【キャスター津田より】7月16日放送「福島県 川内村」

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 今回は、福島県川内村(かわうちむら)です。人口が2300余りで、原発事故の5日後、国や県の指示がないまま独自に全村避難に踏み切りました。その後、国の正式な避難指示が村東部に出されましたが、2014年、2016年と段階的に全て解除されています。
 現在、人口のうち、村内生活者は8割を超えています。村には、コンビニやクリーニング店が併設された小さな商業施設や農産物直売所があり、郵便局、診療所、信用金庫、デイサービスセンターや老人ホーム、障害者施設も再開しています。工業団地には、複数の民間企業の工場が進出し、2020年からは、村が約2億円を投じたイチゴの生産施設も稼働しています。去年4月、村に1つずつあった小学校と中学校が統合され、小中一貫の“川内小中学園”が開校しました(認定こども園も隣接)。村内の巡回バスや大型ショッピングセンターのある隣町への路線バスなど、公共交通の整備も行われました。
 さらに村は、新たな産業を創出しようと、村内で栽培したブドウを使ったワインの開発を2015年から進めてきました。2017年には村も出資する醸造会社が設立され、去年は醸造所(かわうちワイナリー)がオープンしました。周囲の約3アールの畑に1万本以上のブドウが植えられ、栽培や醸造、瓶詰めを一貫して行っています。今年3月、白とロゼの2種類のワインの販売を始めました。

 はじめに、毎年恒例の『天山(てんざん)祭り』の会場に行きました。昭和を代表する詩人・草野心平(くさの・しんぺい)をしのぶ催しで、草野は川内村を愛し、足繁く村に通いました。のちに名誉村民に選ばれ、御礼として寄付した3000冊の蔵書を収めた“天山文庫”という施設もあります。イベントの会場では子ども達も自作の詩を披露し、村に5人しかいない中学1年生の男女2人から話を聞くことができました。男子生徒は本宮(もとみや)市の出身で、3年前、父の故郷・川内村に引っ越しました。

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 「地域の人たちとも、しっかり仲よくなれているから、とってもいい村だなって…。店とか、ちょっと遠いから、一般的なスーパーでいいから、村内だけでいろいろ買い物できればいいなと思います。役場の住民課とか、ちょっと興味があるので、今のところ、村に関わってみたいと思っています」

 また、女子生徒は1歳で郡山(こおりやま)市に避難し、9年前に家族で帰還したそうです。

 「元々村民だった、避難した人も帰ってきてほしいし、そうしたら、もっと明るくなると思います。目指していることは2つあって、1つ目がペットトリマーとか動物看護師、2つ目が介護士です。何か、この村で高齢者の役立つことをやりたいなって…」

 さらに『天山祭り』では、子どもたちによって400年間も継承されてきた獅子舞も披露されました。役場職員の40代の男性は、小学3年生と6年生の息子2人が舞と太鼓を担当し、自らは笛を担当しています。家族を連れて避難した時、長男はまだ生後2か月でした。県内を転々とし、4年後に一家で村に戻ったそうで、その間ずっと、男性は避難先から役場に通勤しました。

 「戻るのは不安が大きかったです。せっかく帰ってきたのはいいけど、子どもたちに同級生がいるのかとか、震災前より明らかに人が少ないのは分かっていたので…どうなっちゃうのかなって。息子たちの同級生も11人とか9人って、少ないですけど、ちょっとずつ増えてきているので、今は全く心配ないです。子どもたちが笑っている未来にしたいと思っているので、笑顔だけはなくさないでほしいです」

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 そして、去年オープンしたワイナリーにも行ってみました。ワイン作りの責任者は、東京から移住した30代の男性で、大学で醸造を専攻し、全国各地のワイナリーで勤務してきたそうです。6歳の一人娘と2人暮らしで、村のみんなが彼の子育てを支えています。

 「母の実家が二本松(にほんまつ)市で、福島には小さい頃から来ていたので、福島には少なからず思いはありました。東京にいると、“何かしなきゃ”って、追われる気分になりません?土日だって、“どこか行かなきゃ”とか…。村は生活のリズムが穏やかなので、疲れないですね。娘はもう有名人です。会議に子どもを連れて行ったり、村長室へ連れて行ったりとかしているぐらいなので…。娘もすごく人見知りしていたのが、“こんにちは”って、普通に言えるようになりました。今みたいに、いつも一緒にいられる時期ってすぐなくなっちゃうので、とりあえずは子育てを楽しみたいですね」

