キャスター津田より

12月8日放送「宮城県 女川町」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、宮城県女川町(おながわちょう)です。人口約6500の水産業が盛んな町で、震災では、半島部や離島も含め、町全体で9割近くの家屋に被害が出ました。

12月8日放送「宮城県 女川町」

 現在は、女川駅を出るとすぐ、真新しい店が立ち並ぶおしゃれな商業エリアが広がっています。被災した店舗など36軒が並び、県内外から観光客が訪れる人気スポットです。

12月8日放送「宮城県 女川町」

 昭和の港町の雰囲気も残っていた以前の姿は、ガラッと変わりました。
 特に今年3月には、計画された全ての災害公営住宅(859戸)の整備が完了しました。入居も済んで、住宅確保という復興の最優先事項はおおむねクリアしています。
 また10月には、全壊した役場庁舎に代わる新庁舎が完成し、ホールや図書館も入る生涯学習センター、保健センター、子育て支援センターも同じ場所に整備されて、町の拠点も整いました。

12月8日放送「宮城県 女川町」

 

 はじめに、駅前の商業エリアに行きました。7月に開店したカフェでは、50代の女性店主が話をしてくれました。

12月8日放送「宮城県 女川町」

 元保育士で、震災の2年後に仮設商店街で営業を始めましたが、去年10月に閉鎖され、一度は休業を余儀なくされたそうです。カフェを人が集える場にしようと音楽イベントも開いています。

 「みんなでワイワイ歌を歌ったり、一瞬でも災害のことを忘れる時間を過ごせるのは、すごくありがたいと思います。仮設商店街が終わった時、店をやめようかとも思いましたが、みんなからの後押しがすごくあったんです。“早く店を再開して”とか、“集える場がなくなってしまう”という感じで後押しされて…。
7年では埋められない、生涯忘れることのできない震災なので、建物の復興は目に見えても、人の心の復興はなかなか見えないから、皆さん早く幸せに、豊かに生活してほしいって思います」

 さらに、近くにある地域医療センターの一角には、地元の人が集うカフェがもう1軒ありました。震災から8か月後に開店したそうです。

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 60代の男性店主は、以前ライブハウスを経営していましたが、自宅と店は津波で流されました。男性は震災当時、娯楽を受けつける余裕すらない、落ち込んだ人々を見て、コミュニティーの再建こそ必要だと、このカフェを始めました。今は医療センターに通う高齢者も頻繁に立ち寄り、地域の人が食事をしながら楽しめる憩いの場になっています。
 実はこの男性、震災のひと月後にも、避難所となった小学校で取材していました。当時は、こう言っていました。

 「女川町は俺たちがつくります!20年、30年後の世代に、立ち直った女川を渡してあげたい、子どもたちに未来を与えてあげたいと思います。地元の人間が復興事業をしなければ、絶対に無理だと思います」

 その後、男性は6年半に及ぶ仮設暮らしを経て、去年、妻や3人の子どもとともに災害公営住宅に入居しました。新たなコミュニティーづくりにも取り組み、地元の祭りや郷土芸能の力で、地域の絆を強くしたいと考えています。

 「老人会と一緒に郷土芸能をみんなでやったりとか、お年寄りにしてみれば、子どもの頃から聴いている音楽や踊りだったり、獅子舞だったりするので、すごく童心に返って一緒になって踊るし、そういうことをやっていると、生き生きした顔を見られます。地域コミュニティーの再生をどんどん続けていって、ハード面同様、ソフト面でも町づくりに貢献していって、素晴らしい町をつくりたいです。まだまだ町づくりは真っただ中です。これで突き進んでいきます」

 その後、中心部から車で20分の指ヶ浜(さしがはま)地区に行きました。津波でほぼ全ての家屋に被害があった所です。

12月8日放送「宮城県 女川町」

 ここでは、ギンザケ養殖を営む60代の男性と出会いました。養殖施設を全て流されましたが、震災の年には、国からの補助金も得て養殖を再開しました。

12月8日放送「宮城県 女川町」

 今年も11月から稚魚の養殖が始まっています。震災後、30代の息子は養殖の仕事を離れていましたが、4年前に復帰したそうです。

 「養殖関係で、大体4500万円から5000万円(相当のものが)流されたんだよ。その借金は、養殖じゃなきゃ返せない…サラリーマンでは返せないから、チャンスがあれば養殖をやる、継続するっていう思いはあったよ。“常に前向きに”っていう気持ちがあるから、まず後ろは見ないな、ほとんど。価格も安定したし、震災を乗り越えて、仕事の面、心の面で余裕ができました。息子には継いでもらいたい気もあるし、心配もあるんだ。リスクも大きいから。だから息子の判断次第だ。やるんだったら頑張る、息子と2人でね」

