【キャスター津田より】12月11日放送「岩手県 山田町」

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 今回は、漁業が盛んな岩手県山田町(やまだまち)です。人口が14000余りで、震災では家屋の約38%にあたる2700戸以上が全壊し、津波が原因となった火災で中心部が広い範囲で焼失しました。
 災害公営住宅の整備、集団移転や土地区画整理事業での宅地引き渡し、仮設住宅からの退去、道路の整備等々、主要な復興事業は全て完了しました。一昨年は三陸鉄道リアス線が開通し、三陸道の山田インターチェンジ付近には、新たな道の駅も整備される予定です。

 震災後、町では、点在していた店や施設などを陸中山田(りくちゅうやまだ)駅周辺に集約する“コンパクト化”を進めました。個人商店のほか、地元スーパーを核に10店舗ほどが入る共同店舗があり、金融機関や郵便局、図書館の入る公共施設や大型駐車場もあります。やや離れた国道沿いにも10店舗ほどからなる別の商店街があり、生鮮食品や飲食の充足に限らず、理髪店やクリーニング店、書店や写真館まで、生活に関わる需要には一定の対応をしています。さらに各地の高台には、住宅地をはじめ、県立病院、消防署や交番が再建され、中心部と住宅地や病院は、循環バスや新しい道路でつながれました。

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 はじめに、魚市場周辺で開かれた『山田まるっと産直まつり』に行きました。新鮮なカキやホタテ、水産加工品、野菜などを販売する催しで、地元の16店舗が参加し、来場者は1600人を超えました。創業50年の水産加工会社のブースでは、社長の50代の男性が話を聞かせてくれました。津波で自宅と工場を全て流されましたが、翌年に仮設工場で事業を再開し、その2年後には新工場を建設しました。

 「岩手県山田町という看板を背負って商品を世に出すのは、自分の地域貢献だと思っているんです。どんどんグローバルな社会になって、今の子どもたちが海外に行った時に、“これ、うちの町で作ってるものだよね”と見かけたら、すごいことだと思います。小さい町でも世界レベルの商品を提供できるということを、子どもたちには教えたいです」

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 コロナが落ち着いたら世界にも挑戦したいと語る社長ですが、特産の“新巻鮭(あらまきざけ)”は、原料のサケが不漁で製造に苦労しています。社長は真剣な顔で言いました。

 「新巻鮭は倍近い値段になっているので、町で季節のものが獲れないのは、本当に打撃ですよね。漁師もそうですし、運送屋さん、市場の取り扱い、加工する側、本当に大変ですね」

 岩手の漁業の主力魚種はサケです。ここ3,4年は深刻な不漁で、サケが成長して戻ってくる数(回帰数)は、震災前の5年間の平均は836万匹でしたが、2019年度は77万匹、昨年度59万匹でした(県水産技術センター調べ)。県内で本格的な稚魚放流が始まった1984年以来、最低です。複数の専門家が近年の海水温上昇を原因に挙げていますが、昨今は船の燃料高騰もあり、震災以来のピンチです。

 次に、カキの水揚げが最盛期を迎えた山田湾の大沢(おおさわ)漁港で、30代の漁師の男性に話を聞きました。震災時は東京で配管工として働いていて、4年前に故郷に戻りました。実家が漁師だった母親から養殖の仕事を勧められ、町の支援事業や地元漁師に弟子入りして1年間修行したそうです。先輩から漁具を譲ってもらい、助言を受けたりしながら、3年前にカキとホタテの養殖を始めました。母親に加え、大工の父親も慣れない手つきで水揚げやカキ剥きを手伝い、今年が初めての出荷です。ふっくらしたカキの身を見せながら、男性は、転職のきっかけは震災で傷ついた故郷の姿だったと語りました。

 「まず第一に、地元のために何か出来ることはないかと、仕事でも何でも、何かできることはないかと帰ってきて、そしたら母から“漁師をやってみないか?”と…。自信は全くなかったですけど、やってみようかと思いました。こういうカキがとれるようになって、本当にうれしいの一言ですね。津波で流されて困っている人、家がなくなって困っている人、皆いろんな苦しみや悲しみを乗り越えてきたはずなので、俺の中では“思いやり”を一番大事にして、この町で生きていきたいと思っています」

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 震災後、岩手、宮城、福島3県の漁協の組合員は、津波被害と原発事故、高齢化と後継者不足で、一気に2、3割は減ったと言われています。一方、漁業と無縁の若者が震災後にUターンしたり、移住したりして、漁師になった例は各地にあります。数はかなり少ないですが、希望はゼロではありません。