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 村の小中学生の数は、震災直前が232人で、今は70人です。一方、村内居住者の半数が65歳以上で、村は子育て世代の定着を図ろうと、出産祝い金や子どもの医療費の助成を行い、月謝が1000~2000円で済む学習塾(小学3年~中学3年対象)も開設しました。特に移住者に対しては、月々の家賃の半分(上限2万円)を最大3年間補助したり、15歳未満の子どもがいるひとり親に、奨励金で50万円を支給しています。また、一定条件を満たした首都圏からの移住者には、単身で最大60万円、2人以上の世帯で最大100万円が支給されます。新しい村をつくる動きは、いま非常に活発です。

 その後、診療所などが入る複合施設に行き、10年前、郡山市の仮設住宅で会った2人の女性を訪ねました。2人は当時、集会所で村の高齢者を対象に健康維持の催しを行っていて、“どうか皆さんが笑顔で戻ってこれますように”と切に願っていました。あれから11年、女性のうち1人は、家族5人で避難した郡山市から、役場の再開にあわせて1人だけ村に戻ったそうです(現在は夫も帰還)。

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 「隣近所に誰もいない所で、1人で生活できるのか、本当に不安だったんですけど、不安だったのは一晩かな。目が覚めたら、川のせせらぎの音が聞こえたり、鳥の声が聞こえて、これが当たり前の生活なんだなって感じて…。住民の皆さんも自分も、いつまでも笑顔で過ごせたらいいと思います」

また、もう一人の女性は、前回の取材後に結婚し、避難先に両親を残して夫と帰還したそうです。

 「1人でいると、いっぱいいっぱいでダメだったけど、本当にそのとき人に恵まれて、職場の人も皆、理解がある人たちだったので…そこでみんなで乗り越えられた気がします。戻ってきた住民の方も、移住して新たに来られた方も、そして戻れない方も、みんな笑顔でいられる村がいいなって思います」

 また、その複合施設の近くで週1回開かれる“日曜市場”にも行ってみました。野菜や総菜が市価の半額ほどで販売され、車がなかったり、買い物難民の高齢者にとっては貴重な場です。運営するのは川内村のNPOで、代表は70代の男性です。現在、妻と村営住宅に暮らしていますが、避難中は郡山市の仮設住宅で7年間暮らし、自治会長も務めました。仮設では困窮する高齢者も多く、男性は支援者を探してコメを調達し、無償で高齢者に配ったそうです。村にいれば、コメや野菜はほぼ自給自足で、お金の使い道は限られます。村内に多い国民年金だけの高齢者でも、1人あたり月5~6万円、夫婦あわせて約10万円ですから十分暮らせます。ところが避難して全てお金が出ていく生活になると、一気に生活が立ち行かなくなります。さらに帰還後も、農地の荒廃や高齢が原因で自給自足の生活に戻れず、困窮が続く人もいて、支援は必要ですが、寄付などが減ってNPOの運営は非常に厳しいと言います。

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 「仮設で社協の職員が来て、“自治会長、どうしますか?”って言われて、聞いてみたら、ある高齢の家庭で晩ごはんが…キャベツに塩かけて、ご飯を食べているって言うんだよ。そんなこともありました。私はいつまでも川内村でつながりたいです。震災でつながりが深くなった部分があると思うんですよね。つらい生活の中で、助け合うってことも学んだので、体が動くかぎり支援活動をやりたいと思います」

 復興庁は今年4月、避難指示の対象になった人が介護保険料や医療費負担を全額免除される特例措置について、段階的に終了させると表明しました。男性は、これが今の最大の不安だと言いました。

 最後に、自宅の隣にギャラリーを開いた人がいると聞き、訪ねてみました。山間部に3世代5人で暮らす60代の男性で、避難の翌年に村に帰還したそうです。建設現場で働くかたわら、自宅隣の倉庫を改装し、自分が描いた絵画500点をびっしりと展示しています。花や鳥、山の風景など、すべて原発事故後の作品で、色づかいや写実性はとても独学とは思えません。絵は震災前からの趣味だそうです。

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 「俺は絵筆を取らなかったら、普通の人間というか、たぶんパチンコとか行っちゃうんだね、人間って弱いから。そういうのは全然行くことなくなったし、絵をやるためにお酒もやめたし…。仮設では花しか描いてなかったけど、村に戻って来てから鳥も風景も描くようになって…本当にすごい所ですよ、川内村って。こんなに見るものがあって、こんなに魅力ある村があったのかなって…。小さな村だけど、ここで生まれてよかったです」

満足そうに話す男性の表情から、ふるさとで暮らす喜びがひしひしと伝わってきました。