【キャスター津田より】3月5日放送「福島県 大熊町」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、福島第一原発が立地する大熊町(おおくままち)です。人口が約1万で、全町民に避難指示が出され、津波の被害もありました。9割以上の町民の自宅は、放射線量の高い“帰還困難区域”にあり、避難指示が続く町民たちは県内外に離散したままです。
一方、帰還困難区域から外れた大川原(おおがわら)・中屋敷の2つの地区のみ、3年前の4月に避難指示が解除されました(※ここに住所があるのは人口の3~4%)。

hisaichikara_220305_02.jpg

 まず、その大川原地区に行きました。新しい役場庁舎で町職員が働き、平屋の災害公営住宅(2~3LDK)や、主に廃炉関連企業の社員などを想定した賃貸住宅が整備されました。いま大川原地区に住むのは355人で、東電の社員寮で生活するなど、住民登録のない人も含めると、推計919人です(1月末 町発表)。
 大川原地区では、2020年に高齢者のグループホームを含む福祉施設が開設されました。去年は診療所が開業し、商業施設もオープンしました(テナントは飲食店4つ、コンビニ、雑貨店、電器店、美容室、コインランドリーの計9店)。さらに、13の客室と日帰り入浴も可能な大浴場がある宿泊施設が開業し、町民の交流施設も完成しました。今年、幼・小・中の一貫校“大熊町立 学び舎(や)ゆめの森”が避難先で開校し、来年度には大川原地区に戻る予定です。国内有数の学校図書館などが特徴です。

hisaichikara_220305_03.jpg

 はじめに商業施設で、創業40年、ナポリタンが名物という町民なじみの喫茶店を訪ねました。マスターの60代の男性は、原発事故後、100㎞離れた会津若松(あいづわかまつ)市へ避難し、7か月後にはそこで店を再開しました。店の再開を望む声に押されて帰還し、現在は夫婦で災害公営住宅に暮らしています。趣味の音楽を生かし、若者も意識した音楽サークルの活動やミニコンサートも行っています。

 「大熊の人たちは行く所がない、やることがない、だから商工会に“早く店をやれ”って言われてね。当時は町に戻ることは考えてないよ。そこ(会津)で終わろうかなと思ってた。いま楽しいのは、大熊まで来てくれる昔からのお客さんだね。(避難先の)いわき、郡山(こおりやま)、遠い所だと群馬、東京から来るから…心が休まるというかね。若い人が早く戻ってほしいです。年寄りだけでは限界でしょう。建物はある程度できたから、今度は“人づくり”をしなければ…これからはそっちが大事だよ」

hisaichikara_220305_04.jpg

 次に、3年前に完成したイチゴ栽培工場に行きました。町が約20億円を投じて建設し、ハウスはサッカーのフィールド4面分もあります。コンピューターで温度や水の量が管理され、通年栽培・通年出荷が可能です。従業員は20人で、約半数は町に戻った人だそうです。工場長は北海道出身の40代の男性で、元は料理人でした。妻の故郷・福島でイチゴ栽培の工場長の募集があり、転職したそうです。

 「試行錯誤しながら、ほとんど2年間、僕はハウスで寝泊まりしながら作りました。“寒い?寒そうだけど大丈夫?”って、イチゴに話しかけながら…(笑)。ここで働いている人が自分でやってみたいと、この町でイチゴ農家を始めれば、いろいろサポートしてあげられるし、そういう人が増えてくれれば…。“いつのまにかイチゴの町になったよね”って言われたら、面白いじゃないですか。今後は、町にお店も作ってあげたいです。焼き鳥屋、ラーメン屋、そば屋もないし、もともと料理人ですから、ちょっと食べられる所、飲める所、みんなが楽しめるお店を作ってあげたいですね」

hisaichikara_220305_05.jpg

 そして、約130人が暮らす災害公営住宅も訪ねました。出会った70代の男性は、3年前からここに住み、妻と猫5匹とともに生活しています。帰還困難区域に自宅があり、新築して3か月で避難を余儀なくされました。地震の被害は軽微だったため、男性は原発事故の直後から、避難先の田村(たむら)市などから一時帰宅をくり返し、自宅の維持・管理をしてきました。いずれ自宅に戻る予定です。

hisaichikara_220305_06.jpg

 「許可もらって家に来て、たまに窓を開けて空気を入れ替えて…。掃除したくても水道は出ないしね。(一時帰宅を終えて)帰る時は、嫌な気分で帰らなくちゃいけない。自分の家があるのに、何であっちに帰らなくちゃいけないのって。私は小さい頃から本当に大熊の皆さんにお世話になったので、他に行くことは考えられない。自分の家に戻るだけです。世話になったからって大熊の人に何か返せるわけじゃないし、ただ大熊町にいるだけ。住み続けるのが大熊町のためになると思う…それだけですね」

