【キャスター津田より】7月3日放送「宮城県 亘理町」

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 今回は、宮城県南部の亘理町(わたりちょう)です。

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人口33000あまりの町で、津波では町内の約半分が浸水し、300人以上が犠牲になり、2500棟を超える住宅が全壊しました。6年前、集団移転先の宅地と災害公営住宅、あわせて677戸の整備が完了し、甚大な被害が出た荒浜(あらはま)地区に、新たな商店街『荒浜にぎわい回廊商店街』がオープンしました。4年前には、一時3300人以上が暮らしたプレハブの仮設住宅から全住民が退去し、ハード面の復興事業は完了しています。温泉宿泊施設が再開し、陸上競技場などを備えた『鳥の海公園』もオープンしました。保健センターを併設した町の新庁舎も、去年1月から業務を開始しています。

 

 はじめに、以前取材した方を再び訪ねました。震災の4か月後、荒浜漁港の近くで、当時40代の寿司店の男性店主と出会いました。流された自宅と店の跡地にはがれきが散乱し、こう言っていました。

 「亘理は“はらこ飯の里”で全国に知られていますから、早く店を再開して、皆様にお寿司とはらこ飯を食べていただきたいです。この現場に来て、ここで果たして店を再開できるんだろうかと考えさせられる時もあります。うち一軒だけ店をやっても、どうしようもないですから。早くみんなこっちに戻って、町づくりをするのが一番だと思います」

 今回、この男性を10年ぶりに訪ねてみると、店は内陸部に移転していました。

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荒浜漁港一帯は建物の新築が制限され、元の場所での再建を諦めたそうです。親戚の紹介で土地を確保し、ローンを組んで、震災から約1年後に新たな店を開業しました。全国からの支援でもらった什器は、今も使い続けています。男性は以前の店の“のれん”を大切にしていて、見るとボロボロで、原形がありませんでした。

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 「近くの松の木に、この“のれん”が引っ掛かっていたんです。仕事で使う道具も全て流されたので、なぜかのれんだけ残っていたのが、すごく応援されているような、“店をやれ”って言われているような使命感を感じました。これがなかったら、店をやろうと思わなかったかもしれないですね。前だけを見て走り続けた10年でした。後ろを振り返ると怖くて…。でも、順調になったかなと思ったところで、コロナウイルスです。売り上げはコロナ前の半分以下ですね。まだ進んでいるような状態で、いま現在がいばらの道ですよ。先が見えないゴールです」

 再開後は、赤貝、シャコ、ヒラメなど、地元の新鮮な魚を出す店として、お客さんの車が列をなすくらい繁盛していました。

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歯を食いしばって震災から立ち上がった人たちが、いまコロナ禍でどん底に突き落されています。亘理町では今後、町内の店で使える商品券3000円分を全町民に配り、県の認証を受けた感染予防対策に取り組む飲食店には、10万円を補助する予定です。

 次に、同じく震災の4か月後に出会ったアセロラ農家の男性を訪ねました。当時60代で、地元で16代続く農家です。米価の値下がりを見越し、代替作物として町で初めてアセロラを栽培したそうで、アセロラの木は、津波で大破したハウスの中でも花をつけていました。

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当時男性は、こう言いました。

 「2m70cmほど水をかぶって、全部冠水したんです。その後、氷点下3度の日が3回ほどあって、全滅だろうと諦めていたら、何本かの木に緑の葉があったんです。水をかけていたら、だんだん緑の木が増えてきて、129本まで増えたんです。信じられなかったんですよ。塩水をかぶって、屋敷林のスギやヒノキ、庭木のツバキが枯れてきたのに、どうしてアセロラだけ緑になっていたのか不思議で…」

 あれから10年…。70代になった男性は、町で唯一のアセロラ農家として、今も元気に働いていました。取材の3か月後、男性は個人でローンを組み、ハウスを修理しました。3年後には700キロを収穫し、現在は単収も震災前まで回復して、年間3トンを収穫しています。

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東京の市場をはじめ全国に出荷しており、酢やドリンクなどの加工品も作り、直売所やネットで販売しています。

 「農協からは支援制度も使えるという話があったんですが、申請しても許可が下りるまでが長いんです。10月いっぱいでハウスの修理を完成しないと、せっかく生き残った木が全部凍死してしまう…5度以下になると凍死するんです。それで待っていられなくて、自己資金で再建しました。初めて市場に出荷した時、“待ったかいがあったな”という気持ちでいっぱいでした。10年間で、何とか農業で生活を送れるようになりました。永続的に農業を…その思いを息子や孫に続けていってほしいという願いです」

