【キャスター津田より】10月22日放送「福島県 南相馬市」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、福島県南相馬(みなみそうま)市です。人口が57000余で、鹿島(かしま)区、原町(はらまち)区、小高(おだか)区の3つの区で構成される自治体です。ニュースでよく耳にするのが小高区で、原発事故後、国の指示により全住民がふるさとを出て避難しました。避難指示解除はその5年後です。原町区の大部分と鹿島区には避難指示が出ませんでしたが、津波でたいへんな被害が出ました。

hi_image2.jpeg

 はじめに、鹿島区で取材しました。津波で被災した方々は内陸部に集団移転しました。その集団移転先で、震災から2か月後に取材した親子を再び訪ねました。現在、息子は50代、母親が80代。11年前に2人と会ったのは鹿島区内の避難所でした。津波で自宅を流され、知人の家や避難所を転々としていました。当時、賠償金の有無が原発から30kmで線引きされることになり、息子はこう言いました。

「家は原発から30.7㎞です。圏外です。南相馬市全体を区切らないで、補償する感じにしてもらえれば…。鹿島区全体が怒っていますよ」

その後、自宅跡地は災害危険区域に指定され、地元での自宅再建は断念。集団移転先での再建を目指しました。避難所を出て鹿島区内の仮設住宅に入居し、工場で働きつつ、6年前にログハウス風の家を自力で建てました。翌年、偶然ペットショップで黄色と赤の美しい羽を持つナナクサインコと出会い、それ以来、生き物の飼育に目覚めたそうです。金魚の繁殖も始め、販売するまでになりました。

「避難所にいた当時は切羽詰まった感じがいっぱいありますよね…もう余裕がないっていう感じでしたね。この家ができたじゃないですか、その後、何もする気が無くなったんですよね。で、ペットショップに行ったらトリガー引いちゃって…。いい意味でも悪い意味でも、震災は自分を成長させるのに、いい経験になったんじゃないかなと思います」

hi_image3.jpeg


 次に、原町区に行きました。市沿岸部には、犠牲者の名前が刻まれた津波慰霊碑が10基以上も点在しており、金沢(かなざわ)地区の慰霊碑を建立した70代の夫婦に話を聞くことができました。稲作を中心とする農家で、農業を継いだ息子(当時40歳)を津波で亡くしました。4人兄弟の長男で、水門を閉めに行き、犠牲になったそうです。震災直後、原発事故を心配して避難した夫婦は、避難先から通って長男を探しました。遺体は42日後に自衛隊により発見され、孫の死を聞いた祖父はショックのあまり体を壊し、翌月に亡くなったそうです。ご主人は長男や集落の犠牲者を弔おうと慰霊碑の建立を決意し、建設現場で働きながら住民の説得や資金集めに奔走しました。心労で潰瘍を患い、入院したこともあったそうです。ご主人の尽力で、震災の3年後、集落を見渡す場所に慰霊碑が建ちました。

「気は荒かったけど、何事も誠実にやっていた人間だったね。おじいさん、おばあさんのことを面倒見てくれたよね。自分でおじいさんとおばあさんの食事を作ったり、食べたいものを作ってくれた…。全員を弔ってやりたいという気持ちがあったね。集落で反対された場合は、自分で息子だけの碑を建てようと思っていたよ。建った時は、ほっとしたというか、終わったんだなって気持ちだったね」

南相馬市では、県内最多の630人余が津波の犠牲になり、2300棟以上の家屋が全壊しました。当初、被ばくの心配から自衛隊や消防による行方不明者の捜索ができなかった期間もあり、“わずかな希望ながら、生きているかもしれないのに探してもらえなかった”、“遺体が傷んでゆくのに、何もしてもらえなかった”…遺族の中にはそう語る人もいます。これは岩手や宮城とは決定的に違う、心の傷です。

hi_image4.jpeg

 その後、小高区に行きました。福島第一原発から20㎞圏内で、国から全住民に避難指示が出ましたが、2016年に解除されました。老舗の菓子店を訪ねてみると、3代目の70代の男性が話をしてくれました。震災前は小高区の本店のほか、市内に2店舗ありましたが、避難指示で家族バラバラに県内外へ避難し、2年後に避難先から戻って原町区で店を再開しました。開店当初は小高出身の人たちが次々来店し、行列だったそうです。避難指示が解除されて3年後、念願の小高区で店を再開し、今年、2人の息子に代替わりしました、長男が洋菓子、次男が和菓子の担当です。こし餡をパイ生地で包んだ一番人気のお菓子は、50年間も小高の人々に愛され、地元の寺の住職は“この菓子は小高の文化だ”と言ったそうです。