 その後、約4500人の大熊町民が暮らす、いわき市で取材しました。前述の大川原地区は、帰還困難区域を外れた特殊な地区です。実際は9割の町民の自宅が帰還困難区域にあり、他県も含めた町外に新たな自宅を構え、第2の人生を歩む人が大多数です。
高久(たかく)地区では、5年前にも取材した70代の男性を再び訪ねました。妻と2人暮らしで、帰還を諦めて市内に自宅を再建しました。近所に大熊町の知人はほとんどおらず、いわき市に住む大熊町民の会を結成し、食事会やお茶会、サクランボ狩りなどを企画してきました。以前はこう言いました。

 「コミュニティを大切にしたいんです。大熊からこちらに来て、寂しく生活している人が多いと思うので、そういう人のストレスを少しでも和らげたい…楽しい毎日が送れるようになれればと思います」

hisaichikara_220305_07.jpg

 今回、再会した男性に聞くと、大熊町の自宅は残していますが、やはり今も戻るつもりはないそうです。町民の会は180人ほどになり、1回の集まりで、多い時は50人ほどが顔をそろえるそうです。

 「私、ほとんど毎日夢を見るんですけど、避難してからの夢は1回も見たことないんですよ。昨夜も隣組の人たちと遊んでいる夢を見たんだけど、大熊に住んでいる時の夢しか見ない…10年も過ぎているんだから、避難後の夢を見てもいいと思うんだけど、不思議なんですよね。会では今も、毎年バスツアーとか、ブドウ狩りとか、季節に応じて結構行っています。大熊町を離れて11年、今でも人と人とのつながりの大切さを感じています。時が経った今のほうが、余計に強く感じるというか…。(2011年)3月10日に戻らないのかと時々思うんですよ、絶対無理な話なんだけどね。この団地の方にもお世話になりながら住んでいますけど、やっぱり大熊に住んでいた生活とは全然違います」

 さらに、男性の家の近所にある洋菓子店を訪ねました。ケーキや焼き菓子のファンが多く、特にアップルパイは昼前に売り切れてしまいます。60代のオーナーシェフの男性は5年前にも取材した方で、大熊町で30年間店を続け、隣町にも店を出しました。原発事故で2つの店は閉店し、翌年、いわき市で店を再建しました。以前はこんなことを言っていました。

hisaichikara_220305_08.jpg

 「最初は焦っていたんです。そのうち冷静になって、“これは帰れないぞ”って…。大熊町に帰らないと諦めがついたか分からないけど、作るものは何となく、“売れるもの”から“自分が好きなもの”に変わってきました。避難していた1年間、お菓子のこと、家族のこと、人生のこと、いろいろ考える時間があったし、そのせいかなと思います。大熊は忘れません」

 あれから5年…。最近ではケーキ作りやメニューの考案は、一緒に働く息子に任せています。将来、避難指示が解除されたとしても、大熊町での再開は難しいと思っているそうです。

 「息子は東京のお菓子の専門学校を卒業して修行に出て、まもなく震災だったので、他のお店で修行するのもいいし、任せたんです。そしたら、“新しく店をオープンするなら、帰って手伝う”って…うれしかったですね。自分が弁当屋などの飲食店、食事系の店なら、需要があるから大熊にとっくに店を出していたと思います。でも、お菓子は不安なんです。町に帰って店を開いた時、喜んでくれる人がどれくらいいるのか…それが気になります。今はとにかく、楽しい1日が過ごせればそれでいいですね」

 町民の多くは人生の拠点を別の町へ移しましたが、帰還に向けた事業は行われています。帰還困難区域の中の“復興拠点”(約860ha=町面積の約1割)では、国が優先的に除染やインフラ整備を行い、この春に避難指示が解除される見込みです。すでにJR大野駅周辺など一部(28ha)は、常磐(じょうばん)線の全線再開に合わせ、2年前に避難指示が先行解除されています。復興拠点に住所があるのは約2200世帯6000人で、震災前の人口のほぼ半分です。去年12月から帰還準備のための宿泊も始まり、先月末、大野駅前に交流施設もオープンしました。今後、宅地の整備を進め、農地、産業用地、商店などが集まるエリアも設ける予定です。ただ、2月に公表された住民意向調査(復興庁などが実施)を見ると、“町に戻りたい”と答えたのは13%です。“判断がつかない”は23%、“戻らない”は57%でした。住民が帰還を断念する中、帰還に向けた事業は粛々と進む…これは後世に残すべき原発事故の教訓です。