【キャスター津田より】9月17日放送「岩手県 釜石市」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、岩手県釜石(かまいし)市です。人口は約31000で、古くから製鉄業で知られており、橋野鉄鉱山(はしのてっこうざん)は世界遺産に登録されています。震災では最大20mを超える津波が押し寄せ、1000人あまりが犠牲になり、3600棟を超える住宅が半壊以上の被害を受けました。
 2年前、プレハブ仮設住宅の退去が完了し、集団移転事業(11地区)、災害公営住宅の整備(1316戸)、土地区画整理事業(4地区)などをはじめ、市の復興事業はほぼ完了しました。震災後、中心部には情報交流センターや市民ホールなど大型の施設が建てられ、流通大手の大型店舗も進出しました。釜石港の近くには飲食店が並ぶ観光施設『魚河岸テラス』が開業し、三陸沿岸道、釜石自動車道も整備され、現在、釜石市が沿岸部と内陸部の結節点になっています。

 また、中心部以外の変貌も目ざましく、例えば、犠牲者が市全体の半数を超え、7割近い家屋が被災した鵜住居町(うのすまいちょう)では、高さ14.5mの防潮堤が建設され、小中学校や幼稚園は全て高台に再建されました。スーパーが入った商業施設『うのポート』、土産物を買える観光施設『鵜の郷(うのさと)交流館』、『いのちをつなぐ未来館』や『釜石祈りのパーク』といった震災伝承や追悼の施設、2019年のラグビーワールドカップの会場となったスタジアムなどが新設されています。
 一方、市の人口は震災前より2割以上減りました。中心部では、個人商店が高齢化で廃業したり、他の地区に移転したケースも少なくありません。中心部に4つあった商店街のうち、残ったのは1つです。

 はじめに、市南部にある唐丹町(とうにちょう)に行き、震災当時は唐丹小学校の3年生だった、21歳の女性から話を聞きました。唐丹町は住宅の4割が被災し、海沿いにあった唐丹小学校も全壊しました。校舎は解体され、現在は跡地に野球のグラウンドが整備されています。彼女は3年前から市内の郵便局に勤務していますが、きっかけは震災後に始めた文通だそうで、手紙でしか伝わらない思いや温かさがあることを知りました。

 「本来であれば小学校の校舎が残っていて、たまに来て思い出に浸ったりすると思うんですけど、全くないので…。防波堤ができたり、山が削られたり、新しく道路ができたり、家が建ったり、どんどん元に戻るのと違う感じになっていく気がして、これ以上、知らない町にしてほしくないって気持ちもあります。文通は、神奈川県の小学校から唐丹小学校に応援の手紙を一人一人が書いてくれて、それに返事を書いたんですよね。そうしたら私が返事をした子が、さらに返事を返してくれて…。被災は悲しいことですけど、それがあったからこそ出会えた友達がいて、気にかけてくれる子が遠くにいるっていう…安心感じゃないですけど、とにかくうれしいなって思いました。みんなが健康で元気に生きられるのも当たり前じゃないので、これからもいろんなことに挑戦していきたいです」

220917_1.jpg

 また、同じく唐丹町では、本郷(ほんごう)地区で町内会長を務める、70代の男性に話を聞きました。この地区は明治と昭和の大津波でも被害を受け、地区の一角には、当時の記憶を伝える石碑が2つ並んでいます。11年前の津波では男性の家も流され、3割の住宅が被害を受けましたが、亡くなったのは1人だそうです。住民は地区の一部をかさ上げして移転し、男性もそこに自宅を再建しました。

 「本郷は明治29年、昭和8年に津波で被害を受けていますから、“強い地震がきたら津波が来ると思え”ということで、私も“逃げろ!高台に逃げろ!”って、叫びながら避難しました。高台の墓地に上がる階段の前で平地を見たら、津波で覆われて、住宅が流れて、ガレキとか…そういう姿を見てね、これは町内会長の責任として、復旧・復興を成し遂げなければと思って、それから11年間やってきたんですよ。後世の人たちも“津波てんでんこ”の精神を守って、津波に注意して生活してください」

 ちなみに震災の翌年、市などが中心となり、明治と昭和の石碑の隣に、新たに平成の津波の石碑が建てられました。そこには、津波を経験した地元の子どもたちのメッセージが刻まれています。中には、『100回逃げて、100回来なくても、101回目も必ず逃げて!』という一文もあります。どの津波被災地に行っても復興事業が完了した昨今、子孫に自分たちのような悲しい思いをさせないため、震災からの学びをいかに伝えていくか…この点が次なる大きな課題です。

