キャスター津田より

12月1日放送「岩手県 内陸避難者」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
今回は、岩手県の内陸避難者の声です。震災直後、海沿いの被災地は衣食住の環境が崩壊し、避難所生活も非常にストレスでした。そのため、被害が小さい、もしくはほとんど無かった内陸の町に、身内を頼って避難した人も大勢いました。その後、避難先のアパートや社宅などが“みなし仮設住宅”となり、家賃補助を受けて避難は続きました。これを、ニュース等では“内陸避難”という言葉で表しています。ふるさとで宅地や災害公営住宅が整備されてからは、沿岸部に戻った人もいますが、中にはそのまま内陸部で生きると決めた人もいます。今回は、そうした方々に聞きました。

 

まず、県中部の紫波町(しわちょう)に行きました。

12月1日放送「岩手県 内陸避難者」

中央公民館で活動中の体操サークルには、沿岸部の大槌町(おおつちちょう)から避難し、定住した人も参加していました。

12月1日放送「岩手県 内陸避難者」

そのうち、60代の女性は、

「震災で主人が亡くなって、笑ったり楽しくするのが悪い気がしたんですけど、息子と2人、津波が来ない所でみんなと楽しくやっていれば、お父さんも安心するかなって思うようになりました」

と言いました。別の70代の女性は、自宅を流された上、ご主人も亡くし、娘が住む紫波町に避難しました。この方は、多くの人に支えられた経験から、自らも県内外の災害支援活動に参加しています。

「旦那が生きていれば、大槌から離れなかった…これは絶対に、そうだと思います。娘を頼って知らない内陸に定住して、終の住みかも持ったんですけど、いろんな楽しみを味わえる内陸に来られて、紫波町に感謝です。大槌の方がまだ仮設にいたりする中で、支援活動も1人では絶対にできなくて、仲間がいるからできるんです。本当に素晴らしい仲間…このまま迷わず進みたいです」

次に、花巻市(はなまきし)に行きました。沿岸部から避難した約380人が、今も暮らしています。

12月1日放送「岩手県 内陸避難者」

避難した人と地元住民が耕す畑を訪ねると、福島県南相馬市小高区(みなみそうまし・おだかく)から来たという70代の女性と出会いました。おととし7月まで避難指示が出され、自宅に住むことはできませんでした。娘が住む花巻に避難しましたが、一緒に避難した夫も義母も、花巻で亡くなったそうです。

「私も運転が心配になってきたし、福島に戻っても買い物がね…。畑もイノシシとかに掘り起こされて何もできないし、そうするとやっぱり、ここにいて、利便性の良い所に住むのもいいのかなって思うこともあります。夫がいれば、とっく家も直して、帰って住んでいたんでしょうけどね…。どうしたらいいか迷っているんです。こういう畑に来たり、ここの皆さんと一緒にお風呂に行ったり、お食事会とかが本当に楽しみで、その時は無になれる時で、何も考えなくていられる時なんです」

また花巻市内では、宮城県気仙沼市(けせんぬまし)で被災した70代の男性からも、話を聞きました。震災直後に婿(むこ)の実家がある花巻に避難し、来年3月、花巻市役所の近くの災害公営住宅に入居するそうです。男性は職人歴40年を超える庭師で、避難を前向きな転機と捉えていました。

「仕事が漁業じゃないので、必ずしも漁業が盛んな気仙沼じゃなくてもいいんですね。それと私は、花巻が合っていたんです。田植えの頃まで雪の山があって、田んぼの向こうに早池峰(はやちね)とか、奥羽山脈の雪の山が見えるんです。私は造園をやっているから、そういう風景が最高のぜいたくだし、喜びましたね。自分の力で生きていたと思っていたけど、震災で本当に見ず知らずの人から世話になって、実際はいろんな人の支援で生きていたのが分かりました。だから今後は自分を捨てて、人のためにやっていこうと、私も家内も方向転換してきたんです。花巻は共働きが多いので、私たち夫婦で少しだけ子どもを見たり、預かってあげたりすることで、若い人が助かるかなと思ったりね」

内陸避難者が元の町に戻りづらいのは、高齢者が多いからです。離れて暮らす高齢の親に対し、子は“今後は目の届く所にいてほしい”という思いで、自分が住む町への避難を促しました。再び離れた町で暮らすのを、身内があまり望みません。高齢では家の新築や購入は難しく、地元の頼れる親戚が大勢亡くなったり、震災後に配偶者が亡くなる中で、被災地の公営住宅に1人で入居するのは不安な人もいます。避難中に体を壊し、通院や買い物に便利な避難先でないと暮らせない人や、津波を見たので怖くて暮せないと語る人もいます。内陸避難者のための災害公営住宅は、盛岡や花巻など、各地に約300戸整備されました。岩手県内陸部に避難した人なら、宮城や福島の人も入居できます。内陸避難は、沿岸部の人口流出に直結する大きな問題でもあり、県も災害公営住宅の建設では、沿岸部の自治体の了解を得ながら進めました。ただ、内陸の方々の手厚い支援に対する感謝だけは、避難者に共通しています。

