キャスター津田より

11月17日放送「福島県 伊達市」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
今回は、福島県伊達市(だてし)です。コメや果物など農業が盛んな土地で、人口は約6万3千です。原発事故による国からの避難指示は出ていませんが、事故から約3ヵ月後、「特定避難勧奨地点」の指定を受けました(局所的に数軒の家屋だけ放射線量が高い、いわゆるホットスポット)。市内100地点以上が指定され、対象となった家には東電の賠償も支払われましたが、指定は1年半で解除されています。コメ、野菜、果物の大半は、普通に栽培して出荷が可能ですが、一部、条件付きのものもあります。

11月10日放送「福島県 伊達市」

 

この時期、伊達市のあちこちで特産品の「柿」が実をつけ、青空の下にオレンジ色の実が広がる光景は、まさに日本の原風景です。

11月10日放送「福島県 伊達市」

月舘町(つきだてまち)で収穫作業をしていた70代の農家の男性に聞くと、今年は豊作だそうです。柿は、特産の「あんぽ柿」に加工して出荷されます。江戸時代から作られ、硫黄を使っていぶして乾燥させる、独特の製法です。黒くて硬い、普通の干し柿とは全く別物で、色はオレンジ色のままで、半生の食感です。

11月10日放送「福島県 伊達市」

福島県ブランド認証産品の第1号で、皇室にも献上されました。
特に伊達市と近隣の町で生産が盛んですが、県は今も、伊達市など4つの市と町に出荷自粛を要請中です。ただ、除染を徹底した上で、小さい実の段階で放射性物質の検査をして、“農地の8割で国の基準の10分の1以下”であれば、栽培や加工が許可されます。伊達市については、ほぼ全域で許可されていて、当然、加工後も放射性物質の検査をして出荷されます。市内の農家は、何十万という柿の木を、1本1本高圧洗浄機でひたすら除染してきました。訪ねた農家の男性は、こう言いました。

「いやぁ、苦労あった…苦労はありました。先が見えなかったもんね。良かったですよ、こうやって笑って仕事ができるっていうことはいいもんね。(手伝いの女性たちも)みんな来たくて来るのね。いろいろ話しながら、一服する時はお茶を飲みながら…それが楽しいんだよね。風評被害も少なくなってきているから、これからが楽しみじゃない。できるだけ、安心で安全な“あんぽ柿”を作って消費者に出したいと思って、日々頑張っているんだよ。健康に気をつけながら、残された人生を頑張るしかない」

その後、山の方へ向かうと、特産品の畑ワサビ(花ワサビ)を生産している、70代の農家の男性と出会いました。花も茎も食べられるワサビで、原発事故前は、出荷高が年間1億円ほどもあったそうです。

11月10日放送「福島県 伊達市」

長く出荷制限が出ていましたが、県の管理計画に基づき栽培したものに限り、今年4月に出荷が再開されました。市内の200軒以上で栽培していましたが、出荷を再開できたのは10軒ほどです。

11月10日放送「福島県 伊達市」

「人間、落ち込んじゃったですよ。ものを作っても、なかなか思うような値段を取れないし、風評もあるしね。先輩たちがいろいろやってきてくれたワサビを、やっぱりつないでいきたい…そのためには若手を育てなければと思っています。一部分は出荷制限の解除と言えるかもしれないけど、全体的に解除されて、生産をアップして元に戻して、初めて真の意味の解除になる…それを願っているんだけども」

次に、市の南部・霊山町(りょうぜんまち)に向かいました。黒い農業用ハウスを訪ねると、60代の農家の男性が、原木シイタケを栽培していました。

11月10日放送「福島県 伊達市」

原木シイタケには出荷制限が出ていますが、県の栽培マニュアルどおりに作り、収穫後の検査でも国の基準を下回れば出荷できます。このマニュアル、放射性物質対策のチェックが非常に膨大で、A4の紙で76枚もありました。現在、市内で出荷できるのは、この男性を含め3軒だけです。

11月10日放送「福島県 伊達市」

男性は、菌を植える“ほだ木”に地元産を使っていましたが、原発事故後は放射線量が低い県外産を使っています。地元産は1本150~170円、県外産は1本400~600円で、以前は1万5千本近く扱っていましが、今は2千本が限界です。生産量は事故前の10分の1ほどで、賠償を受けながらの生産が続きます。さらに山の木は、10~15年で伐採しないと大きくなりすぎ、栽培には向きません。放射性物質が半減するまで30数年待ったとしても、山の木が無駄になると言いました。

