【キャスター津田より】6月5日放送「福島県 飯舘村」

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 今回は福島県飯舘村(いいたてむら)です。人口は約5100で、原発事故のため全村避難しましたが、2017年3月末に帰還困難区域を除いて避難指示が解除されました。

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村内には新しい公営住宅が整備され、診療所や訪問看護サービスの事業所、高齢者が運動や趣味を楽しむためのサポートセンターもあります。認定こども園に加え、小学校3校と中学校を統合した義務教育学校「いいたて希望の里学園」が去年開校しました。新たに建設した“道の駅までい館”には村でとれたコメや野菜が並び、コンビニも併設されています。大型遊具を設置した多目的交流広場、スポーツ公園、パークゴルフ場もそろいました。大規模な太陽光発電施設も複数あり、間伐材などを燃料とする木質バイオマス発電施設の立地も決まりました。避難指示解除後に移住した人が空き家を購入すると最大200万円、家を新築すると最大500万円を支援する制度もあり、去年8月には移住者が100人を超え、その後も増えています。

 

 はじめに、草野(くさの)地区で60代の女性から話を聞きました。4年前に帰還し、除染が完了した畑で夫と農業を営んでいます。栽培しているのは“ナツハゼ”というツツジ科の樹木で、日本の在来種です。ブルーベリーに似た実がなり、古くから食用にされてきました。

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元々は先代が生け花用に細々と栽培していたそうで、夫の定年退職に合わせて本格的に栽培し、実(み)の活用にも乗り出そうとした矢先、原発事故が起きました。福島市へ避難しましたが、村での栽培を諦めずに苗木を入手して避難先でも栽培を続け、今ではナツハゼを使ったジャムやようかんが道の駅で販売されています。

 「震災前に150本くらい植えたんですけど、除染で切られてしまって、かろうじて50本くらいしか残らなかったんです。福島市のほうに250本くらい植えていて、今こちらに移植しています。去年、50㎏くらい採れるようになって、今年はもう少し採れると思います。あの震災で後ろ向きなことばかりたくさんあったんですけど、前を見ながら、自分の一歩先を見ながら生きていたら、きっといつか自分の未来は広がっていくと思っています。将来は苗木で売りたいと思います」

 次に、飯樋(いいとい)地区に行き、20代のキャンドル作家の女性から話を聞きました。花の栽培が盛んな飯館村にちなみ、ロウの中に飯舘産の花を使ったドライフラワーを閉じ込めた、色鮮やかなキャンドルを作っています。福島市で育ち、大学卒業後に就職しましたが、偶然参加したキャンドルづくり体験で、その奥深さに魅了されたそうです。3年前、飯舘村民を対象にしたキャンドル教室の講師を務めて以来、村の花や住民らの人柄にほれ込み、去年、村に移住して活動拠点を構えました。

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 「大学に入ってからずっと県外で暮らすうちに、みんなの中で福島県は放射線や原発というイメージがとても強いのが分かって、自分の過ごした福島ってこんなイメージしかないのかな、もっと魅力的なんじゃないかと思って、“福島に関わったものを作っていきたい”と思うようになりました。飯舘村の花を使ったキャンドルを発信していくのが私の事業で、花は農家さんから買ったり、いただいたものを使っているので、お花をロウソクに入れる時に農家さんの顔が思い浮かんだり、“あんなこと話したな”とか思い出したり、農家さんへの思いがキャンドルに入るので、そこも伝わればいいなと思います」

 そして、同じ飯樋地区で、避難直後から“かわら版”を自費で発行し続けている60代の男性を訪ねました。村民に今の思いを寄稿してもらい、男性が編さんして写真やイラストもレイアウトし、A4数枚のカラー冊子に仕上げます。存続を求める声に押され、10年で5万6千部を発行し、村外避難者へも送ってきました。

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男性は元々クリーニング店の店主で、原発事故で母や妻と福島市に避難し、避難指示解除の4か月後に帰還しました。現在は、飯舘村の方言を集めた本も制作中です。

 「避難して誰がどこに行っているか、どんな生活をして、どんな思いでいるのか分からない…かわら版を通して、多少は分かってもらいたいと思ってね。ある原稿に、“よそに避難して、よそに家を建てて住んで便利になった。だけど飯舘に帰って来てようやく、普通の言葉で気兼ねなく話ができます”と書いてあったんです。本当にそうだなと思いました。村民が飯館をふるさとと思う気持ちは強いと思います。だからこそ方言が無くなっていくのが寂しいんで、方言集を配って、言葉を思い出すきっかけにして、子どもや孫に伝えてもらえればいいと思います。今日を一生懸命楽しんでいきたいです」

