【キャスター津田より】5月29日放送「岩手県 大槌町」
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今回は岩手県大槌町(おおつちちょう)です。震災では1286人が犠牲になり(関連死を含む)、全家屋の68.2%(4375棟)が被災しています。
人口は11000余で、住まいの復興事業が完了する前に町を出た人も多く、震災前(16058人)から30%減りました。去年3月、プレハブ仮設住宅で入居者がゼロとなり、赤浜(あかはま)地区の公民館の完成により、公共施設の復旧も全て終わりました。文化交流センター“おしゃっち”、三陸鉄道大槌駅の新駅舎、駅前には飲食店が並ぶ屋台村もできました。
はじめに、以前取材した方々を再び訪ねました。中心部から6㎞離れた吉里吉里(きりきり)地区の波板(なみいた)集落では、震災の2か月後、避難所だった公民館で当時60代の男性と出会いました。集落の約半数の家が被害を受けており、自宅を流された男性はこう言いました。
「もう涙も出ないような、笑うしかないような大津波でした。合同葬儀をやったんですよ。その時に知ってる人の名前が呼ばれるたびに、和尚さんも涙を流しながら、我々も初めてそこで涙を流しました。泣いたのはその時だけです。あとはもう、次に向かっていくしかないって、お互いに思っています」
今回、10年ぶりに訪ねると、男性は高台に中古住宅を購入し、孫も含めて3世代で暮らしていました。震災時も含めて24年間務めた町議会議員を引退し、自分の時間をもてるようになったそうです。
「以前は隣近所、味噌がなければ借りに行ったり、しょうゆがなければもらったり、貝を採ってくれば“食べろ”なんて分けたり、一つの家族みたいな時代だったから、そういう人たちがみんな流されてしまって…。議員の立場としては、“仮設住宅どうするか”とか、次のことを整えないとならないから、涙なんかは本当に合同葬儀ぐらいで…。これからは悠々自適に、好きな盆栽をいじったりしながら、ゆっくり生きられればと思っています。80歳までは生きたいと思っていますけど、どうかね(笑)」
町ではおととし、中心部を含む4つの地区で行われた土地区画整理事業が完了しました。5つの地区で行われた集団移転の宅地整備、876戸の災害公営住宅の建設も、予定より4年程度遅れましたが、おととし完了しました。どちらも県の沿岸部では最も遅い完了でした。区画整理で造成した土地は、公営住宅や公共施設などを含めて利用率が8割ですが、個人の宅地の区画だけで見ると、利用率は約5割に低下します。ここに家を建てる人や土地を取得した人に、1件100万円の補助金も出しましたが、想定した交付件数に届かず、今年1月に補助は終了しました。生活基盤が整った今後が、真のまちづくりです。
次に、文化交流センターで開かれていた町内の郷土芸能のイベントに行き、4年前に取材した女性と再びお会いしました。
20代の女性で、現在は町の観光協会に勤め、イベント運営を担当しています。以前会ったのは、岩手県立大学宮古(みやこ)短期大学部のキャンパスで、仮設住宅などで支援活動を行うサークルに所属していました。女性は、共働きの両親に変わって育ててくれた祖父母を津波で亡くしており、仲間には被災経験がありませんでした。当時はこう言いました。
「震災のことを 聞きづらいって言われて、“なんで”って言ったら、“もしかしたら親族を亡くしているとか、親とか亡くしているかもしれないから”って言われて…。私だけかもしれないけど、私は結構、聞いてほしい…もっと自分が経験したことを知ってほしいです」
卒業後、女性は、亡くなった祖父母と暮らした故郷で働きたいと、町に戻りました。
「入学前は偏見で、内陸の人に何が分かるのかと思っていたんですけど、すごく自分事のように考えてくれて、自分よりちゃんと現状を知っていて、頑張らなければと思いました。2年前に大槌祭りがあって久しぶりに参加したんですよ。やっぱり地元っていいなと思って、一緒に盛り上げていきたいと思って、いま死に物狂いで働いています。町外、県外の人に“大槌町ってこういうところだよ、ここがいいんだよ”というのを伝えられるように頑張ります。町民の人が“ここに住んでいてよかった”とか、町の若い人にも、“やっぱり大槌町っていいな、残りてえな”と思ってもらえたら最高です」
彼女が育ったのは赤浜地区で、震災後は住民が35%も減り、店も無くなりました。災害公営住宅ができたのも、県沿岸部では最後です。そうした中でも、町を思って一生懸命働く若者の存在に、感謝する町民も少なくないはずです。