「最初は店をやめようかと思った…だって、作る工場も何も無いんだもの。でも、息子たちに背中を押されたというか、100年以上続いている店だから、“やめないで”って…それから、やめるわけにはいかないと思ったね。赤字にはならないけど、かと言って、そんなに利益も出ないけどね…。とにかくお客さんに喜んでいただけるので、それだけでよかったなと思います。すべてのお客様に感謝です」

 そして、稲刈りが最盛期を迎えた小高区の金谷(かなや)地区で、江戸時代から続く農家の7代目、80代の男性にも話を聞くことができました。全国のシイタケ鑑評会で5年連続トップ5に入る腕前でしたが、原発事故後は山林でのシイタケ栽培はできません。地区に70軒あった農家のうち、今も出荷を行うのは2軒だけです。50代の息子とコメ作りを再開するとともに、仲間と太陽光発電も始め、売電利益を元手に農業を続けています。廃業した農家などの田んぼを借りて耕作面積は37haに増え、規模拡大に伴って東京で暮らす20代の孫を呼び寄せました。新たな収入を求めて油の原料になる菜種の栽培にも取り組み、春には15haの菜の花畑を訪れる人も多く、ちょっとした名所になっています。

hi_image5.jpeg

「農業を再開しようという人は、本当に少ないんです。皆さん避難して、田んぼを放置していますから、田んぼを借りてやっていく人が誰か一人、集落にいてもいいなと思って…。孫が来て農業をやっているなんて、みんな驚いていますよ(笑)。私ね、85歳ですよ。あと20年と思っている…これからまだ頑張る余裕がありますので、やっていきたいと思います。結局、昔に戻るということはないと思うんです。工業でも商業でも農業でも、新しいものをつくり出していくことが一つの夢です。菜種の花がきれいに咲いて、皆さんがほっとできるような状況をつくるのも復興の一つの方法なのかなと…」

人がいない地域を守っていきたいという気概にあふれた、85歳の力強い言葉でした。

 小高区には今、新設された小高交流センターや商業施設(生鮮食品や日用品を販売)があり、個人経営の飲食店や店が増え、コンビニ、ホームセンター、銀行もあります。小高産業技術高校の開校や市立認定こども園の開設、様々な遊具を備えた屋内型の子どもの遊び場も去年オープンしました(かなりの人気)。また、常勤医のいる市立総合病院の付属診療所も開業し、内科と外科の診察と訪問診療が受けられます。移住のPRや相談、SNS等での情報発信を担当する課も区役所内に新設され、空き家をリノベーションして移住希望者に貸す事業も進めています(昨年度、市の相談窓口などを利用して小高区に移住したのは28人でした)。一方、小高区の住民登録者は6500人余で、震災前の半数、さらに実際の居住者となると震災前の3割です(うち半分が65歳以上)。住民帰還が頭打ちとなって小中学校は各1校ずつに減り、キュウリ栽培や稲の育苗を行う大規模施設を整備中ですが、肝心の農業を再開する人がほとんどいません。介護サービスの体制もぜい弱です。可能性と課題を抱え、町づくりを模索中です。

最後に小高中学校で、震災当時、まだ2歳、3歳だった中学生2人にも話を聞きました。ともに震災前の小高区は覚えていません。小高中学校は原発事故後、鹿島区に仮設校舎を置き、2017年4月から元の校舎に戻りました。震災直前の全校生徒は382人で、今は50人です。3年生の男子生徒は、祖父母と両親、妹の6人家族で、埼玉県や会津(あいづ)地方に避難した後、2017年に一家で帰還しました。

「小高は近所の人との距離が近いっていうのもありますね。お店もだいぶ増えて。だんだん復興しているのかなと感じます。今、欲しいのはマックですね。マックを食べようと思ったら、相馬(そうま)まで行かないといけないので…。僕も将来、小高のために、仕事なり、生活したいと思っています」

また2年生の女子生徒は、郡山(こおりやま)市に避難後、鹿島区の仮設住宅に入居しました。避難指示解除に合わせて一家は中古住宅を購入し、小高区に帰還しました。両親と姉の4人暮らしです。

「小高の第一印象は、やっぱり人が少ない…だった。いまは将来も自分の町に住みたい、この町がいいなって思って…。やっぱり、自分の家が一番落ち着きます。大好きな小高で生きていきたいです」

取材期間中の10月24日、市民文化会館で、市内の小中学生による音楽祭が開かれました。小高中学校の50人は、ここで 『群青(ぐんじょう)』という曲を披露しました。震災の2年後、平成24年度の卒業生が、避難で離ればなれになった仲間を思って作詞した曲です。小高中学校では代々の生徒によって歌い継がれ、今では日本中の学校で歌われる合唱曲になりました。前述の女子生徒は、“もう一つの校歌みたいで、気合いを入れて歌っています”と語りました。是非、『群青 小高中学校』で検索してみて下さい。演奏動画から、歌詞に込めた思いを感じていただければと思います。