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宮城県気仙沼市 ソラッピーさん 30代 男性
辛い涙が暴れました。東日本大震災の発生から5年を迎えるが、現在の様子を教えて下さい。
匿名希望さん
毎週各地に出向き 的確な感想を伝えて頂き 感謝して居ります。どうか『終わりのない復興』の為に これからも 放送よろしくお願い致します。
秋田県 匿名希望さん 40代 女性
1月21日(木曜日)の放送について私は、5年前の震災時に、岩手県山田町に4日間ではありましたが、災害支援ナースとして入らせていただきました。 震災後3週間が経過しておりました。避難所である山田小学校で、到着した私たちをマスク姿の男性保健師さんが出迎えてくださいました。 任務を終え、時間がたった今でも、昨日のことのようにあの日が思い出されます。
津田キャスターの取材、現地の住民の生の声、番組を通じて人々の言葉の重みを実感しています。 私は一看護師ですが、あの時の災害支援活動の真価は、今を、そしてこれから未来を生きる住民の方たちが決めるものであり、 被災地に入らせていただいた私たちが、独り善がりで判断していけないと考えて今日に至っております。 私は支援に入ったはずなのに、住民の皆様から震災前の暮らしぶりを沢山うかがう中で、失ったものの重さと生きることを学びました。 私が支援されたような時間だったように思います。
そして、避難所で出迎えてくれた男性看護師さんがマスクだった理由・・・。それはマスクの中のお顔は、ひげで覆われていました。 疲れた表情を見せずに、ひたすらに住民に、そして、日替わりで入ってくる私たちお含め、様々な救護チームへの対応の日々。 誰よりも寝る間もなくお仕事をされていたのです。
私たちが帰る頃、彼の姿はありませんでした。私たちは個人的に連絡を取ることは職務上できなかったのですが、元気でいるのか、お仕事は続けているのか・・・、いつも頭の隅にあり、 「元気で生きていてください」と、いつの日からか心配から祈りに代わっておりました。なかなか山田町に出向いてみるという行動まで、私自身できずに過ごしておりました。
そうした中、本日の放送で、その彼に画面でお会いでき、私は感無量です。本当にお元気そうで良かったです。 お話されている様子は、5年前に出会った優しいお人柄は変わらずに、山田町の保健師として大きく成長されているお姿を拝見し、敬服しました。 これからも、ご自身のお体を大切にしながら、地域の保健活動にご尽力されますことを、遠くから願っております。
本当に、偶然で不思議な再会をすることができました。ありがとうございました。あまりにも嬉しかったので、メールをした次第です。 毎週この番組を拝見して、学ばせていただいておりますが、より身近な体験をしました。本日は本当にありがとうございました。
福島県いわき市 大将の父さん 60代 男性
本日も見ました。震災に伴う原発事故により避難を強いられた、または自主的に避難した人たち。4年以上たち多くの問題を抱えていることに悲しみが高まりました。それでも頑張っていこうとする人たちの努力に見ている方が元気づけられました。
仙台市太白区 匿名希望さん 60代 男性
初孫(男子7か月)と東松島実家に帰省中の次男の嫁が母親と3人での津波から逃れようと車で出発後、津波にのまれ嫁のみかろうじて助かりました。 その後、長女が生まれ東松島の内陸に嫁の父とともに家を新築したときに息子夫婦に贈った詩です 「生と再生: 愛を誓い 見知らぬ人が かけがえのない人になり かけがえのない子が生まれ かけがえのない母になり かけがえのない父になる ある日突然 かけがえのないものを奪われ 当たり前の日常が 輝いた日々だったことを思い出す かけがえのないものを共有した二人は はじめて かけがえのない妻になり かけがえのない夫になる そして 再び かけがえのないものを産み出し 生きるよすがとなる」 ・・・その後、次女も生まれ満2歳になりました。次女は私を「仙台ジジ」と呼びます。ジジは東松島の嫁の父親です。ババは妻しかいないので、ババはババです。 嫁は現在4番目の子どもを身ごもっています。来年1月出産予定です。 震災から4年半たち、つらい現実は背負っていくものでなく決して忘れず抱きかかえていくものだと最近は思っています。
神奈川県横浜市 坂田由美子さん 60代 女性
「被災地からの声」を時々、観ています。私は、「カリタス米川ベース」を拠点に、南三陸町の吉野沢仮設住宅でのお茶っ子に月に2回、シフトを組んで、横浜から定期的に通っています。 その時には、ケーキ班が作った手作りのお菓子を持参して、大変喜ばれています。当初は「寄り添いなんて、そう簡単なことではない」「プロの集まりでもないのに傾聴なんて」など、 批判的な意見もありましたが、とにかく一緒にお茶をする、その行為を4月から続けてきました。 不思議なことに、現地に行った方の大半が、また行きたい、とおっしゃいます。寄木のファームの方がおっしゃっていたように、 美しい刺しゅうの布地の裏のように、たくさんの哀しみに裏打ちされた美しさ、強さ、優しさを感じるからでしょうか。東北の人々の優しさは特別です。 震災から月日が経過して、とうの昔に起こったことのように思われがちな昨今だからこそ、続けていただきたい番組です。
秋田県大仙市 秋田より愛を込めてさん 20代 男性
私たちも、被災地を応援してます!
