【キャスター津田より】11月19日放送「福島県 川俣町」

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 今回は、福島県川俣町(かわまたまち)です。人口は約11000で、“川俣シルク“や“川俣シャモ”など、絹織物やブランド地鶏で有名な町です。四方八方の山々が紅葉し、今が一番いい季節でしょう。
 当初、川俣町は原発事故で沿岸部から避難した人たちの受け入れ先でした(最大で約6000人)。ところが事故のひと月後、川俣町にも国から通告が出され、町の一部は年間積算線量が20ミリシーベルトを超える可能性があり、1か月以内をめどに計画的に避難するよう求められました。町の面積の約3割を占める、南東部の山木屋(やまきや)地区という所です(のちに正式に避難指示も発令)。一方、町の7割には避難指示は出されず、5年前には山木屋地区の避難指示も解除されました。しかし、子育て世代を中心に避難指示区域以外の人も町外に定住し、人口は震災前から4400人減りました。去年、町は“移住・定住相談支援センター”を開業し、住宅情報や支援情報を提供するなど、移住希望者を募っています。

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 はじめに、町役場近くにあるパン店を訪ねました。接客していたのは70代の女性で、娘2人とともに店を切り盛りしています。パン店は17年前に始め、以前は山木屋地区に3世代7人で暮らしていました。店の前を国道が通り、隣の浪江町(なみえまち)からも客が来たそうです(現在、町境の浪江町側は帰還困難区域)。原発事故の2か月後に町中心部の借家に転居し、その3ヶ月後には店を始めました。3年経って借家の土地を買い取り、家も新築したそうです。パンは毎日30~40種類を並べ、総菜パンの総菜まで全て手作りです。山木屋地区の自宅は残してあり、友人に会うためよく帰っています。

 「だたボーッと家にいられないし、どっちにしたって生きて行かなくちゃならないんだから、店をやって頑張っていこうかなって思いました。ここで店を再開した頃、100円とか10円が足りない時に、“待ってて”って、お客さんのほうが両替に行ってくれたりして、本当にありがたかったです。人ってみんな温かいんだなって思います。私たち、まだ住所は山木屋なんです。まだちょっと…住所をこっちに持ってくることが、ふるさとを捨てちゃうような気がして、本当に今のところ揺れています」

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その後、山菜の“タラの芽”を栽培する農家を訪ねました。70代と50代の男性2人で、川俣町一帯は生産量日本一になったこともある、全国に知られた産地だったと言いました(平成7年の年間販売額は1億円超)。栽培は、畑でタラノキを2mぐらいに育て、それを切ってハウスに持ち込み、水耕栽培で発芽させます。地元JAの山菜専門部会に所属する会員も最盛期は100人を超えましたが、現在、町で出荷している農家は5人です。男性らは除染済みの畑とハウスで栽培しているため、継続的な出荷が認められており、放射性物質の検査もクリアしています。それでも他産地とは価格面で結構な差がつき、生産意欲が削がれて農家は減る一方です。2人はこう言いました。

 「原発事故の翌年は自粛ですよね。栽培したものをみんな捨てて、補償金もらったんです。悔しかったですね。やっぱり、タラの芽作りが好きなんですよ。それだけでやっているんで…。1人でも多くの方に食べていただきたいという、その一心です。好きな方、食べたことのない若い方にもぜひ食べていただきたい。がんばります。よろしくお願いします」

 さらに、8年前に取材した、中心部にある菓子店を訪ねました。店舗は残っていますが廃業したらしく、連絡をとったところ、店主夫婦は息子を頼って隣の福島市に引っ越していました。現在、ご主人が80代、奥様は70代で、息子夫婦や孫と7人で暮らしています。以前は餅菓子やアメなどを作って販売し、特に川俣町に自生するカヤの実を使ったアメは人気でした。8年前、ご主人はこう言いました。

 「地元のカヤの実を使っても悪くないらしいですけど、どうも放射能が気になって、やりたいんだけど、やらない…やっぱり寂しいですね。評判も良くて、お土産で県外に持っていく人もいて、それが作れないのはちょっと残念です」

この取材の翌年、夫婦は店を閉め、40年続けた菓子作りから引退しました。ご主人はこう言いました。

 「私は元気だったんだけど、妻が前より元気がなくて、震災以降どうも落ち込んで、お客さんのことも考えたんですけど、やっぱり元気なうちに辞めたほうがいいと思ったんです。もうこの年になれば、お菓子に未練はないです。やり切った感じです。今は穏やかに健康でいられたらいい、それだけですね」

