【キャスター津田より】10月15日放送「宮城県 仙台市・名取市」

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今回は、宮城県仙台市と、その隣、仙台のベッドタウンでもある名取(なとり)市です。

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はじめに、名取市に行きました。人口は約8万で、震災の犠牲者は960人以上(関連死を含む)、全壊した住宅は2800棟を超えます。2020年、県内最後となるプレハブ仮設住宅からの退去が完了し、市は同年3月、住居やインフラ、公共施設の復旧や再建をほぼ終えたとして、『復興達成宣言』を出しました。
 名取市では特に、閖上(ゆりあげ)地区で、住民のほぼ10人に1人が犠牲になりました(その数は市全体の約8割)。街を現地再建する復興計画に対し、忌まわしい津波の記憶や防災上の不安から内陸への集団移転を望む声も多く、紛糾の結果、閖上の区画整理事業が始まった頃には、震災から3年も経っていました。その間、閖上を離れて自宅再建する人も増え、かさ上げ面積は当初の計画から半減しました。
 現在、閖上には460戸以上の災害公営住宅があり、小中一貫校、保育所、児童センター、体育館、公民館、郵便局、さらにドラックストアなども入る大型食品スーパーが揃いました。観光客向けの商業施設『かわまちてらす閖上』、や温泉付きのサイクルスポーツセンターなども新設され、約20haの新たな産業用地には、のべ42社が進出しました。地区の人口は、震災前の4割あまりに回復しています。

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今年初めて開かれた『閖上復興まつり~絆~』に行ってみると、屋台が立ち並び、様々な団体のステージ発表もあり、大変な賑わいでした。閖上太鼓保存会のステージでは、息のあった威勢のよい太鼓の音に、大きな拍手が送られていました。この団体は津波で仲間を失いましたが、震災の2か月後には活動を再開しています。今年から練習生として加入した親子に聞くと、子どもの小学校入学にあわせ、おととし仙台から移住してきたそうです。閖上にゆかりのない世帯の移住も、近年は増えています。

 「閖上に釣りをしに来て、本当に夕日がきれいで…。あまりにもきれいな環境で、息子もカニ獲りやザリガニ獲りをしたり、泥んこになって遊んですごく楽しそうに笑っていたことが、移住のきっかけです。今まで近所付き合いをしたことがなかったので、嫌かなとも思ったんですけど、来てみたら普通に隣のおじいちゃんと“おかえり”“ただいま”とやりとりする環境があって、とてもありがたい見守り役になってもらっています。私たちは津波の前の閖上の姿と、津波の後、復興する前の姿を全く知らないので、温度差は感じました。でもそのぐらい、皆さんにとって3・11は心に残っているものなんだなって、改めて勉強させられたことが多かったです」

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祭り会場では、7年前に取材した女子高校生に会うこともできました。現在は20代の社会人で、閖上で被災後、一家は仙台市に移って自宅を再建しました。以前会ったのは、かさ上げのために取り壊しが決まった閖上小学校(2018年3月閉校)の“校舎お別れ式”で、卒業生の彼女は同級生らと参加していました。当時は、“閖上の町が壊されちゃって、いろいろ思い出が無くなっちゃうのが悲しいです”と、少し寂しげな表情で言いました。以降、節目の日やイベントの際には、閖上を訪れているそうです。

 「お祭りには閖上でしか集まれない人、会えない人がたくさん来ているので、久しぶりの再会を楽しんでいます。閖上は温かい雰囲気、家族感がある街だったので、そこがすごく好きでした。街並みもだいぶ整備されてきたんですけど、過去の思い出も忘れずに、これからも過ごしていきたいです。震災で命がなくなっても本当におかしくなかったと思うので、“毎日大切に生きなきゃ”と、閖上に帰って来るたびに感じます。街は変わっていくかもしれないけど、大切にしたい場所…本当にそう思います」

 閖上は全方向を川や海、田んぼに囲まれ、その中に家々が並び、小中学校が1つずつあって全員がそこに通っていました。まるで離島のような環境で、住民同士が身内のようにつながっていました。若い世代でも閖上を思う気持ちが強いのは、こうした背景もあります。

 

 続いて、仙台市です。人口約109万の東北地方の中心都市で、震災では市内で約930人が犠牲になり、30000棟以上の建物が全壊しました(市発表・関連死を含む)。2016年には、一時3000人以上が住んだプレハブ仮設住宅から全員が退去し、同年、49団地3206戸の災害公営住宅の整備も完了しました。

