【キャスター津田より】2月26日放送「宮城県 山元町」

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今回は、宮城県の沿岸にある山元町(やまもとちょう)です。人口およそ12000で、イチゴの産地として東北有数の生産量を誇ります。震災では630人あまりが犠牲になり、2200棟以上の住宅が全壊しました。イチゴ農家の9割以上が壊滅的被害を受け、約半数が廃業しています。
震災後、JR常磐(じょうばん)線のルートが内陸に移され、新しい駅の周辺など3ヶ所に絞って集団移転団地がつくられました。移転先には大きな街が生まれ、宅地のほか、災害公営住宅や学校、スーパー、ドラックストアなども整備されました。被災者の大規模集約は、この町の特徴です。一方、少数ながら被災した自宅を修理して住む人もいて、集団移転した人との支援格差が指摘されています。

 はじめに、震災から3週間後の避難所で取材した、小学3年生の女の子を再び訪ねました。不安な表情を浮かべ、連絡のとれない親友に会いたいと語っていた女の子です。あれから11年…20歳になった彼女に再会してみると、立派な若者に成長していました。仮設住宅で4年間暮らした後、両親は内陸部に自宅を再建し、現在は祖母を含めて家族5人で暮らしています。高校卒業後に隣町の物流会社に勤務し、今年の町の成人式では実行委員も務めました。彼女が通っていた中浜(なかはま)小学校は廃校になり、現在は震災遺構となっています。

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 海岸から約400mにある校舎に10mほどの津波が押し寄せ、屋上を残してほとんどが浸水しました。90人の先生と子ども、そして避難してきた住民が屋上の倉庫で一夜を明かし、全員が救出されました。現在は、暖をとるため倉庫の床に敷いた段ボールをはじめ、突き破られた窓や露出した鉄筋など、被災当時の姿がそのまま残されています。彼女はこう言いました。

 「逃げている途中、後ろを振り返って津波を見ました。“もう自分は死ぬんだな”という感じで、死を覚悟したというか…。小学校は本当に来たくないし、怖かったんですけど、よく考えれば校舎に守ってもらったので、今は毎回来るたびにすごく感謝しています。連絡が取れなかった親友とは、その後会えました。去年、“10年が節目”という声をよく聞いたので、まだ忘れないで欲しいです。中浜小学校の語り部だったり、自分が伝えられることは、いろんな人に伝えられたらいいなと思っています」

 次に、同じく震災3週間後に避難所で会った、小学6年生の男の子を再び訪ねました。駅近くにあった自宅は全壊し、両親は復旧作業に追われていました。早く電気を復旧してほしい、夜はろうそくの明かりでラジオを聞いて、つらい状況だと訴えていました。あれから11年…彼は23歳になり、介護の仕事をしていました。被災後にリフォームした自宅で、家族5人で暮らしています。震災当時は“どうせ自分は何もできない”という思いが強かったそうですが、中学校に入って吹奏楽部で仮設住宅を慰問してから、気持ちが変わったそうです。高校、大学ではボランティアサークルに所属し、3年前の台風19号では、衣類やタオルなどを集めて被災地に届けました。

 「吹奏楽の慰問で、“楽しかった”、“来てくれてありがとう”と言われて、うれしかったのが記憶に残っています。それがきっかけで、“自分もできる”みたいな気持ちになりました。震災の経験があったから、いろいろ考えるきっかけになったと思います。震災の時に助けてくれた人、手を差し伸べてくれた人…本当に感謝しきれない人が多いです。これからは自分たちだけの力でどんどん盛り上げていくような町をつくれたら、その手伝いができたらと思います」

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 その後、JR山下(やました)駅を中心とする、つばめの杜(もり)地区に行きました。6年前、大規模な集団移転によって誕生した街で、今では540世帯以上が暮らしています。地区内にオープンした『こどもセンター』を訪ねると、親子の交流会が開かれていて、未就学児と親が歌や遊びを楽しんでいました。企画したのは町の子育て支援団体で、ほぼ毎日、町内で交流会を開いています。町の女性たちが震災の2年後に設立し、現在はスタッフも増え、交流会の運営や子育ての講習会、こどもミュージカルの上演など、活動が広がっています。

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 創立メンバーの1人、40代の女性に聞くと、子育てが始まって間もなく震災があったそうで、今の活動を始めたのは、あるママ友との約束がきっかけだと言いました。

