【キャスター津田より】10月2日放送「福島県 いわき市」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、福島県いわき市です。人口約33万の都市で、郡山(こおりやま)市とともに、県庁所在地の福島市より人口が多い自治体です。震災では津波で大きな被害を受け、460人あまりが犠牲になりました。半壊以上の住宅やビルなどは、5万棟を超えています。さらに、原発事故で避難を余儀なくされた方々の避難先としても、大きな役割を担ってきました。


211002_1.jpg

 はじめに、市内にある江名(えな)港で、以前取材した漁師の男性を訪ねました。今年で78歳ですが、今も現役です。今年3月、福島県漁連はこれまで行ってきた試験操業(=漁の日数や魚種を制限して行う漁)を終了し、本格的な操業に向けて動き出しました。前回の取材は震災の2年後で、出荷自体が制限されていたため、近海の魚をとることはできませんでした。男性は津波で船を失い、翌年新たに購入しましたが、まだ一度も漁に出ていない状況でした。当時はこう言いました。

 「今からでも、明日からでも漁に出たいですね。願うのは本当にそればかりです。果たしてこれが何年続くやら…。私たちの仲間もみんな高齢なんですよ。本当に元の海に戻してほしい」

 今回、スタッフが8年ぶりにお会いしてみると、お元気そうに見えながら表情はどこか沈んでいました。聞けば、福島第一原発の処理水放出という新たな問題に悩まされていると言います。

211002_2.jpg

 「あれから8年…。今もこの海は同じですね。この8年間、試験操業で細々と漁をしてきましたが、まだまだ本格操業になれない状態で…。処理水で、また消費者の皆さんから十分な理解を得られない時代が続くのかなと思ってね。この8年、我々が釣った魚をセリにかけても、高値にならない、売れないんだよね。前は“元の海に戻してもらいたい”と発言したけど、まだまだ続くのかね。元の海はきれいでしたよ。子どもらは裸で海水浴して遊んでいたものですよ。今はもうそんな姿も見ることができません。漁師として残された時間もないし、できる限り自分の老骨にむちを打っていきたいと思います」

 処理水とは、福島第1原発の溶け落ちた核燃料に触れた地下水や雨水から、放射性物質を取り除いたものです。ただ今の技術では、トリチウムだけは取り除けません。政府は今年4月、たまり続ける処理水を海に流す方針を決めました。通常の原発の操業でもトリチウムは発生し、これまでも世界中で薄めて海に放出してきました。自然界にも存在する物質で、世界保健機関(WHO)が飲料水の基準も定めていますが、今回東電は、その飲料水基準の約7分の1にまで海水で薄め、放出する方針です。
 しかし、漁師さん達はこれまで、とった魚の放射性物質を検査し、“基準値以下”を証明して出荷しても、風評被害にあってきました。科学の裏付けは役に立たないのを知っています。そもそも2015年、政府と東電は、「関係者の理解なしに、いかなる処分もしない」という方針を福島県漁連に示しています。現在は“実際の放出まで2年ほどかかるため、その間に理解を得れば約束を破ったことにはならない”という解釈に変わっていますが、納得する漁師さんは皆無です。

 さて次に、震災の3年後に取材した、久ノ浜(ひさのはま)地区の仮設商店街“浜風きらら商店街”の女性たちを再び訪ねました。

211002_3.jpg

当時は50代から80代で、飲食店や鮮魚店、電器店や靴店、理容店など、それぞれが津波被害から再起して仮設の店を営んでいました。震災から約半年後に久之浜第一小学校の敷地内にできた仮設商店街で、当時は冗談を交えながら、こんなことを言いました。

 「あっちはフラガールでピンピンしている(=いわき市はフラガールで有名)、こっちはくたびれちゃってフラフラだよ。だから、自分たちで“フラフラガールズ”って言ってるの。でも、フラフラなんだけどお客さんが来るとシャキッとするんだよ。不思議でしょ、商人だから」

 あれから7年…。仮設商店街は2017年に終了し、それぞれが久ノ浜地区で店を再建しました。中には、高齢を理由に店を畳んだ方もいます。元鮮魚店の女性は仮設商店街を振り返り、
 「悲しい時もうれしい時もみんな一緒で、みんなで頑張ったから頑張れた」
と言いました。母親とともに靴店を営んでいる60代の女性は、こう言いました。

 「本当に久之浜が好きなんだよね、うちの母親が…。久之浜にいることが一番の生きがいだから、その生きがいを無くさないように、見守りながらこれからやっていきたいと思っています」

