【キャスター津田より】4月16日放送「宮城県 石巻市」

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 今回は宮城県石巻(いしのまき)市です。人口は約14万で、震災では3900人以上が犠牲になりました(関連死を含む)。建物も33000棟余りが全半壊しています。一部の道路などを除いて主要な復興事業は終わっており、最近は北上川河口に“石巻かわみなと大橋”という新しい橋もお目見えしました。
 石巻市は、震災前(平成17年)に旧石巻市と6つの町が合併した広い自治体です。それだけに復興の過程も課題も一様ではなく、昔からの中心市街地では空洞化が深刻だし、さくら町、のぞみ野、あゆみ野など、震災後の集団移転で生まれた1000人単位の新興住宅地では、移転規模が桁違いだけに、コミュニティーの形成や孤立防止が課題です。水産加工業者が密集する地区では、震災で失った販路の回復や借金返済などが最大の関心事ですし、中心部から極端に離れた地区では人口減少が深刻です。
 その中で今回取材したのは、牡鹿(おしか)半島をエリアとする牡鹿地区です(合併前の旧牡鹿町)。漁業を生業とする小さな集落が点在しており、石巻駅から半島の先端までは車でも1時間近くかかります。震災では119人が犠牲になり、遠隔地だけに人や資材の運搬も効率が悪く、復興は遅れました。

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 はじめに、震災3か月後に小渕浜(こぶちはま)で取材した漁師を再び訪ねました。当時40代の男性で、津波で自宅や船、漁の道具も全て失いました。避難所が足らず、流失を免れた家の大きな倉庫で、10人余りのご近所さんが共に寝起きする生活を送っていました。男性はこう言いました。

 「自分の中では“漁業をやりたい”って気持ちが強いんだけど、正直迷いがありますね。息子、嫁からは“もう浜を見たくない”と聞いていたので、自分だけよくても家族のことも考えなきゃならないし、なかなか難しいところなんですよね。簡単に“やる”って言えないですよね」

 あれから11年…。男性は50代になり、新たに船や道具をそろえ、漁業を再開していました。自宅は牡鹿地区の外にある市街地に再建し、毎日浜まで車で通って仕事しています。

 「再開できたのは、一番は仲間のおかげだったのかな。一緒に避難して、協力しながら、毎日飯を食って、酒飲んで、“お前どうするんだ”“じゃあ、やるか”って相談し合いながら…それが一番の励みだったかな。漁も生活も、先ばかり見ると大変なので、とりあえず今できることを、できる範囲で頑張っていこうと思っています。生活は大変ですよ、やっぱり。船や道具で借金したじゃないですか、それを考えてしまうと動けなくなるから、とりあえず今日、明日、明後日と思うようにしたんです」

 24才の息子は、浜を出て就職するのをやめ、2年前に漁師になりました。最後に彼はこう言いました。

 「震災で何もなくなった浜を見て、“ここでは何もできない”って思ったんです。でも、父のことなどをいろいろ見て、やればいろんなことに挑戦できるんだって思ったので、戻ってきました」

 次に、家屋の6割が全壊や大規模半壊だった、十八成(くぐなり)浜に行きました。復興事業はほぼ完了し、海水浴場も整備されています。ここでは7年前に取材した、自治会長の70代の男性を再び訪ねました。大切な生家を流されましたが、めげずに一念発起し、男性は水産加工会社を起こしました。少しでも浜に雇用を生み、震災後の人口減少に歯止めをかけるためでした。牡鹿半島は昔から捕鯨で栄えた地域で、調査捕鯨の鯨肉に味を付けて販売していました。当時はこう言いました。

 「若い人たちに、なんとか来て住んでもらえる工夫をしなければと思います。5年後の十八成浜を見てほしいです。津波に対する挑戦ですよ。これでもかと苦難が来たんだけど、なにくそという気持ちで…」

 前回言った“5年後”となる今回、男性は“工夫しても若い人は入って来ないもんね”と静かに語りました。人口は減り続け、地域需要の減少とコロナ禍による客足の減少で、会社は去年廃業しました。

 「努力したんだけど、なかなか難しい…でも一生懸命やった甲斐はあったかな。お中元用、お歳暮用として地域の人たちに喜ばれましたよ。他の地域でもいろいろ買っていただいて…。今は地域を維持していくのが大変なんですよね。年を取っている人たちがいっぱいいるので、お金も集めづらいし、今後どうなっていくのか…。やっぱり海がきれいなのと、静かで穏やかに生活できる場所なんで、住みたい人はぜひ十八成浜に来て、住んでください、お待ちしております」