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 はじめに若林(わかばやし)区に行き、津波で浸水した荒浜(あらはま)地区にある市民農園を訪ねました。運営者は50代の男性で、荒浜の自宅は津波で全壊し、避難所と仮設住宅を経て、2015年に集団移転で内陸部に自宅を再建しました。農園は集団移転の跡地36アールを市から借り、25区画に分割して荒浜出身者や仲間に貸しています。自身も熱心に通い、ブドウ、サクランボ、ナシ、モモなどを栽培しています。農業は素人ですが、人の営みを感じられ、人が交流する場を作ろうと農園を開きました。

 「荒浜が好きって言う人もいっぱいいるので、一緒に楽しめたり、協力できたらいいと思っています。震災前は海から家まですぐ…サーフィンして帰って、友達も遊びに来て賑やかだったんですけど、今は家が遠いんで、なんか寂しいんだよね。また津波があるかもしれないし、自分の子どもや孫、子孫を同じ目に遭わせたくないという気持ちは変わらなくて、将来も荒浜に住む気はないけど、ここに来たいという気持ちはあるので、農園のおかげで荒浜にいられるのは幸せです」

 荒浜を含む沿岸部は災害危険区域に指定され、原則、家屋の新築はできません。2017年までに1700世帯以上が、市内の集団移転団地や災害公営住宅に移りました。市は、移転跡地の有効利用のため、5地区・約65haを民間に貸し出し、大型観光農園(2021年開業)や、レストラン・温泉・カフェなどの複合施設(2022年開業)、グラウンドゴルフ場、公園、バーベキキュー場などができました。ただ、元は多くの家があり、人の息吹に満ちていた場所です。空き地が広がる今の姿は、やはり寂しさを覚えます。

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その後、集団移転先の災害公営住宅に行き、震災のひと月後に避難所で会った高齢者を再び訪ねました、現在85歳の女性で、震災前に夫を亡くして1人暮らしです。自宅は全壊し、以前はこう言いました。

  「まず何よりお金が欲しいです。そして次に、住む所です。とにかくお金を流された人もいっぱいいるので、やっぱり何するにしてもお金が欲しいのが一番です」

あれから11年…。女性は今も元気で、週2回、児童館でボランティアを行い、本の貸し出しなどをしています。夫の死後に頼りにしていた弟も津波の犠牲になり、落ち込む日々が続いたそうです。

  「全部、流された…初めは公営住宅って不満だったね、狭くて嫌だよ。でも、行くところないんだからね。弟が亡くなってショックだったよ。震災前、“いつでも俺がいると思うなよ”と言ったことがあったんだけど、本当にいなくなった…。今はただ、生かされた命を大事にしていきたいです。みんな亡くなってしまって、もう何でもいいような気になるのね。でもやっぱり、生きていくしかないよね」

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最後に、被災した農家が経営する若林区のおにぎり専門店に行きました。震災の2年後にオープンし、店内飲食のほか、市内のスーパー、産直施設、仙台空港などに卸しています。店を営むのは60代の女性で、3世代が暮らしていた新築直後の家が、津波で浸水しました。全壊判定ながらも少しずつ修繕して、今も住んでいるそうです。夫は農事組合法人の代表で、おにぎりのコメは夫たちがつくった自慢のコメです。仙台市では、海から約4㎞の農地まで浸水し、国の直轄事業で農地や施設の復旧、がれき処理、除塩が行われ、2015年度までに全ての被災農地で営農が再開されました。また復旧と同時並行で、宮城野(みやぎの)区、若林(わかばやし)区の田畑1900haで区画整理が行われ、1区画の農地を大規模化しました。機械を流され、離農する家族経営の農家が急増した分、農地は農業法人に集約され、大型機械を導入した耕作の受託が進みました。女性の夫が運営する農事組合法人も、約65ヘクタールでコメや大豆を栽培しています。夫は農業機械を全て失いながらも、震災の2か月後には一部の田んぼに苗を植え、補助金などをフル活用して復旧に奔走したそうです。現在、女性は深夜2時からおにぎりを作って毎日800個以上を出荷し、40代の娘2人も経営の柱としてフル回転しています。女性は震災前から、収穫した大豆で手作り味噌を製造・販売していて、当時の従業員が今も店で働いています。

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 「震災の時、味噌の仕込み中で、働いていたみんなも自分の片づけがあるのに、午前中は家の片づけをして、午後から味噌の作業場の片づけに来てくれて…。でもそれが、自分たちの気持ちの安らぎになったって言うんです。みんなで働くというのはこういうことなんだと、もうみんなの気持ちを無にできないな、という思いがあって、今はこの店をやってすごく良かったと思います」

 女性や娘たち、従業員の方々も本当に笑顔で、震災の苦労が報われた様子がよく分かりました。