その後、日本舞踊を学んでいる20代の男性がいると聞き、訪ねました。母と祖母が日本舞踊をやっていて、小さいころは2人の稽古について行き、遊び感覚で真似したそうです。震災時は中学生で、津波で祖母が犠牲になり、変わり果てた町の姿にショックを受けました。
「震災直後は何をやってもおもしろくない、“無”ですね。悲しみとか、そういう感情すらなかったかもしれない。落ち込んでいる中で、(伝統芸能の)虎舞だったり、舞踊を見た時に自分が元気をもらって、それが自分の心の支えになっていると思ったので、今度は自分が人の心の支えになればと…。自分ができる範囲では、踊りしかないと思います。踊ることで祖母とつながっている感じもするし、生きる希望なのかなと思います。自分の踊りを一番見てほしいのは、ばあちゃんですね。永遠に叶わないですけど、喜んでいる姿を見たかったですよ…それが何より思いますね」
彼が舞台衣装に使っていた着物は、幸運にも流されずに残った、祖母の形見でした。
そして、町内の道の駅や民宿で広く販売されている、書類を挟むクリアファイルをデザインした男性にも会いました。ファイルには大槌の海で取れる魚の写真が隙間なく並び、名前が記されています。
大槌の魚の豊かさについて、町内外の人に興味を持ってほしいそうです。男性は30代で、埼玉から移住しました。東大の大学院生として6年前に町に来て、津波が海の生態系に与えた影響を調べていました。肺を患って潜水調査ができなくなり、研究の道は諦めましたが町に残りました。現在は漁協の出荷管理に使うソフトの開発など、IT関連の仕事をしながら、海を身近に感じていたいと漁業権も取得して、ウニ漁なども行っています。“稼ぎは1日千円くらい”と苦笑しつつ、顔はとても充実していました。
「こっちに来てみたら皆さんよくしてくれて、大槌の生活は不自由ないし、海で釣りをして少し疲れて帰ってくる時に、べたっと海が凪いで天気がよくて、船の上にいると最高だなと思いますね。研究で潜っていて海も知っていますし、大変すばらしい海だと思っているので、他の場所に行く理由がなかったですね。海に対するあこがれがあるんですね。海に行くと楽しいんですよ。行かないとおかしくなってくるタイプなので…。メジャーじゃないけど、おいしい魚ってたくさんあるんです。ブランド化して値段を高くして、“漁師の仕事は食えるよ”ってつなげられたら、一番いいなと思いますね」
町では、漁協の収入の多くを占めてきた秋サケ漁が極度の不漁に陥り、ギンザケとトラウトサーモンの海面養殖が始まって、ブランド化に取り組んでいます。男性の力はさらに必要になると思います。
最後に、去年できた鹿肉加工場に行きました。増えすぎて駆除された鹿の肉を活用し、角や皮を使ったアクセサリーも製作・販売しています。
代表は30代の男性で、 鹿肉は飲食店に卸すほか、ネット販売も行っています。震災前は貨物船の船員で、1年の大半は洋上での生活でした。津波で母は行方不明になり、震災後、故郷に戻ったそうです。鹿の食害が多いと聞き、故郷の役に立とうと6年前に狩猟免許を取得。猟をしながら、命をむだにしないよう鹿肉を活用する構想を練ってきました。
「震災前は、町内の人と何かを助け合うという思いもなかったんですが、震災でボランティアの方だったり、消防だったり、自衛隊だったり、大槌町に来て活躍してくれているのを見て、“何やってるんだ、 俺…”という思いが出てきたんです。震災があって3年から5年はただただ悲しむ一方、前を見ていなきゃいけない自分がいて、ことあるごとに母の仏壇の前で相談をしていました。今は、この仕事に反対だった妻も一生懸命応援してくれて、商品のタペストリーを夜中の3時まで作ってくれたりします。まずは家族、あとは行政、仲間、お世話になった人たちへの感謝はずっと持ち続けたいです。全国の人から認められる岩手ジビエを目指したいですね。鹿をきっかけに町を盛り上げていきたいです。」
男性は、鹿の狩猟に同行してもらう‟ジビエツアー”で、町の交流人口を増やしたいそうです。政府統計の経済センサスによると、2009年に町内に770あった事業所は、震災後の2019年には463と、約4割も減っていました。復興工事の関係者が去って需要が減り、後継者不在で震災後に商売を辞めた人も少なくありません。男性のように、新しい産業を興そうという動きには、大変期待が集まります。