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 牡鹿地区の人口は、震災前からほぼ半減しました。以前から不便だったため、仕事や通学を考え、震災を機に市街地に移った人もかなりいます。約150世帯300人が暮らしていた十八成浜で、結局のところ市が高台に整備したのは、宅地7戸分と、戸建て(平屋)の災害公営住宅24戸です。住民の大半は高齢で、年ごとに高齢者施設に入る人や亡くなる人も出て、公営住宅の空きも増えました。市は、被災者以外も災害公営住宅に住めるよう変更し、入居者の所得制限も緩和しました。空いた宅地にアパートや寮などの共同住宅を建てるのも可能になりました。十八成浜では去年、空いた4戸を社会福祉法人が借りて、障害者グループホームが誕生しました。それでもまだ空きがあり、厳しい現実と直面しています。

 その後、日本有数の捕鯨基地・鮎川浜(あゆかわはま)に行きました。かさ上げされた4haあまりの区域には、鯨料理の店や土産物店などが入る観光物産交流施設、捕鯨基地の歩みを伝える“おしかホエールランド”、地域の自然や暮らしを紹介する“牡鹿半島ビジターセンター”と、3つの施設が一体的に整備されました。総事業費6億8000万円のホエールランドは、クジラの骨格標本や捕鯨道具も展示し、来館者は開館1カ月で1万人を超えました。実際に使われた大型捕鯨船も展示され、無料で見学できます。一方、これらの施設は復興の遅れも象徴していて、完成までには震災から8~9年かかりました。
 かさ上げした区域に去年オープンしたカフェレストランを訪ねると、店長は20代の男性でした。自宅と親が営む民宿が津波で全壊し、現在は修復した自宅に両親と3人で暮らしています。住民が減る中、人が集う場所を作ろうと店を始め、民宿で料理の腕を振るっていた60代の父親も厨房に立っています。看板メニューは“鯨の竜田揚げ丼”で、独特の甘辛ソースがお客さんに好評です。実はこの男性、以前は自衛官で、3年間の勤務のあと、店を開くため地元へ戻りました。

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 「自衛隊だったら職場としては安定しているけど、本当に自分がやりたいことかって言われたら、そういうわけでもないし…。お店を持つにあたって、いろいろ悩んだ時もありました。でも悩んで何もしないよりは、やってから後悔したほうがいい、まずは試してみよう、頑張ろうと思いました。地元が盛り上がるには若い人の力が必要で、若い人が頑張れば、もっとよくなるんじゃないかなと思います」

 そして、同じ鮎川浜に住む、神奈川県出身の30代の女性も訪ねました。牡鹿半島でカヤック体験や山歩きのガイドをしていて、ボランティアで通ううちに移住を決意したそうです。元々アウトドアが趣味で、3年前にカヤックガイドとして独立し、牡鹿の自然を残したいと、海の清掃活動も行っています。

 「自分に何ができるんだろうという思いは大きくて、ボランティアは一生寄り添っていける訳じゃないので限界があるし、住んじゃえば地域の人間として、いろいろ関われると思ったので…。海と山が近くにあって、いろんな資源がとれて、その中で遊べる…私はここが大好きな場所で、これからも今みたいに豊かであってほしいと思うし、“つらいことが起きた場所で遊ぶって、どう捉えられるんだろう?”っていう思いもあるので、本当にただ遊ぶだけじゃなくて、(観光客に)何かを持ち帰ってもらえるようにしなければと思います」

 最後に、津波で130軒以上の建物が全壊した、小網倉(こあみくら)浜に行きました。畑仕事をしていた80代の夫婦に話を聞くと、自宅や船、養殖設備など、津波で全て流されたそうです。震災前は長男とカキ養殖をしていましたが、長男は消防団の活動中に津波の犠牲になりました。震災後、養殖をはじめ、刺し網漁なども完全に引退し、畑で様々な野菜や花をつくるのが今の楽しみです。次男や長女は牡鹿地区を出て家庭を築き、夫婦で災害公営住宅に暮らしています。2人はこう言いました。

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 「津波で何もかにも一変してしまった…。重いものを持つとか、畑でしんどい仕事にぶつかると、こういう時に息子がいたらいいなって思うな。でも、しょうがないんだな…。家にいてテレビばかり見ていると余計なことばかり思い出してね…家にいたって、泣きたくなるから。こうやって畑さ来て、楽しみながら好きなことしていければいいって思っているの。2人で頑張るしかない、生きているうちは」

 復興事業がほぼ終わり、人々が新たな住まいで平穏に暮らす姿に胸をなで下ろす一方、11年前の傷は決して消えないことにも気づかされます。