 今回、この菓子店を取材したことを他の町民に雑談で話したところ、跡継ぎを残さず引退したことを嘆く人が複数いました。ご主人のお菓子は、とても愛された味だったようです。

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 続いて、5年前まで避難指示が出ていた山木屋地区に行きました。現在、この地区の住民登録者数は震災前(=1252人)の約半分で、実際に住んでいるのはさらにその半分、330人です。そのうち65歳以上が6割を超え、公共交通機関の確保や医療・福祉体制の充実などが課題です。
 避難指示解除後、地区内では道路も整備され、復興拠点となる商業施設『とんやの郷(さと)』がオープンしました。川俣シャモなど地元食材の料理を出す食堂と、食品や日用品を扱う小売店が営業しています。以前この番組で取材した、住民の交流拠点を兼ねたそば店も相変わらず人気で、経営者の男性は、墓参などで里帰りする住民のために、地区で唯一の宿泊施設も開業しました。
 はじめに、ことし山木屋地区で就農した30代の男性を訪ねました。生涯現役で働ける農業に憧れて会社を辞め、すでに農業を引退していた祖父の畑を受け継ぎました。現在はミニトマトを栽培しています。

 「祖父からは“やるならしっかりやれ”みたいな、中途半端にやるなっていう厳しい言葉をいただいています。私が農家を始めていろんな人と交流して、山木屋地区の交流も深められて、また新しい農家さんが増えれば本当にいいですね。祖父が作っていたミニトマトがおいしいって聞いていたので、最終的には、トマト嫌いの自分も好きになるようなミニトマトを作れればいいと思っています」

 山木屋地区には他にも、イチゴやキクラゲ、西洋野菜を作る農家がいます。法人化による組織的営農も広がり、コメ作りの再開や休耕地を活用した飼料作物の栽培、希少品種の『山木屋在来そば』の作付け拡大、トルコギキョウ、アンスリウムなどの花の生産にも力を入れています。
 次に、山木屋小中学校で校務員を務める、60代の女性を訪ねました。山木屋地区の学校は避難指示で別の地区に移り、2018年に山木屋に戻って、小中一貫校として新たに開校しました。しかし、その翌年には、小学部の在校生も新入生もゼロとなり、小学部はわずか1年で休校しました。現在通っているのは中学生だけで、女性は、学校での子どもたちの様子を写真付きで伝える掲示物を作り、近くの公民館に複数貼っています。3人の我が子のうち、次男は成人した今も山木屋で暮らしているそうです。

 「私よりも息子が山木屋に帰りたかったみたい。ここで生まれて、育って、ここが大好きなのでね。山木屋で学校が再開した時、地区の人たちがすごく温かく受け入れてくれて、桜の木を切って、開校式の壇上に立ててくれたんです。学校の再開は、地区の人たちが本当に喜んだと思います。今、生徒は8人…3年生の4人が卒業したら4人。次に入ってくれる子がいれば、ありがたいんですけどね」

 町は、10億円以上かけて改修した校舎や全天候型の室内プール、少人数教育の良さなどをアピールし、学区外からの就学も認めて子どもの確保に奔走してきましたが、今も小学校は休校のままです。避難先での暮らしが当たり前になり、山木屋に戻らずバス通学するにせよ、長時間の登下校を不安視する親もいます。地域の維持と発展には子どもと保護者の帰還は欠かせませんが、どうにもならない現状です。

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最後に、山の中腹にある一軒の家を訪ね、山木屋に帰還した夫婦から話を聞きました。ご主人が60代、奥様は50代で、2人とも関西出身です。キャンプ好きが高じてご主人は40歳で会社を早期退職し、夫婦で山木屋に移住してキャンプ場を開設しました。27年前のことです。山の除染方針が決まらないため、キャンプ場は再開せずに廃業し、キャンプ場内にあった自宅も解体しました。2年前、地区内に別の土地を借り、今の自宅を新築したそうです。ご主人はこう言いました。

 「人が来ないと、草刈りとか土手の木刈りとか、おざなりになって土地って荒れていくんですね。めちゃくちゃきれいでなくても、“ここは整備されてるぞ”と、そういう地域を作っていきたいと思います」

また、奥様はこう言いました。

 「帰還するかどうするか、夫婦で散歩しながら話し合って、だいぶ歩きましたよ。楽しい足踏み…次の一歩の方向がよくわかりませんが、今は楽しく、遊びもして、踏み出せる準備をしておきましょう。 足踏みしてても、年は取るんだから」

紅葉に染まる山々に囲まれる中で、明るく語る2人の笑顔がスタッフの心に残りました。