匿名希望さん 40代 男性
私は、福島第一原発事故の影響で、福島県の浪江町から、隣の南相馬市に避難しています。 浪江町に戻りたいと考えているので、南相馬市に住みながら就職活動をしています。 そこで、私が知った範囲で気が付いたことを書きます。 避難指示が出ていて住民が住んでいない浪江町・双葉町・大熊町・富岡町・楢葉町では、事業を再開している会社が極めて少ないので、当然ながら求人はほとんどありません。 同じ相双地区でも、住民が住んでいる南相馬市や広野町では、それなりに求人はあります。 ただし、原発関係・建設や設備関係・医療や福祉関係・事務系の求人が大半を占めている感じがします。それ以外の職種に就きたい人には、厳しい状態です。 就職先が無ければ、若者が地元に戻るはずがありません。そして、事業所が再開するには、避難指示が解除されているかどうかが重要なポイントのようです。 賠償金の問題について話し合いが行われている今、事業所の経営者にとっても待ったなしの状況だと思います。 避難指示の解除が遅くなればなるほど、事業所は地元に戻らず、就職先が無ければ若者も戻らず、復興どころか過疎化が加速するでしょう。 私は、段階的にでも避難指示は出来るだけ早期に解除すべきだと考えます。 被災地の行政機関にも、もっと危機感とスピーディーさを持ってもらいたいものです。
仙台市太白区 遠藤朝子さん 50代 女性
時間が合う時は仕事の休憩時間に「被災地からの声」を見ています。 私は、結婚して仙台に住むようになるまで23年間福島県に住んでいました。出身地は、公共交通手段は日に数本のバスのみという過疎地です。 震災後というか原発事故後、これからの福島県の事が気になるようになり、何時か福島県に戻りたいと思うようになりました。 「被災地からの声」で私の出身地が紹介され、更に今後の福島県の行方を見ていきたいという思いが更に大きくなりました。 思っているばかりでは何も変わらないと思い、震災後5年目を迎える前に移住しようと決めました。未だ具体的に住む場所も何も決まっていませんが、今年中には実行したいと思います。
仙台市若林区 祈りさん 50代 女性
今日の放送とても良かったです。高校生が若者がカメラをまっすぐ見て意見や思い、希望・夢を語ること。清々しかったです。トランペットの方は以前お父様が練習用のコンテナハウスを作って下さった方ではないでしょうか。違っていたらすみませんが、同じ方なら一つのことに向かって進み、音楽を職業とされたことを心よりおめでとうと言いたいです。いつか彼が言ったみたいに音楽を職業にする方がたくさん東北で生まれ音楽会など開催できたらなと思います。その時は聞きに行きたいです。定点で観測して町の記録を取り後の子供たちに復興の記録を伝えたいと自分たちで活動している高校生もすばらしく感動しました。又子育てで自分が困ったことで、ほかのお母さん方を助けたいとベビーシッターの勉強などをしている方にも感動しました。今日の番組に出演した方々は、つらい経験を受け止めてそのあと自分で考えて未来へと動き出している眩しい瞳の方々でした。その一方でくじけたり挫折したままの子供たちや若者もいるのではないでしょうか。大槌町の島はひょっこりひょうたん島のモデルになった島ですよね。どうぞ子供たちも大人も主題歌のように、苦しいことも悲しいことも乗り越えて生きていけますようにと、心より祈っています。
岩手県陸前高田市 匿名希望さん 40代 男性
大船渡線が走らなくなって4年たち、BRTの駅が1キロ以上離れた場所になったために、公共交通機関の恩恵を受けられず列車で遠くに出掛けることができません。被災した区間の多くが復旧を遂げている中で、他の地域の復旧を喜ぶ気持ちとは裏腹に嫉妬みたいな気持ちが生まれるようになりました。陸前矢作駅が最寄り駅でしたが、気仙沼に行くにはBRTで陸前高田駅で乗り換えて、さらにBRTで気仙沼へ、一ノ関や東京に行こうとしたら気仙沼で大船渡線にまた乗り換えで非常に困っています。以前は一日7~8本、気仙沼や一ノ関に行ける列車があったのに、津波で被災したエリアではないのに、震災で全て狂わされました。震災での復興が実感できない最大の理由の一つが鉄道の復旧のメドが立たないこともあります。
福島県福島市 八島和子さん 40代 女性
震災の翌年。川内村の方にお話をうかがった際、村に帰れるようになったけど。子供たちはほとんど帰ってない。友達は減ってしまって、帰っても外の豊かな自然で遊ぶことも出来ない。家族はバラバラ。なのに何故戻るかと言えば、家族が戻るから、そして避難先の学校に馴染めなかったから。そんな理由の子供が多い。そう言われて問題の深さに改めて気づかされました。帰る、帰らない。それは帰りたい、帰りたくない。とはイコールでない事。帰るための条件は単純では無く様々なものがあること。もっと多くの人に知って欲しいと思いました。
秋田県北秋田市 ミウママさん 40代 女性
私たちはあの東日本大震災の原発事故により福島県浪江町から秋田県に避難しています。 この4年間、故郷浪江町のことを一日たりとも忘れたことはありません。近くにいた妹家族とも、現在は、離れ離れで暮らしています。この、被災者という思いをこの、避難場所の他県では誰にも話せず毎日毎日、考えては涙が出ます。
仙台市若林区 匿名希望さん 40代 女性
岩手県盛岡市出身です。震災後ずっと観ています。 4/23放送の福島県富岡町を観て、「夜の森はこのように一部は今では観光客も訪れていますが、一歩周りに足をのばせば放置された家や車があり、生卵の自動販売機には4年前の卵がまだそのままあるのです」と言った津田キャスターの、その言葉がとても重かったです。
福島県須賀川市 匿名希望さん 40代 女性
同じ福島県民として、故郷に帰れない悔しさは、計り知れないと思います。自然豊かな所が多い福島。美しい福島が汚染されてしまい悲しいです。避難されてる方が心から笑顔になれる日を願っています。
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