 女川町の復興は、まるで終戦直後の映像を見ているような、町一面が膨大ながれきの山になったところから始まりました。震災から4、5年までは、今の生活や町の状況に対する不満や要望、将来への不安などが、どの人の口からも出てきました。
 いま震災から7年9か月ほど経ち、皆さんの話の内容がずいぶん落ち着いてきたのを感じます。
 一方、国の機関の推計によれば、2045年の女川町の人口は、2015年に比べて半減する予測です。当然、町は高齢者が主体になるため、例えば町外の人であっても、事業は女川で行ってもらえるよう働きかけるなど、まだまだ、いろいろな知恵が求められています。

 

 次に、離島の出島(いずしま)に渡りました。

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 約8割の家が被災し、500人いた住民は、今は4 分の1の120人ほどです。本土との最短距離は200m程度で、現在、島と本土を結ぶ橋を建設中です(2022年に開通予定)。
 橋は長年の宿願であり、国や県が主体となって建設するよう要望を続けたものの、一向に話は進まず、震災後、町は思い切って、自らが事業主体となって橋を架けることを決めました。

12月8日放送「宮城県 女川町」

 はじめに、ホタテ養殖の作業小屋を訪ねると、震災翌年に取材した70代の女性と再会しました。以前は島の仮設住宅で、夫や息子一家と暮していました。その時は、こう言っていました。

 「小学校も中学校も休みで、女川、石巻、仙台と、みんなバラバラだから、まとまらないんですよ。子どもが住んでいなければ、私らはどんどん年をとってくるんだから、この島が無人島になってしまう」

 あれから6年…。島の幼稚園、小中学校は閉鎖され、息子夫婦と2人の孫は、本土の災害公営住宅に入居しました。漁師の息子は、毎日船で島に通い、休日には孫たちも手伝いに来ます。
 女性は震災後、同居していた夫と母親を病気で亡くし、今は島の災害公営住宅で1人暮らしです。

 「若い人がいないということは、厳しい状況だね。年寄りばかりで、人口が減っていくだけだから。出島の未来のため、孫たちにホタテの仕事を教えて頑張っていきます。本土と橋がかかって、どういうふうに発展するか見たいと思います。息子と孫たちに期待して、どのように発展していくか楽しみだね」

 また、そこから車で10分離れた別の地区では、3年前から災害公営住宅で暮らしているという、60代の漁師の男性と出会いました。
 自宅とホタテ養殖の施設を全て流されましたが、震災の年には養殖を再開しました。島で暮らす漁師は震災前の3割にまで減ったそうです。夫婦2人の暮らしで、30代の子ども3人は震災前から仙台などに離れて暮らし、今後も島に戻ることはないと言います。

 「60年間そばにあった海、山、畑だとか、まして先祖のお墓もあるもんですから、島を離れがたい気持ちになったわけです。都会のような忙しさ、せわしなさがない、のんびりとした中で、ゆとりをもった生活ができることが一番いいです。離れていても、親と子の絆は大事にしていきたいと思います。子どもたちは年も若いし、自分のことで精一杯でしょうけど、親を心配する思いは痛いほど伝わってきます」

 そして、出島を離れた人が町の中心部にいると聞き、去年完成した災害公営住宅も訪ねました。仮設暮らしを経て入居した、70代の夫婦です。震災前はホヤ養殖と釣り船を営んでいて、3人の娘は成人し、離れて暮らしています。自宅と養殖設備、船3隻を流され、残ったのは釣り船1隻だったそうで、現在は養殖を廃業し、釣り船を細々と営んでいます。ご主人はこう言いました。

 「家でも残っていたら、養殖の仕事をやめても、島に戻ってもいいんだけど…。私ら2人、体が悪いからさ。私は肺気腫、それに震災前から左目が悪くなって、石巻の病院に通わなきゃいけないし…。それも考えて、島に戻るか迷ったんだけど、諦めて戻るのをやめたの。こうなった以上は、ここで一生を終われるように、健康第一に体に気をつけて、釣り船をやっていようと思って…」

 ご主人は、流されずに残った先祖伝来の仏像を大切に安置し、島を思いながら、毎日拝んでいます。

 被災地の離島はどこも、震災後の人口激減と極端な高齢化が共通しています。出島の場合、震災後に小中学校は閉校し、診療所や郵便局、商店もなくなりました。橋さえあれば、子どもも若い人も安心して島で暮らせるという思いは強く、橋には非常に大きな期待が寄せられています。

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