 飯舘村に行けば、出会うのは当然、ここに紹介したような帰還者ですが、村民は帰還者ばかりではありません。避難先で生活再建して村外に住む人も大勢いるし、長泥地区という帰還困難区域が残っています。長泥地区の一部は、2023年春の帰還を目指して国の除染とインフラ整備が進み、除染で出た土壌を再利用して農地も造成する予定です(現在、土壌の安全性を確認する実証栽培が進行中)。しかし、それ以外の約890haは国も今後の方針を一切決めておらず、白紙の状態です。いま村に住むのは、人口の3割弱で、目で見る村の姿だけが全てではないということも、知っておく必要があります。

 

 その後、過去に取材した方を再び訪ねました。役場から車で10分の松塚(まつづか)地区では、70代の農家の男性を訪ねました。6年前に避難先の福島市で取材した方で、福島市に土地を借りて、村特産のトルコギキョウを栽培していました。元々、有機野菜を栽培していて、奥様の助言で、風評の影響が少ない花の栽培を始めたそうです、男性は村での営農再開を諦めていませんでした。

 「収獲して、バケツに30本ずつ入れておくんです。その時の花はすごくきれいなんですよ。そういう時だね、“農業って銭金じゃない”って思うのは…。“生涯農民”で、畑で倒れるなら本望です。続けていく自信はありますよ。そのくらいの気持ちがなかったら、飯舘で営農を再開すると言えないですよ」

 あれから男性は、避難指示の解除後まもなく帰還し、すぐに苗を植えました。解除前にはハウスの整備を完了させていたそうです。男性は、村内で最も早く営農を再開した農家の一人で、トルコギキョウだけでなく、グラジオラス、アルストロメリアなど、栽培する品種も広げました。

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 「あの時の思いのまま、ずっと進んできて、今は村で花作りを始めて5年目ですから、順調ですよね。最初はつらかったですよ。放射性物質が降った土では作れないと、しばらく迷っていたんですが、妻が“いつまで迷っていても仕方ない”って…。村に戻って、見慣れた景色を見ながら、農業を続けていくのはすごくいいですよね。ここから見慣れた朝日の出る位置、夕日の沈む位置、お月様とか星の位置、それでさえも帰ってきた時は愛おしかったですよ。これからも生涯農民です。死ぬまで作物を作り続けたい。少しでも技術を高めて、いいものを作りあげたいです」

 いま村では、コメ、野菜、花の栽培と出荷が行われ、盛んだった畜産や酪農も再開し、肉牛も出荷されています。約700haのあった田んぼのうち、今年度は170haに作付けされ、収穫した籾(もみ)の乾燥や貯蔵を行うライスセンターも今年完成しました。原発事故前から、専業農家から自給のための農家まで、村と農業は一体でした。農業は村民に復興を強く実感させる光景です。

 最後に、八木沢(やぎさわ)地区で、6年前に取材した老夫婦を再び訪ねました。現在、夫は80代、妻は70代です。6年前は福島市に避難していて、家の管理で一時帰宅していた時に出会いました。同居していた娘夫婦は帰還を諦めて村外に家を建てたため、当時は、こんなことを言っていました。

 「私らが2人でここに帰ってきても、今は運転して買い物も病院も行けるからいいけど、できなくなったらどうしようかと…それを考えると迷っちゃうんだよね。4~5人しか村に戻らなかったら老人会も無理だからね。今はここで暮らしたい、そしてもう一度、老人クラブで活動したいです」

 その後、夫婦は避難指示の解除とともに帰還しました。休止していた老人会も再開しましたが、帰還していないメンバーが避難先から通うのも大変で、以前のように様々な行事をするのは無理なようです。地区の老人会以外に、村の高齢者サロンにも参加するようになり、体操やゲーム、小物雑貨の制作など、いろいろ楽しんでいるそうです。3年前から農業も再開し、インゲンを市場に出荷しています。

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 「帰ってきて4~5年になるけど、落ち着いてきたから、帰ってきてよかったと今は思っています。サロンもみんな楽しみにしているんだけど、コロナで休みになってがっかりしています。自然豊かなこの土地で、これからも暮らしていきたいです。朝起きて山を見たり、畑を見たり、鯉に餌をあげたり、なんとも言えないね。飯舘村で生まれて飯舘村で育って、ここが一番いいな、やっぱり…」

 人にとって“ふるさと”とはどういうものなのか、しみじみ感じる言葉です。