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お寄せいただいたメッセージをご紹介しています

仙台市泉区  匿名希望さん  60代  女性
3月末まで、女川の避難所にいました。3月27日に、義母を見つけて遺体を確認しました。その時に、捜索してくださったどこかの自衛隊の人達に、ちゃんとお礼を言えてなかったと、あとになり思いました。
尾花沢で火葬して、当時は、とにかく必死でした!私のいた避難所は、正式の避難所ではなかった為に退去しなければならず、まだ行方不明の母親を探すために、4月1日に、石巻に移りました。実家が、北上川河口だったので、捜しようもなく途方にくれました。何度も遺体安置所に足をはこびましたが、見つかりませんでした。だんだんと、遺体安置所の場所にも違和感がなくなり体が慣れていくのが、とても変な気がしました。お墓のお骨洗いもしました。お寺のなかは、被災した墓地から持ってきた、骨壺だらけでした。
その頃は、まだ、涙もろくにでませんでした。七回忌が過ぎても、毎日の生活を、楽しく、頑張って生きていても、震災後の様々な出来ごとは、時折、よみがえり、悲しくなったリ、悔しくなったり、亡くなった友達を思い出したりしています。
地域は、本当にバラバラになってしまいました。女川を離れてしまい、6年も過ぎても、懐かしさは変わりません。新しい女川の町は、もう、かつての女川ではなくなってしまいました。新築の家が立ち並ぶ風景も、きっと、何十年か後に、今の若い世代の新しい町に生まれ変わるのですね?復興という名のもとに!でも、昔の女川も懐かしくて、残してほしかったな!
東京都  匿名希望さん  40代  女性
いつもは見られないので、全国放送の際はなるべく番組を見るようにしています。震災後すぐは、とてもしっかりしたお子さんたちをたくさん拝見して頼もしく思うと同時に「そんなに早くおとなにならなくてもいいんだよ」とハラハラしながら見ていました。でもそんな心配をよそに、地に足を着けて進んでいる若い方がたくさんいらっしゃる印象を受けました。また、宮古でお店を営む女性の「私がやりたかったのはこれだけ」という言葉、「これだけ」と言われましたがどれだけ大変なことだったかと思います。この6年が早いか遅いかは私にはわからないのですが、皆さまの日々の積み重ねに感服いたしました。VTRを補足する津田さんのお話も東北に住んでいない者にとってはわかりやすく、かつ普通のニュースでは伝わらない新たな情報でもありました。
栃木県宇都宮市  共支美さん  50代  女性
3月11日という日が特別なものであるということが、心からのメッセージを書かせています。6年という月日は確実な言葉では表現しがたいもの、もだしがたいほどの気持ちを何とかせねばとひとしきり思っていたような気がします。残念ながら宇都宮では拝見できませんが、仙台との行き来の限られた時間の中で当番組を拝見させて頂いている私、やはり津田喜章キャスターの心を映すような被災地や被災者に対する柔らかい情熱をしっかり感じさせてもらっています。これからも心を第一に、その鮮明に映像化して頂ける番組として7年、10年と育んでいって下さい。
東京都葛飾区  匿名希望さん  60代  女性
初めてお便りします。震災当初のまだ悲しみや戸惑いの色濃い人たちの、前向きに頑張らなきゃという強いメッセージを見て言葉では表現できない哀しみを感じていました。つい最近の番組では6年の歳月を人も地域の変化にも感じました。特に原発被害の過酷さには、新たに憤りを感じます。他人事ではなく忘れないようにいつもアンテナを張っていたいと思う。最後に震災当初より津田さんの骨のあるコメント、真摯に被災者と向き合うインタビューには敬服しています。続けて放送してほしい、NHKらしく静かに情報提供してくれ、視聴者に考えさせてくれる良い番組です。
ぐすべりさん   50代  女性