 

 その後、町特産のイチゴを栽培する農家を訪ねました。

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町内のイチゴのハウスは津波で9割以上が被災し、基幹産業の消滅を危惧した町は、国の交付金100億円あまりを活用して、町内3カ所(計約70ha)に“いちご団地”を建設しました。最先端の技術を導入したハウスや設備を町が無償で貸し出し、将来的には農家に引き渡されます。農家は土地だけ買い取ればよいという仕組みです。スタッフが訪れたのは、この“いちご団地”の農家で、60代の夫と50代の妻、そして30代の息子の3人で働いていました。津波で自宅とハウスを流され、奥様は両親を亡くしています。一度は再建を諦め、ご主人は重機の免許を取得して運転手となり、奥様はホームヘルパーの資格を取って働きました。震災の3年後、“いちご団地”に空きが発生し、農協などから営農の打診を受けたそうです。5年前には、革製品の職人をしていた息子が、親を助けようと仕事を辞めて就農しました。夫婦はこう言いました。

 「まさかイチゴ作りができるようになるとは思わなかったですね。大型ハウスや機材は金額が大きいし、これから家も建てなくてはならない…これは無理じゃないか、生活しなくてはと思って、他の仕事に就いて…。でも、友だちがイチゴを作っているのを見ると、やっぱり“いいなあ”と思っていました。息子に“2人だけでやらないで、俺にも頼って”と言われた時、胸に来るものがあって…。この10年、努力したかいがあって、今があると思います。皆さんの手助けもあったんですけど、頑張ってきてよかった…イチゴを選んでよかったと思います」

 話しているうち、奥様の声はだんだん涙声に変わっていきました。

 そして、荒浜地区にも行きました。荒浜地区は最大で約7mの高さまで浸水し、町の犠牲者の約半数はこの地区の住民です。地区人口は震災前から半減しました。この地区で歯科医院を開業している60代の男性は、震災時、患者の避難を優先して逃げ遅れ、医院の2階(自宅部分)に上がったそうです。1階は完全に水没、流れてきた小船に乗って近所の中学校まで避難しました。震災の半年後、仮設団地にプレハブの診療所を開いて歯科医を続け、5年前、元の場所に医院を再建しました。

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 「建物の修繕のために、妻と私で中を片付けている時、患者さんが物をくださったり、“大変ですね”とか、“よかったら私、お弁当作ってきますよ”とか、“待っています”とか言われて、再開しなければと思いましたね。この地区は私がいなくなると、無医村になってしまうんです。前は(内科などの)医院もあったんですが…。頼りにしている患者さんが結構おりますから、常に思いやりを持って診療する姿勢でいます。ここまでやってこられたのも地域住民のおかげだと、感謝する気持ちも強くなっているんです。地域のためというか、これからは恩を返したいという思いでやっていくつもりです」

 男性はいつも、できるだけ患者さんの話の聞き役になり、心のケアにも気を配っているそうです。

 最後に、高齢者や障害者の訪問入浴サービスを行う会社を訪ね、20才の女性から話を聞きました。入社して9か月の新人で、先輩とともに、55人の利用者の自宅を訪問して入浴サービスを行っています。

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震災当時は小学4年生で、実家は浸水し、避難所暮らしも経験しました。今の仕事のきっかけは、震災後、役場に設置された自衛隊の仮設風呂に、毎回1時間以上並んで入浴した経験だと言います。

 「父親が料理人だったので、料理の仕事がしたいと考えていました。震災がなければ、介護職という選択肢はなかったです。自衛隊のお風呂に入ると体の疲れがとれて、避難所生活は窮屈だったので、気持ちが楽になった気がしました。体が不自由でお風呂に入れない人に、自宅でお風呂に入ってもらいたい気持ちがあって、この仕事を始めました。いろんな所に行くと、生まれ育った亘理町が一番好きだと感じることが多いです。地元がより良くなるように、手助けができたらと思います。“介護職って大変なの?”とよく聞かれるんですけど、自分はこの仕事に他の仕事にはないやりがいを感じていて、介護職が一番合っていると感じるので、“楽しいよ”っていつも言っています」

 どこまでもまっすぐな目で語る女性は、今後、高齢者と子どもが関わるイベントもやりたいそうです。