【キャスター津田より】4月23日放送「岩手県 大船渡市」

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 今回は、岩手県大船渡(おおふなと)市です。大船渡市は人口がおよそ34000で、震災前から約15%減少しました。震災では、400人以上が犠牲になり、2700棟を超える住宅が全壊しました。
 基幹産業は漁業で、震災の3年後には新たな魚市場が完成しています。復興事業は、ごく一部の県による工事を除き、ほぼ全て終わっています。もちろん仮設住宅はすでに無く(一時は約1800世帯が居住)、市民は集団移転先やかさ上げした土地に建てた家や、災害公営住宅(計801戸)に住んでいます。
 中心部の大船渡町(ちょう)は、JR大船渡駅を中心に、多くの住宅や商店街があった地区ですが、津波により甚大な被害を受けました(※市内の犠牲者の約4割が同地区)。しかし今では、駅周辺の土地区画整理事業が完了し、海側を商業地、山側を居住地としてきれいに整備されました。被災した飲食店や小売店が50近くも集まる“キャッセン大船渡”と“おおふなと夢商店街”を筆頭に、おおふなぽーと(防災観光交流センター)、公園や広場、ホテルなども新しくできました。JR大船渡線は、BRT(バスによる高速輸送)の専用道に変わっています。

 はじめに、大船渡町で去年3月にオープンしたカフェを訪ねました。60代と50代の夫婦が営む店で、市民が気軽に集まれる場所を作ろうと始めたそうです。看板メニューは フランスの“ガレット”(=ソバ粉をのばしてクレープ状に焼き、チーズや卵などを包んだもの)で、他店にはないメニューで作りやすいと、知人がすすめてくれました。ご主人は長年勤めた会社を辞め、奥様とともに渡仏。本場でガレット作りを学んだそうです。11年前の津波では自宅が流出し、ご主人は母親を亡くしています。

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 「津波の後、自分の家を探し歩いたんですよ。自分の家があった所まで行って、周辺を歩いてみると、ちょうど駅があった所が見えるし、何もない町が見えるんです。その時に、町のために何かしたいなと、漠然とした感情が湧いたのは覚えていますよ。若い人がいなくなって、お年寄りの方々が残っている…そういう人が一人でも入れる、くつろげる店ならいいのかな。楽じゃないけど、苦じゃありません。経営は大変ですけど、皆さんの笑顔が見られるので、それは苦ではない…逆に楽しいってことですね」

 次に、前述のキャッセン大船渡に行き、まちづくり会社を訪ねました。キャッセン大船渡の運営や、市を活性化する多くの企画やイベントに関わっています。去年春に入社した40代の男性は、もともと県内大手の新聞社の社員で、勤続20年で退社し、転職しました。大船渡で過ごしたのは5歳までと短いですが、強い思いを胸に帰ってきたそうです。今は東北大学と共同開発したスマホの防災ゲームアプリを手がけていて、QRコード付きの小箱が市内各所に隠されており、探してQRコードを読み込むと、震災経験から得た教訓について市民が語る動画を見たり、防災クイズを楽しめます。

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 「自分が生まれた原点がここだという気持ちはずっと持ち続けてきたので、生まれた所が大変な目にあった、でもそのまま何も関わらないで死ぬのかと思った時、やっぱり関わりたいなと思いました。外から来る人も、震災のことをどこまで地元の人に聞いていいのかとか、躊躇すると思うんですよね。でもゲームという言葉によって入りやすくなると思うし、また大船渡に来てほしいという思いが強くあります。次の世代にこの大切なふるさとをつなぐため、試行錯誤しながら町づくりを進めたいです」

 そして、大船渡のおすすめスポットなどを掲載するホームページの取材にも同行しました。制作は市内のIT会社が請け負っていて、この日はラーメン店を紹介する取材です。ライターは長野県出身の20代の女性で、この春、東京の大学を卒業して移住しました。きっかけは、去年2月の養殖業のアルバイト経験で、大船渡に初めて来て、わずか1か月の体験が人生を決めました。

 「震災の映像をニュースで見ただけなんですけど、“何か本当に怖いもの”という形でしか震災と向き合えなくて、この話が出ても私はすごく避けてしまって…。自分の目で見たことがなかったし、生の声を聞きたいと思って、10年経って向き合おうと決意したんです。大船渡に来てみたら本当に人が素敵で、離れてからも愛おしいし、いつか必ずまた帰りたいと思っていて、移住という大きな決断になったんです。大船渡にいると、自分がすごく穏やかに日々を送れているのがうれしくて…。自分が豊かになったなって実感します。大船渡出身って言われるくらい、愛を持って詳しくなっていきたいです」