 さらに、織笠(おりかさ)地区の体育館に行き、ミニバスケットボールのチーム『山田ホエールズ』を訪ねました。震災後、9校あった小学校は統廃合で3校となり、4つあったミニバスケットのチームも1つに合併しました。小学3年生から5年生の女子12人が所属していて、監督は水産加工会社に勤める40代の男性です。震災前から指導しており、チームの半分が津波で自宅を失う中、震災の3、4ヶ月後には活動を再開しました。全国から支援で届けられたボールは、今もきちんと保管しています。

 「“ありがたい”しかないです。ボールもバスケットシューズも流されて、何一つない状況だったので、当たり前にバスケットができる環境がすごく幸せだと思っています。支援をいただいたからこそ、感謝を忘れないように日々頑張っていきたいです。バスケットをしている子どもたちを見てもらい、成長した姿を見せて、“ここまで復興できました”と伝えられればいいと思っています。卒業した子も震災をきっかけにして将来のことを決めたり、実際に自衛隊に入って頑張っている子もいます」

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 次の日、5年前に取材したパン職人の男性を再び訪ねました。当時は20代で、震災の3年後に大沢地区の仮設商店街で店を始めました。男性には聴覚障がいがあり、忙しい母親に代わって自分を育て、支えてくれた祖母を津波で亡くしました。祖母との思い出が残るふるさとで、パン職人として生きる決意を固めた男性は、当時こう言いました。

 「おばあちゃんの好きだったパン(イチゴジャムの入ったコッペパン)は、毎年、命日に供えています。やっぱりおばあちゃんに一番感謝していますね。毎日、言葉の伝え方や料理のつくり方、いろんなことをたくさん教えてもらったんです。どんなつらいことがあっても、自分がつくったパンを食べて、笑顔になって、暗い気持ちを少しでも忘れるようなパンをつくっていきたいです」

 あれから5年…。30代になった男性は、中心部に店を新築していました。ローンを組み、2年前の秋にオープンしました。岩手産の小麦を使い、ジャムパン、メロンパン、クリームパンなど、奇をてらわず、食べて心から安心するような味は、老若男女に愛されています。2年前にはパンを販売していた得意先で、管理栄養士の女性と知り合い、結婚しました。長女(1才)も生まれ、来年1月に第2子が誕生する予定です。手話を使いながら笑顔で話しかける奥様に支えられ、男性はパン作りに励んでいます。

 「新しい店を開いてうれしいです。また1人生まれるので、パンを作ることも、今よりもっと頑張らないといけないと思っています。おばあちゃんの思いを受けて、自分が一生懸命つくったパンを、温かい心になるように食べてもらいたいです。いつも買ってくれている地元の皆さん、遠くから買いに来てくれるお客さんにも、とても感謝しています」

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 最後に、町内にある中古車販売店に行き、経営者の50代の男性に話を聞きました。震災前はカー用品専門店の店長で、自宅は津波直後の火災で全焼しました。盛岡への転勤の話もありましたが、車を流された人たちの窮状を見かねて会社を辞め、独立したそうです。震災翌年、小さな仮設店舗で中古車販売と修理業を始め、今年3月に店と工場を新築しました。男性は、山田町の伝統芸能で、荒々しい踊りが特徴の“八木節(やぎぶし)”の継承にも力を入れています。

 「自分の車がなくなって、山田町の人たちの車もなくなって、皆さん、車を買いに盛岡まで行ったり、内陸のほうに行って…。飲食店の人たちがプレハブで一生懸命に店をやっている、そういう姿がすごく刺激になって、山田町で生まれ育った、車業界にいた人間の責任感ではないですけど、“自分でやろう”“自分で動こう”という気持ちになりました。漁師町なので気が荒いところもある反面、祭りをやると活気づくのも確かで、そういう祭りを子どもたちに向けて頑張らなければ、ただ年をとるだけです。震災を知らない子どもたちに、元どおり以上に活性化している町を見せたい気持ちはすごくあります」

 山田町の人口は、震災前から2割以上減りました。土地区画整理事業で造成したせっかくの土地も未利用が多く、決して復興がうまくいっているとは言えません。課題も抱える中、パン職人の男性や中古車販売店の男性のような一人一人の頑張りこそ、今の町の支えになっています。