 前回の取材で母親は83歳でした。“88歳までは店に立つ”と言っていましたが、現在は91歳で店に立っています。年を重ねても商売に生きがいを感じる皆さんは、表情がとても豊かに見えました。


 その後、小名浜(おなはま)地区にある畑に向かい、綿花栽培に取り組む60代の女性に話を聞きました。震災では自宅が大規模半壊しましたが、何とか残ったそうです。震災直後は、避難所への古着の提供や支援物資の配達、炊き出しなどに奔走しました。綿花栽培のきっかけは、炊き出し用の野菜を提供してくれた農家の皆さんだそうで、農業を続けても展望がないからやめたいという声をたくさん聞き、耕作放棄地にならないよう農地を借りて綿花栽培を始めたそうです。女性は原発事故を機に環境への意識が高まり、農薬や化学肥料を使わない栽培を実践しています。

211002_4.jpg

 「“オーガニックコットン”っていう名前をつけたら、福島に足を運ぶのをためらうような、若い女性が来てくださったんです。“オーガニックコットンの栽培現場に行ってみたい、触ってみたい、栽培をお手伝いしたい”って。そうして私たちのプロジェクトの参加者になってくださったんです。“原発事故が起きたあの日があったから、私たちは良い方向に社会を変えていけた”、“私たち、あの日のおかげで変えられたんだよね”って言える日がくるのを目指して、このあとも進んでいきたいです」

 綿花の収穫イベントには、これまで県内外からのべ3万人が参加しました。収穫した綿は、洋服やタオルなどに加工され、市内でも販売されています。

 また、四倉(よつくら)地区では、トマト農園を経営する40代の男性を訪ねました。震災ではハウスも倒壊しましたが、現在は広大なトマトのハウス2棟と、イチゴのハウス1棟、それに加工場や加工品の販売店、レストランも併設する農園に成長し、100人弱の従業員を抱えています。

211002_5.jpg

 「風評被害で、ひどい時は1日に3~4トン、トマトを廃棄した時もありました。ハウスだとある程度囲われていますので、震災直後から放射性物質の基準値をオーバーしたことは一度もなかったんです。安全性は確認していたんで、東京とかで何度も販売したんですけど、買ってくださる方もいるんですが、買ってくれたトマトがゴミ箱に捨ててあったのもいっぱい見ました。浜通り(=避難指示が出た自治体を含む県の沿岸部)でも、最近、農業を始めたいという若い方々が増えているんですよ。そういう人たちって、本当に“希望の芽”なんです。私たちもサポートしながら、希望の芽を育てていかなければと思います。私はトマトで世界一を目指したいですね。世界一おいしい、世界一栄養価が高い、世界一量がとれる…。この浜通りで、“トマトで世界一”というポテンシャルは十分あると思います」

 最後に、いわき湯本(ゆもと)温泉に行き、300年以上続く老舗旅館を訪ねました。

211002_6.jpg

ここでは今年3月、宴会場を改装して、原発事故の資料展示を始めました。避難指示が出た浪江町(なみえまち)中心部の2014年と去年を比較したパノラマ写真では、放置された建物が次々に取り壊される様子が分かります。原発訴訟関連の資料や原発事故関連の書籍、ご遺族から預かった遺品なども展示しています。

211002_7.jpg

地元の住民たちが自主的に発刊した冊子の数々もあり、“原発事故のせいで孫が“ばい菌”のあだ名をつけられた”など、小さな声がたくさん詰まっていました。16代目の当主にあたる50代の男性に聞くと、この展示を始めたのは、熊本県水俣(みなまた)市への訪問がきっかけだと言いました。

 「公的な施設があり、民間の施設があり、その両方を見て水俣病っていう大きなくくりを学ぶことができたんですね。この福島で起きたことを、小さい、大きいに関係なく、出していく必要があるのではと感じたんです。特に原子力災害の場合、声に出せない方が多いと10年で気づきまして、人の息づかいが感じられる展示をきちっと見せることによって、国や県がつくった伝承施設を補うことができるのではないかと…。小さな事実にこれからも向き合って、大切にしていきたいと思っています」

 展示は無料開放しており、宿泊客でなくても見学できます。周囲には、こうした施設があると負のイメージが生まれ、地域に風評被害が出かねないという声もあったらしく、開設までには相当迷ったそうです。市民自らが市民の目線で伝承することは、震災や原発事故の実像を伝える上で欠かせません。