「里山が泣いています。人間との関わり合いで、山って、昔から大事にされてきたじゃないですか。阿武隈(あぶくま)山系が再生された時、初めて原発事故の復興事業が終わるって、私は思っています。これほど豊かな、シイタケとかを生業にするには最高の宝の山がね、汚染されているわけですから、とりあえず一大プロジェクトでここを再生してもらいたいというのが、声を大きくして言いたいことです」

さらに月舘町に戻り、3年前に取材した産直施設を訪ねると、以前もここで働いていた50代の男性と再会できました。当時は、販売する農産物の放射性物質検査を担当していて、こう言っていました。

「検査して、バーコード付きのラベルを貼って出荷します。バーコードを読み取ると、検査結果の一覧がホームページで見られます。“検査して安全だから買う”という人と、“これ本当に安全なの?”という人がまだいらっしゃいますね。実際に食べたらおいしいという声がたくさんあって、求められていると実感しています。もっと多くの人にこのおいしさを知ってもらうために、模索している状況ですね」

あれから3年経ち、店内に並べられた農産物には、検査済みのラベルは貼られていませんでした。

「前回の取材あたりから、ほとんど検出されなくなって、検出されないものをいつまで測るのかと、農家から声が上がりまして、いま検査は希望者がやる形になっています。安全、安心が固まってきて、挑戦して珍しい野菜を出す農家も増えてきました。過疎は以前からありましたが、加速しているのは非常に感じていて、農産物の販売は元気のもとになるので、これからも力を入れていきたいです。地域の皆さんで、農産物を作るだけでなく加工して、より価値をつけて、元気を生み出せればと考えています」

 

さて、伊達市は原発事故の影響を受ける一方で、避難指示が出た地域の人たちを受け入れた側でもあります。隣の飯舘村(いいたてむら)からは、一時178世帯が伊達市に避難しました。

11月10日放送「福島県 伊達市」

2年半前の取材では、市内の仮設住宅で、飯舘村出身の当時70代の女性と出会いました。夫と死別し、1人暮らしでした。農家だったそうで、仮設の隣にある畑を借りて、野菜を作っていました。

「何もしないでいられないから、畑を借りたの。放射能で自然環境すべてが侵されてしまったから、自然の中で生きるという夢が崩れてしまいました。私としては飯舘の山並みも恋しいし、川の水のせせらぎの音も変わらないとしたら、飯舘を終の場所にしたいと…そういうふうに思うことも時々あるよ」

あれから2年半…。仮設住宅は来年3月に退去期限を迎え、入居率は3割以下になっていました。80代になった女性は、今でも隣の畑を借りて、野菜作りを続けていました。飯舘村で女性が暮らしていた地区は、避難指示が去年3月に解除され、女性は年内に帰還して、息子が建てた家で暮らす予定です。

「畑は言葉は出さないけど、やっぱり私の一番ひかれる場所です。この畑で涙も流したし、癒やされたし、収穫の喜びもあって、感謝しています。本当に落ち込んでいた時に生かしていただいた自然ですので、本当に感謝しています。畑のおかげで野菜は買わないで過ごせたし、この地域と太陽と自然に感謝です。戻ったら、やっぱり生まれた時から眺めてきた山や川の姿は変わっていないから、朝日が山から出てくる、夕日がこちらの山に沈むんだっていう、そういう山の流れを見ながら生きていきたいね」

また、市北部の工業団地に行くと、元は浪江町(なみえまち)で営業していたという、中古自動車部品を扱う会社がありました。会社はすべてを置いて避難を余儀なくされ、原発事故の半年後に伊達市に移転して、営業を再開しました。現在は3つの事業所で52人の従業員が働き、中には多くの伊達市民もいます。東南アジアをはじめ海外にも取引を広げるなど、事業の立て直しは進んでいるようでした。常務の50代の女性に聞くと、現在は伊達市の隣町に家を新築し、そこから通っていると言いました。

「本当に最初は大変だったんです。たくさんいた従業員もちりぢりになって、戻ってきたのが最初10人くらいだったかな。ガソリンがなかった時に新潟から運んでくれた人がいたり、道路状況が悪い中、九州からお肉を届てくれた人がいたり、食材や洋服を送ってくれた人がいて、パソコンも机も何もない状態から始まったんですが、会社を復興してきちんと経営できるようになったら、地域の方たちに貢献できる会社になりたい、困った人を助けられる会社になりたい、と言ってきました。伊達市に来て関わりができた方も多いですし、新たに入社してくれた方たちにも、とても感謝しています」

女性は、将来、会社で農業をやりたいと言いました。採れた野菜を使ってレストランを開き、伊達市の人たちが立ち寄れる“子ども食堂”のような存在に発展していけば…というのが願いだそうです。

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