女川の港から出島に渡ったことが数回あります。落ち着いた静けさのある女川港から光る出島へ!それはいつも素敵な旅でした。3月2日の放送で、特に若い方たちの…仙台で働いている24才の青年と、高校生になったお嬢さんの…お話を聞いて、私の心は、また大事なところへと引き戻されるようでした。忘れてはいけないことが詰まっていました。淡々とある決意をもって語ってくれた青年と、本当に思いがけず涙が出てしまった女子高生の方。微妙な心のうちを話してくれて有難う。またこのお話を引き出してくださったスタッフの皆様のあたたかさに感謝します。
青森県八戸市  永野條子さん   40代  女性
6年前、私は東松島市にいました。その当時、もうじき2歳になる息子とお腹に次男がいるとき被災しました。お昼寝中に地震が来て着の身着のまま、車に長男を乗せ近くの集会所に避難しましたが、まもなくして津波が襲ってきました。またそこから小学校まで避難しなければならなくなりました。小学校に1週間程避難していましたが、周りの方々に親切にしていただきました。長男と仲良くしてくれた、お姉ちゃん達。主人が自衛官ということもあり、そばに居られない分可愛がって頂いた、同じ基地の家族の方々。町内会長さん…あの日皆さんに出会っていなければ今の私達はありませんでした。現在は生まれ育った八戸に戻り、長男は小学校に、次男も無事に生まれ、元気に保育園に通っています。一生忘れてはいけない、1週間だったと思います。もう一度皆さんに会いに行きたいと思っています。
仙台市青葉区  鈴木真理さん   50代  女性
木曜日、いつも見ています。震災当初からボランティアをしています。当初は支援物資の配布でしたが、緊急支援が終わってからは、その現場で出会った方々とのかかわりを続けていて、現在は、仙台市若林区荒浜で被災された方々(一つは農業法人、もう一つはみなし仮設の方々の自主的な集まり)のお手伝いをしています。周囲の方々からは「まだ続けているの?」と聞かれることが多いです。6年を経た今は、「支援」というより、「一緒に生きていく」という感覚です。同じ仙台市に住んでいて、数百年に一度という災害を体験したのに、なんというか、風化の速さに驚いています。どう向き合っていくかをいつも悩みますが、ともに生きていく中で、考え続けたいと思っています。
福島県伊達郡桑折町  しげやん3さん   60代  男性
毎週木曜日の昼の「被災地からの声」を津田アナウンサーの案内で拝見しています。原発事故から6年を迎えようとしています。国や東電は原発事故がなかったかのような対応(賠償打ち切り、ライフラインの無い所に無理に帰還を急いでいる等々)をしています。被害があるまで対応せよという被害者によりそった報道を今後も期待します。
仙台市太白区  さとちゃんさん   20代  女性
南三陸町の皆さん頑張ってください。応援してます。震災の傷跡は怖いです。
ふくさん   40代  女性
津田さん、番組スタッフの皆さん、いつも被災者の声をつぶさに拾い上げて下さってありがとうございます。
先日の避難者の回、涙が出ました。
私自身は郡山市に住んでいますが、避難者の苦しみを思うと胸が張り裂ける思いです。
来春で住宅補助金がうちきられるとも聞いています。
津田さんは、いじめの話にも言及して下さいました。
よくぞ言ってくれたと、心から有り難かったです。
是非より多くの方が番組を見てほしいと思います。
311は終わらないし、日本中で311が起こり得ることをみんなに知ってほしいからです。
これからも良い番組を作ってください。
匿名希望さん   50代  男性
南三陸町で被災しました。土地は買上になりました。
住宅ローンは残りましたが担保がないので借り換えができません。無くなった物にお金を払う事は仕方がないにしても少しでも軽減出来るようになると良いのですが。私的整理に関するガイドラインは収入があると適用できないと言われてます。
持ち家はもう持てませんけど被災の住宅ローンの軽減をなんとかしてほしいです。
匿名希望さん   40代  女性
主人の実家のある、浦戸野々島では、震災から5年たった今頃になって、かさ上げの為、現在住んでいる住宅を解体し、かさ上げ後に住宅を再建する話になっています。住んでいる住民は高齢者が多く、やっとの思いで震災後家を修繕して元の生活に戻りつつあるのに、今頃になって解体、再建とはひどい話だなと思っています。いくら今後のためのかさ上げと言っても、私としてはただただ、ため息が出るばかりです。