 

次に、盛岡市(もりおかし)に行きました。今も沿岸部から避難した1200人近くが暮らしています。

12月1日放送「岩手県 内陸避難者」

今年3月、内陸部で初めて完成した災害公営住宅では、入居者の女性たちに話を聞きました。宮城県石巻市(いしのまきし)から来た80代の女性は、自宅を流され、避難後に夫も亡くしました。

「ちょうど娘がこっちに嫁いでいたし、息子が転勤でこっちにいたもんだから、息子に呼ばれて来たの。息子の会社が大きな社宅を与えてくれて、助かりました。私は石巻に行っても、もう自力で家も建てられないし、ここでやっかいになっていた方がいいかなと…」

大槌町から来た70代の女性も、自宅を失い、夫を亡くして1人でした。

「7年前に来た時は、2年間毎日、泣いて暮らしました。人を見れば泣く、歩いている人を見れば泣く、お庭を作っている人を見れば泣く、とにかく2年間泣いて暮らしたんですね。でもこれじゃダメだと思って、自分から積極的に花壇を作っている人に声をかけて、それからお友達になってね」

2人とも生活リスクを考えれば、同じ独り暮らしでも、不便な被災地より盛岡を選ぶのは自然です。さらに、大槌町の自宅を失い、娘が住む盛岡に避難した80代の女性は、今は独り暮らしです。親戚を17人も亡くしたため、地元で頼れる人はほとんどいません。自宅は災害危険区域に指定されて家の新築は禁止され、健康不安もあります。盛岡に住む以外、現実的な選択肢はない状況です。

「何を見ても、思い出して泣いてしまうのね。自分のお庭にあった花と同じ花を見ると、ググッとくるのね。でも、引っ越してまだ荷物も落ち着かない時に、ここ(盛岡)の方々が私たちを呼んでくれて、寿司をとって、近くの会館でごちそうになって…。その後もお茶会とか開いてくれて、一緒にやっているうちに、街なかですれ違っても言葉をかけてくれて、楽しくやっています。7年経ってもふるさとは恋しいです。でも盛岡人のハートの熱さに、本当に、本当に感謝しています」

女性たちはみな、1人になると、つい戻りたいと思ってしまうそうです。私と同郷の石巻の女性は、取材が終わって帰る際、“自分も連れて行ってほしい”と冗談交じりに言いました。そんな皆さんを優しく支え、いつも励ましている盛岡の地元住民の方々には、本当に頭が下がります。 また、市内にある産直施設では、たこ焼きなどを売る店を訪ねました。70代の店主は、宮城県山元町(やまもとちょう)で被災し、息子がいる盛岡へ避難した男性です。以前は盛岡八幡宮の前で、神社の祭礼日に営業していましたが、今は常設のテントで営業しています。すっかり常連客がつき、商売も安定しているため、これから宮城に戻り、ゼロから商売を立ち上げるのは、年齢的にも大きなリスクです。

「人生がすっかり変わったことは、変わったね。まさか盛岡に住むなんて考えられなかったことだし、こういう店で生活を立てることも…年金とこの商売で、何とか生活できるって感じだね。盛岡は寒さより人間味があって、あったかさの方が多いかな。岩手山の見える所に家を建てるのが夢なんだよね。戻りたいって、迷う時もあるのよ。でも、今さらあっちに土地を求めなきゃいけないし、知り合いがこっちにも増えたから、“こういう縁があったんだべな”と思って、岩手に落ち着こうかなと思います」

ちなみに盛岡市には、市内へ避難した人を支援する“もりおか復興支援センター”という組織があります。ちょうど取材期間中、津波で流された写真などを集め、持ち主に返却する会が行われていました。

12月1日放送「岩手県 内陸避難者」

実はこの会には、震災当時たまたま転勤などで沿岸部に住んでいた人も足を運んでいます。近郊の矢巾町(やはばちょう)に住む30代の女性は、当時は釜石市(かまいしし)で働いていました。

「家も全壊で、家財もなくした状態だったので、震災で“思い出したくない”って振り返らなかったのが、写真を見て少し過去を振り返ったり、それを糧に前に進もうと思うことはあるかと思いますね」

女性は自分の小学生時代の写真などを引き取り、自分の過去を取り戻した感じだと笑いました。

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