 女性は今後、漁師とも協力し、漁業体験のための民泊にも取り組む予定です。
 その後、大船渡駅に近い創業60年の楽器店を訪ねました。店主は50代の男性で、楽器販売のほか、調律や修理も行っています。海に近い自宅兼店舗は津波で全壊し、震災の年の12月には仮設店舗で営業を再開。震災の3年後には、ローンを組んで、元の店から500m離れた所に新たな店舗を建てました。

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 「学生時代を除いて、ほとんどここで生活してきましたので、愛着もひとしおですし、この土地を離れるつもりは全くありませんでした。店を再建する時、ディスプレイとか、ワゴン車にぎゅうぎゅう詰めにして手伝いに来て下さった問屋さんもいるんですよ。楽器は生活必需品と違って、心のゆとりがないとできないし、人口減になるとお客様も減ってしまいますよね。でも、楽器に触れあってニコっとしてもらえると、なんか人の役に立ったなみたいな、やりがいはありますよね。10年間、震災のことを考えない日はないですもんね。夢に出てきたり、誰かと話した時についその話をしてしまうんですけど…。そういうのが1日ずっと無かった、1日ずっと忘れられたら、復興した日なんだろうと思います」

 さらに、末崎町(まっさきちょう)にある災害公営住宅にも行きました。市内の災害公営住宅では、65歳以上の住民が4割を超えています。津波で自宅を失い、6年前から一人で暮らす80代の男性は、若い頃は卓球で国体に出場し、釣り船の船長や高齢者スポーツの指導者など、元気に暮らしていました。しかし、仮設住宅で負ったケガで車いす生活になり、津波で一命をとりとめた妻は、公営住宅の入居直前に亡くなりました。ホームヘルパーと娘以外に訪問者はなく、車いすの上に、隣近所との交流がほとんどないため、“ここで死んでも、しばらく誰にも見つからないのかと考えてしまう”と言いました。

 「友達もコロナのために、遠慮して来なくなったからね。もう誰も来なくなったから…。朝、隣近所みんなしてドアを開けて、“きょうも変わりないですか”と声をかけてもらえれば、ありがたいと思うのね。やっぱり1人になってみて初めて、1人じゃ生きていけないっていう…年をとってから、寂しさが非常にこたえるの。だから、とにかく音が、話し声が聞こえているように、1日いっぱいテレビもラジオもかけっぱなしで…。安心して休めるのはね、やはり人の声なんですよ」

 災害公営住宅は自力再建が厳しい高齢世帯が多く入居し、年を取るほど足腰が弱り、目や耳も悪くなって外出が困難になります。夫婦どちらかの死亡や介護施設への入居で、一人暮らしも増加の一途です。自治会の活動実態がどんどんなくなり、暮らしを相互監視する機能が衰退して、孤立死も増えます。阪神淡路大震災の被災者が入る兵庫県内の災害公営住宅では、震災から20年後までで、孤立死はおよそ900人です(兵庫県警の検視結果を基にした集計)。同じことを繰り返すわけにはいきません。

 最後に、9年前に取材した仮設の理髪店を再び訪ねると、今も仮設のまま営業していました。店主は70代の女性で、店と自宅を津波で失いました。以前、女性はご主人と並んで、こんなことを言いました。

 「やっぱり家が欲しいですよ。まだあまり考えていないけど、家が建ったら、主人は金魚を飼うのかな…前の家で池を作って、金魚をふ化させて増やしていたんです。主人の趣味なので。この前、ホームセンターを見てきたら、震災以来、初めて金魚を売っていたんです。主人はよっぽど欲しそうな顔をしていましたけど、ストップかけました。仮設では置くところないんでね(笑)」

 今回、当時の映像を改めて見て、女性はハンカチで目頭を押さえました。震災後、二人三脚で歩んできたご主人は、今年2月に突然の病で亡くなったそうです。海が見える高台に再建した自宅には、ご主人が飼育していた金魚が、手つかずのまま残されていました。

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 「急に朝、亡くなったのでショックでしたね。しばらくは何にも…。金魚は受け継がないと、水槽も掃除しないとダメだなって思いますけど…何ヶ月もこのまま置いていて、かわいそうなのでね。主人は花も好きで、植木を植えて、野菜や果物も作っていたし。あと何年か楽しんでほしかった…それだけは思いますね。仕事があるから、あまり落ち込まなかったかなと思うこともあります。震災といい、今度といい、仕事があってよかったです。その中で励まされたり、すごく助けられました」

 ただ、家に1人でいると、ご主人のためにもっと何かできたのでは…という後悔の念がどうしてもつのるそうです。今後はご主人が庭に植えた果樹を実らせ、墓前に供えることが目標だと語りました。