 「彼女とは“一緒に山元町を盛り上げていきたいね”って言っていたんですが、震災で亡くなってしまって…。 震災後、ママ達から“室内で遊べる場所が欲しい”という声がすごくあって、その時、彼女の思いも受けて“やっぱりここは自分が頑張んなきゃいけない”と思いました。きっと今も一緒に見てくれていると思いながらやっています。“もっと頑張りな”って言われていると思うのでね」

復興事業の完了を待てずに町を離れた人も多く、山元町の人口は震災前から28%も減りました。そこで町では、子育て世代の移住に力を入れています。集団移転用の宅地の申し込みが伸び悩むと、いち早く条件を緩和して、被災者以外にも分譲を始めました(つばめの杜地区では、1/4にあたる52区画を一般向けに分譲)。

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町独自の移住支援策も多彩で、新たに転入した新婚世帯や子育て世帯が家を新築する場合、補助金が出ます(4人家族で最大370万円)。駅に直結してスーパーや学校も近いうえ、仙台市内の宅地価格よりも安く、移住する人が徐々に増えました。2017年には震災後初めて、転入が転出を上回りました。子育て支援の活動は、ますます重要になるはずです。

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 さらに、沿岸部の花釜(はながま)地区へ行きました。震災前は賑わった地区ですが、全域に津波が及び、町内で最も大きな被害が出ました。ここでは、ボランティアたちの活動拠点を提供してきた、50代の男性を訪ねました。海から1㎞にあった自宅は全壊し、男性は家族を連れて町を離れ、仙台に居を構えました。それでも町に通って思い入れのある自宅の復旧に取りかかり、県外から来た多くのボランティアも助けてくれました。震災翌年、住む人のいない自宅を無料宿泊所としてボランティアに開放。利用者の輪は徐々に広がりました。6年後、道路工事の立ち退き対象となって解体されることになり、男性は近所にあった中古の一軒家を自腹で購入して、ボランティアのシェアハウスにしました。今では定期的に交流イベントも開き、地元住民と町外の人たちをつないでいます。

 「知り合ったボランティアさんに聞いたら、役場の近くにテント村があって、そこでみんな寝泊まりしているという話だったんで、そこまでして…と思ってね。自分だったら、絶対そこまでできないなって思ったんです。だから自宅を開放して、電気も地区で最初に通してもらいました。家の取り壊しが決まって、ボランティアさんとの縁が切れるような気がしたので、この家を買いました。家族への説明は後付けで、“買っちまったな”みたいな…。できればここを長く続けたいですけどね」

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 自宅を失って不安に押し潰され、それでも一家の大黒柱ゆえ、家族に弱音を吐くことは許されない…そんな状況の中、親戚以上に献身的に助けてくれる人たちと出会い、本当に心が救われ、彼らの前で泣いたそうです。当時の話をしながら、今なお言葉が詰まってしまう場面が何度かありました。
その後、この家を母親と2人の息子が訪ねてきました。男性とは長男が幼稚園の頃からの付き合いだそうで、現在長男は19歳、次男は12歳です。実はこの親子、震災の3週間後に私たちも取材していました。自宅が半壊し、家族5人で避難所暮らしを続けていて、お母さんはこう言いました。

 「子どもたちはいつも笑って遊んでいてくれるけど、自分もまた、心から笑える時まで頑張らないといけないと思います」

その後、一家は自宅をリフォームして戻ったそうで、お母さんは現在、訪問介護の仕事をして、次男が通う小学校のPTA会長も務めています。長男は中学校入学後、学校になじめず不登校になり、高校にも入りましたが続きませんでした。ある時、お母さんはボランティアが集まる男性の家へ、彼を連れていきました。震災ボランティアと知り合う中で、彼もボランティア活動に積極的に携わるようになり、様々な大人から影響を受けて成長しました。地元の夏祭りなども手伝うようになり、現在は通信制高校で学んでいます。彼はこう言いました。

 「ボランティアの人たちは気さくというか、親しみやすかったから、けっこう居心地のいい場ではありましたね。あんな大震災はもちろんない方がいい。でも、震災を機にできたこと、会えた人がいっぱいいるんで、そこは大切にしていきたいと思っています。自分のやりたいことができるような大人になりたいですね。できれば地元に何か貢献できる仕事がしたいと、ずっと前から思っていたので」

そう語る息子の横で、お母さんは彼の表情をじっと見守っていました。