【キャスター津田より】5月21日放送「福島県 浪江町」

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 今回は、福島県沿岸にある浪江町(なみえまち)です。人口が16000ほどで、原発事故では全住民が町外へ避難しました。2017年3月、人口の8割が住んでいた区域で避難指示が解除となり、計100戸以上の災害公営住宅、診療所、デイサービス施設などが新設され、銀行や信用金庫、自動車学校なども再開しました。大手資本の食品スーパー、ビジネスホテル、宿泊保養施設『いこいの村』、『道の駅なみえ』が相次いでオープンし、道の駅は全面オープンから丸1年で、48万人もの集客がありました。さらに、4年前に認定こども園と『なみえ創成小中学校』が開校し、震災前にあった小中学校は全て休校ないし閉校となっています。産業団地も整備され、世界最大級の水素製造拠点のほか、産業用ロボットの研究開発拠点、集成材を生産する県内最大級の工場など、大型の施設整備も相次ぎました。現在はJR浪江駅の西側で、介護関連施設や交流施設、子どもの屋内遊び場や運動場などを集積した複合施設を整備中です。
 一方、人口の2割が住んでいた地区は帰還困難区域となり、今も生活はできません。


 はじめに、町内に2軒しかない理容店の1つを訪ねました。店主は70代の女性で、避難指示が解除されたひと月後、避難先のいわき市から町に戻り、翌月には店を再開させました。戻る人は少なくても理容店は必要だと、浪江で再開したそうです。今では避難先からも、なじみの客が通っています。

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 「床屋がなくて、自転車で隣町の小高(おだか)まで行っていた人がいたの。髪の毛がボサボサで来て、“いや助かった”って…。最初のお客さんが、そうやって来てくれたんです。今は仙台とか、引っ越した人が電話で予約してくれて、月に1回、何もすることがないからってドライブがてら来てくれてね。ここに来て、命の洗濯したような感じで帰っていただけたらと思います。浪江はやっぱり故郷だし、みんなに喜んでもらえるし、帰ってきてよかった…やっぱりもう、ここです。自分のいる所はここです」


 次に、町役場から車で5分の高瀬(たかせ)地区で、避難指示の解除後すぐに自宅に戻ったという、70代の男性を訪ねました。避難中も毎日、自宅に通い続けたそうです。現在は1人暮らしで(奥様は孫の面倒を見るため避難先の西郷村に在住)、戻ってからは、約900坪の庭に100種類以上の草花を植え、近所の住民が季節ごとに花を愛でる憩いの場となっています。

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 「私はこの土地は絶対荒したくない。やっぱり私の目の黒いうちはきれいにしておこう、それを決心して戻ってきたんです。花は癒しだよ。きれいに咲いた時はうれしいぞ。みんなに“きれいだな、きれいだな”って言ってもらえれば、満足感あるもの。これからは浪江に移住した人、帰ってきた人が少しでも楽に生活できるよう、行政も考えてほしいんです。家の修理するにしても、店がなくては全然話にならないから…。浪江にはホームセンターが欲しいなと思うけどね」

 避難指示解除から5年ですが、町内居住者は人口の約1割で、町外居住者が9割…これが現状です。

 さらに道の駅に行き、7年前に取材した60代の男性を再び訪ねました。国の伝統的工芸品『大堀相馬焼(おおぼり・そうまやき)』の窯元で、避難先の二本松(にほんまつ)市に自宅を構え、窯も新設しました。故郷の大堀地区は帰還困難区域で住むことができず、道の駅では、各地に避難した窯元の作品を集めて展示販売しています。以前の取材では、被災した窯元が共同利用する二本松市の工房で、全国の同業者からの義援金で材料を購入し、作陶していました。当時はこう言いました。

 「大分県の80歳くらいの人ですが、ご主人が相馬焼を使っていたそうで、被災したのを知って、いち早く見舞金を送ってきたんです。その手紙を見て、ありがたくて涙が出ました。宝物ですよ、私の…」

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 あれから7年…。男性は改めて映像を見た後、年が過ぎると感謝の気持ちを忘れそうになるが、原点に戻った感じだと言いました。男性の家は『大堀相馬焼』の発祥といわれる、江戸時代初期から続く古い窯元で、男性で15代目になります。伝統を背負う誇りと責任は人一倍でした。

 「他の窯元は、西郷村、白河(しらかわ)市、矢吹町(やぶきまち)、郡山(こおりやま)市って、みんなお金をかけて、避難先で窯をつくったと思う。そしたらもう、大堀に戻る余力はないと思うんだ。俺の家から始まった『大堀相馬焼』だから、大堀の窯の火は消したくない。大堀に戻る気持ちは60~70%はあります。大堀に固執している、しがみついているというか、大堀を守らなくちゃならない」

