで、会話もできるようになったそうです。

 「カラオケがある日は、朝、寝ていられないね。だいたい、人の交流がないじゃないですか。特に今日みたいに寒い日は家に閉じこもって…。それじゃ生きている意味がないんじゃないかと思うんです」

 また奥様は、こう言いました。

 「この9年は夢のようだね。お父さんに一生懸命働いてもらって家を建てて、それが一瞬で崩れた…。でも、夫婦でいまだに元気で暮らしているから、そういうところはお互いに幸せなんでしょうね」

 以前は家が流される様子を思い出し、吐き気やめまいもしたそうですが、カラオケを通して徐々に心身ともに健やかになったそうです。

 石巻市は、被災者ために農地などを宅地造成し、新しい市街地が6つ生まれました。さくら町のほか、“のぞみ野”、“あゆみ野”など、新しい名前が付いた町に災害公営住宅や新築の家が建てられ、集団移転などで市内各地から人が移り住んでいます。さくら町で千人以上、のぞみ野は3千人以上です(=被災地最大の集団移転団地)。人数の多さは大きなリスクでもあり、町内会だけでは見守り活動も手が回らず、阪神淡路大震災のあと神戸にできた大規模な公営住宅で、次々と孤独死が起きた現実が再現されかねません。大きな復興事業ほど完了すると何もかも終わった空気になりがちですが、注意が必要です。

 

 その後スタッフは、太平洋に突き出た牡鹿(おしか)半島に行きました。海沿いに小さな集落がたくさんあり、養殖などを生業としています。半島の先端にあり、長く捕鯨基地として栄えた鮎川(あゆかわ)地区では、震災後、鯨料理の店や土産物店などが入る観光施設や環境省のビジターセンター、捕鯨をテーマにしたレジャー施設がつくられました(一部は去年10月にオープン)。一方、復興は遅れ、今も防潮堤の工事が行われています。半島部は行き来が不便で(石巻駅~鮎川はバスで1時間以上)、工事の作業員や資材を運ぶのも効率が悪いのです。さらに牡鹿半島の人口も、震災後は4割以上減りました。

2月15日放送「宮城県石巻市」

震災を機に、仕事や通学に都合のよい新しい市街地に移った人も多くいます。

 まず、6年前に鮎川地区の仮設住宅に住んでいた、70代の男性と再会しました。元料理人で、震災の半年後から、集会所で月1回の食事会を一度も休まず続けていました。当時はこう言いました。

 「この震災で一人になった人もいるし、心のよりどころを無くした人もいっぱいいるわけですね。そういう人に、年を取ろうと、絆の深さで食事を召し上がっていただいて、元気になっていただきたい」

 あれから6年…。男性は2年前に災害公営住宅に入居し、食事会は今も自宅で続けています。数百円の参加費と社会福祉協議会の補助が頼りで、専門家を呼んで福祉講話をお願いしたこともあるそうです。

 「20人だと入りきらないくらいです。癒やしの場所を作りたいだけなんだよ、俺は…癒しの場所を。みんなで話したりすると、何でも言えるようになるじゃないですか。どうにもならないストレス、目に見えないストレスってあると思うんですよね。それを何とかしてあげようと思って食事会をしているんです。自分の生きがいにもなっているんだよ。体が動く限り、続けますね。」

 そして、牡鹿半島で食料品の移動販売をしている50代の男性に出会いました。

2月15日放送「宮城県石巻市」

震災後、牡鹿半島の商店は相次いで閉店しています。男性は大規模半壊だった自宅を修繕して暮らしていて、元は板前でした。震災で失業し、3か月ほど、がれき撤去のアルバイトなどで様々な現場に行きました。そこで買い物が不便な仮設住宅の現状を見て、移動販売を始めたそうです。常連のおばあちゃんは、“買い物に行く所がないから、来てもらわなくちゃ困るんだ”と言いました。震災の年の11月から鮎川にある仮設商店街でも営業しましたが、商店街が今年3月末で閉鎖されるため、今後は移動販売に専念するそうです。

 「商店街の開店当時は、皆さんといろいろなイベントもしたし、にぎわっていましたね。いろんな方と出会って、ボランティアさんはリピーターになって遊びに来てくれるんですよ。仮設商店街には本当にいろんな思い出がありまして、さみしいといいますか…。これからもお客様を大切にしながら、感謝の気持ちを忘れずに頑張っていきたいです。寒い中、3~4人のおばあさん達が、椅子に座って私の販売車を待っているんですよ。時間通りに行かないと悪くて…うれしいというか、ありがたいですよ」

 以前、常連客の孤独死が後になって判明したことがあり、移動販売をしながら、地域のお年寄りを見守る役目も果たしたいと言いました。

 最後に、半島の中ほどにある荻浜(おぎのはま)集落に行きました。

2月15日放送「宮城県石巻市」

高さ8mの津波で全世帯が被災しています。代々荻浜で暮らす70代の女性は、自宅を流されて仮設住宅で暮らした後、4年前に集団移転して高台に家を新築しました。カキ養殖を営む息子家族と3世代で暮らしています。避難所で出会った名古屋のボランティアの若者たちとは、今も電話や手紙をやり取りし、遊びに来ることもあるそうです。

 「荻浜は小さい頃から住んでいるし、荻浜に来るとほっとする…私、仮に外に嫁に行ったら、出戻りするんじゃない?と思ってしまうね。やっぱり荻浜が一番いい。よその人との交流が無かった浜だから、震災は大変だったけど、得たものはよその人との交流…ボランティアの方々といろいろお話しして、それが一番良かったね。お世話になった皆さんのため、健康で明るく、これからもやっていきたいです」

 牡鹿半島で被災した人を対象にした東北大学の調査では、遠方に移り住んだ人ほど、気分が沈むといった心理的苦痛や睡眠障害のリスクが大きいという結果が出ました。浜で育った人にとって、浜の暮らしに代わるものはないのかもしれません。

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