220917_2.jpg

 

 その後、市の中心部へ向かい、震災の2年後に取材した建設業の男性を再び訪ねました。当時は60代で、津波で1階天井まで浸水した自宅を修繕しなから、こう言っていました。

 「自分だけよくなっても、町が幸せにならなくちゃ。それには仕事だと思うよ。仕事ができて、お金が入って、ご飯を食べられて、経済的に余裕が出てくれば、気持ちの持ち方も違ってくるんじゃない」

 あれから9年…。男性は70代となり、今も建設業を続けていました。以前は自宅1階で空手道場を開いていましたが、被災を機に意欲をなくしたそうです。男性は家を修繕し、一つ年上の妻と2人で暮らしていましたが、8年前、妻は突然の病気で亡くなりました。その悲しみも癒えぬうちに、区画整理で自宅を解体することになり、3年前、男性は新しい土地に新居を建てました。映画や音楽の鑑賞が趣味で、音響のために天井を高くしたそうです。壁には、妻の写真もきちんと飾ってありました。

 「姉さん女房はいいよ…ショックだね、大ショックだったね。家を解体する時は、本当に何て言うんだろう…ここで2人で暮らしたのに、大事な場所が壊されてしまうって気持ちになったね。前に進むしかない。その時、その時で落ち込むけども、すぐ前向きで生きなくちゃダメだなっていう感じだね」

 さらに、同じく中心部にある釜石港で、震災の3年後に取材した、60代の漁師の男性を再訪しました。津波で船2隻と作業場を失い、義父など、鵜住居町に住んでいた妻の親戚や知人など50人ほどを亡くしたそうです。以前の取材では、購入した中古船の進水式に出くわして、話を聞かせていただきました。

 「待望の船ができました。ますます頑張ります。進水式のことは黙っていたんだけど、どことなく知れ渡るみたいで、いろいろ御祝を持ってきてくれる人がいてね。被災したみんなにお金使わせるので、遠慮していたんですけどね」

 あれから8年…。男性は同じ船で、今も刺し網などの漁を続けています。さらに、まちづくり会社と提携して、去年から月に1度、自分の船を使って湾内クルーズのガイドを務めています。漁師の知識を盛り込んだガイドが、観光客に人気だそうです。

 「漁船なら、空いている時間でお客さんを案内できるんじゃないかって、始まったんですね。嘘でも何か喋らなきゃいけない(笑)…マニュアルは運航会社からもらっているんですけどね。“1日、そして1日”です。毎日何かしら漁に出たり手仕事をして、夕方は晩酌して、楽しみながら1日1日ですよ」

220917_3.jpg

 最後に、市内にある釜石高校を訪ねました。震災直後、釜石高校の体育館には多くの人が避難し、音楽部の生徒たちは歌を披露して、被災者の心を癒しました。その様子はテレビでも報道され、それを見た著名なピアニスト・小原孝(おばら たかし)氏は、過去に自ら作詞した曲に、震災をテーマにした新たな詞のバージョンを追加しました。それが『願い~震災を乗り越えて~(詞&編曲・小原孝/曲・樹原涼子)』という曲です。音楽部は代々、この曲を歌い続けてきました。現在の部員は女子生徒3人で、いずれも震災時は未就学児です。ある2年生の子はこう言いました。

 「家に帰ってきて、“お母さん、おやつ何?”って聞きに行った時に大きな地震に襲われて、恐怖で足が動かなくて、お母さんにおぶられて避難所まで逃げました。兄の同級生とか 通っていた幼稚園の園長先生も亡くなって、周りの人の悲しい顔というか、苦しそうな顔はかなり印象に残っています」

 そして3人は、震災がテーマの曲を歌い続けることについて、口々にこんなことを言いました。

 「震災の記憶を忘れないでほしいっていう思いを伝えようと、気持ちを注いでいます。これから入ってくる後輩に向けて、震災の時に音楽部が『願い』を歌ったこととか、エピソードも受け継いでいきたいです。今の小さい子たちは、震災を知らない子たちが多いので、少しでもこの歌きっかけに、震災のことを伝えていけたらいいなと思いながら歌っています」

220917_4.jpg

肝心の曲ですが、去年の演奏会の動画が、インターネット上にアップされています。“釜石高校 願い”で検索すると、いくつかの動画にたどり着きます。すばらしい曲です。是非、お聞きください。