 原発事故前、25ほどあった大堀相馬焼の窯元は10程度に減り、さらにその半分ぐらいは後継者がいません。帰還困難区域では、津島(つしま)地区など約660haが復興拠点に認定され、国の除染がほぼ完了し、町役場の津島支所も戻って業務を再開しています。公営の賃貸住宅も整備し、帰還に向けた準備のための宿泊も今年秋から許可される予定です(避難指示解除の目標は来年春)。伝統を守る観点から、大堀地区も窯元のある地点だけは、復興拠点の一部として除染が進められました。ただ男性が指摘するように、窯元が大堀に戻るには高いハードルがあります。


 その後、いったん隣の双葉町(ふたばまち)、『東日本大震災・原子力災害伝承館』で働く浪江町の20代の女性を訪ねました。通常業務とともに、震災の語り部も務めています。小学6年生で被災し、中学・高校時代は郡山市で過ごしました。去年、大学を卒業して伝承館に就職、今は南相馬市に住んでいます。彼女の故郷・浪江町請戸(うけど)地区は、津波で集落ごとなくなり、祖父母も犠牲になりました。彼女は300年続く『請戸の田植踊(たうえおどり)』の踊り手でもあり、10歳から務めています。

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 「今も避難先から請戸に戻ったら、そこにじいちゃん、ばあちゃんがいるんじゃないかっていう感覚が残っています。踊りを見て、“自分も踊っていたんだ”って言ってくれるおばあちゃんや、涙を流しながら手拍子をしてくれるおじいちゃんがいて、この踊りってすごく素敵なものなんだと気づきました。私には「伝」っていう字がカギで、一つは私が勤める伝承館の「伝」、そして『請戸の田植踊』は伝統芸能なので「伝」、さらに語り部で震災の経験を伝える「伝」です。“請戸っていう地区があったらしい”ってみんなが広めて、伝わっていってくれれば、請戸地区が忘れられずに残ってくれると思います」

 田植踊は各地に伝わり、保存会などが県内に約120団体、沿岸部の浜通り地方には約70団体あります。ただ70あるうち、復活したのは7団体です。『請戸の田植踊』も原発事故でメンバーが離散し、存続の危機に陥りました。しかし、各地の避難先から二本松市に子どもたちが集まり、浜通りの田植踊では最も早く練習を再開したそうです。その後は明治神宮や出雲大社に招かれたり、伊勢神宮での奉納も行いました。現在は請戸以外の人にも田植踊を教えて参加者を広げ、必死に継承しています。


 最後に川添(かわぞえ)地区で、4年前に取材した20代の男性を再び訪ねました。田畑に囲まれた作業場で、町で栽培されてきた特産のエゴマの種まきを行っていました。4年前は町に住む人が人口の2%しかおらず、男性は住宅街にある大きな民家を活用して宿泊施設を経営し、町を訪れる大学生などが利用していました。出身は白河市で、NPOでの勤務時に避難者支援に携わり、たまたま浪江の方々と関わる機会が多く、浪江に興味を持って移住したそうです。当時はこう言いました。

 「人がいないし、戻るのが難しいという声が聞こえていたので、ここに町民が来てお茶飲みするだけでもいいですし、若い人が集まって地域の人とつながるのもいいし、いろんなコミュニティが、ここから少しずつ生まれればいいと思います」

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 あれから4年…。男性は宿泊施設を閉鎖し、2年前、幼なじみの同級生を浪江に呼んで、エゴマの耕作組合を結成しました。避難中の農家の代わりに土地を耕し、約5haでエゴマを栽培・出荷しています。さらにエゴマの商品開発と販売を行う会社も起業し、道の駅でエゴマ油などを販売しています。

 「以前は地域にコミュニティをつくることがすごく大事で、宿泊施設も重要だったんですけど、今はだいぶ変化して、この町に若い人の働く場をつくらなきゃいけない状況になってきたので、今はそっちに注力しています。エゴマもそうですけど、農業って、作って卸しているだけだとお金にならないんですよ。もうちょっと経営的な視点で、ちゃんと農業で食べていける仕組みを作りたかったので、会社も興しました。町に戻る人って、今の人数くらいが限界…そこは変えようがない現実なので、新しく来る人と、戻ってきた人たちで、いかにワクワクする町をつくるかが大事かと思っています」

 町内では、各地区にコメの生産組合もできて、作付面積も広がっています。コメの乾燥と貯蔵を行う2つのカントリーエレベーターも完成しました。トルコギキョウの栽培も、地元農家に加えて異業種から企業が参入し、タマネギの産地化も進んでいます。約95億円で整備する県内最大級の復興牧場は2024年度に完成し、約2000頭の牛を飼う計画です。町の基幹産業にも、新たな光が見え始めています。