【キャスター津田より】5月1日放送「福島県 楢葉町」

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 今回は、福島県楢葉町(ならはまち)です。人口およそ6700で、原発事故後は全域に避難指示が出ましたが、6年前(2015年9月)に解除されました。

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今では一般的な生活機能はほぼ整っており、食品スーパーとホームセンターを核に、個人商店など10店舗が入った商業施設では、開業2年で来場者数が120万人を超えました。その隣には音楽ルームなども備えた町民の交流施設が開業し、周辺には100戸以上の平屋の公営住宅が建ち、新築した個人の家々も並んでいます。民間診療所、県立診療所、歯科医院があり、去年6月には薬局も開業しました。日帰り温泉つきの道の駅や、ならはスカイアリーナ(屋内体育施設)、国内屈指のサッカー施設「J ビレッジ」も全面再開しています。デイサービスセンターや特別養護老人ホーム、小中学校も再開し、民間企業の新工場も進出しています。

 町内居住者は人口の60.3%(4080人)で、全域避難した自治体で居住率が6割を超えたのは初めてです。一方、その伸びは頭打ちで、町内人口の3割以上は高齢者です。今後10年の町政振興計画では、移住者の受け入れなど、町外から人材や資金を積極的に獲得する姿勢を打ち出しています。

 

 はじめに、5年前に町に戻ったという70代の女性に話を聞きました。生まれも育ちも楢葉町で、震災前は4世代6人の暮らしでしたが、避難で各地を転々とした後、現在は夫と義母との3人暮らしです。来年春、いわき市に避難をしている息子夫婦も、孫を連れて町に戻る予定だと言いました。

 「“どうしよう”っていう心配がなくなったのが、一番の安定剤。(避難の末に)家に着いて、“これから自分たちの生活ができるんだ”という喜びといいますか、安心感ですよね。息子たちが町に戻るのは大きいです。やっぱり区切りといいますか、息子たちの家も敷地内に別にあるので、同じ所にいられますし…。支援などをいただいてきたので、“皆さん元気になって、復興に向けて進んでいる”ということを知らせていきたいです」

 次に、収益性の高い作物として町が導入したサツマイモの栽培現場に行きました。去年、19億円を投じた国内最大規模の貯蔵施設が完成し、JAの中にサツマイモ農家でつくる生産部会が発足しました。4年前の栽培開始当初から食品メーカーが協力しており、貯蔵施設の運営も手がけています。

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施設を管理するのは20代の神奈川県出身の女性で、大学で農業の効率化について研究したあと食品メーカーに就職し、楢葉町に赴任しました。3か月前に県外出身の男性と結婚し、今後は家族で町に永住する予定です。

 「車が無いと何もできないとか、都会とのギャップみたいなのは感じますけど、だから何か生活が不便かっていうと、あんまり感じなくて…。お店も少ないからこそ、店の方たちとコミュニケーションがとれたり、一緒に生きていると感じる機会がとても多いので、“すごく大きな家族”みたいなイメージですね、楢葉って。(原発事故で)1回立ち直れないぐらいのことがあったけど、ここまで元気に、他の地域にない魅力をつくれる人たちがいるのを、 いろんな人たちが見に来て、“福島ってすごいな”って感じてもらえる場所にするのが、一番やりたいことです」

 他にも町の農業では、酪農、畜産、稲作が再開し、コメのカントリーエレベーターなども整備されました。約23000本のトマトが植えられた大型栽培施設もあり、去年から収穫が本格化しています。

 また、同じく移住者で、木戸川漁協に勤める20代の男性からも話を聞きました。出身は内陸部の郡山(こおりやま)市で、父親に連れられてアユ釣りなどによく行ったそうで、幼い頃から魚に親しみ、魚に携わる仕事が夢でした。水族館の就職口などが見つからない中、木戸川漁協の職員募集を見て応募したそうです。漁協では、2015年秋にサケ漁が再開され、去年は原発事故後初めて、アユの稚魚の試験放流もありました。ウナギの保全活動も行い、渓流釣りの解禁に向け、実際に魚を釣って放射性物質の検査も続けています(基準値の100ベクレルを下回り、50以下が継続)。

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 「楢葉町の川には、いろんな生き物が豊富なんですね。ニホンウナギ、アユ、サケも上ってきて、ウグイもいるし、エビだったり、本当に水生生物が豊富なんですよ。除染で出た土を入れた黒い袋が町内に置いてあったり、放射線の測定機が道沿いにあったり、“原発事故があったから、あって当たり前だよね”ではダメで、“この景色は異常なんだ”って思ってもらわないことには、楢葉町に住んでいる人、原発事故の被害にあった人たちの思いは、なかなか伝わりにくいと思います。袋や測定器が消えるまでは、“完璧な復興、元の楢葉町に戻った”とは言えないんじゃないかと、やっぱり思っちゃいますね」

 

 その後、以前取材した人を再び訪ねました。8年前、会津美里町(あいづみさとまち)の仮設住宅で出会った60代の夫婦は、田舎暮らしに憧れて神奈川県川崎市から移住しましたが、その3年後に原発事故に遭いました。当時2人は、毎月、車で2時間かけて楢葉町の自宅に帰っていて、こう言いました。

 「家を放っておくのは、草も花も木も、全部かわいそう。なかなか物件がなかったんですけど、(楢葉町に)中古の物件が売りに出ていて、ぱっとひらめいて、そこに一気に決めました。一目ぼれです。庭が広くて…今まで川崎の家が狭いですから。帰ったら、2人でワインで祝福するでしょうね」

 それから2人は、避難指示解除の2か月後(2015年11月)に、町の山間部にある自宅に戻りました。親戚からは川崎に戻るよう言われましたが、震災前の3年間がすばらしく、楢葉に戻る気持ちはぶれなかったそうです。好きな町に少しでも貢献したいと、ご主人はシルバー人材センターで、ゴミの分別を確認する仕事を始めました。奥様の生きがいは、仮設時代の仲間と続ける“布ぞうり作り”で、おかげで町の人と仲良くなったと言います。

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子どもや孫も家を訪れるそうで、ご主人はこう言いました。

 「ワインで祝杯はあげてないですけど、焼酎で…(笑)。こんなに恵まれている町はあまりないと思うんです。きれいな山もあるし、渓流があって、大きなダムも見えるし、そこではハイキングができたり、もし自分が今、川崎にいたら“何をしているんだろう”と思う…たぶんパチンコぐらいしかやることがないと思うんですけど、こちらにいると、やることはいくらでもあるし、町の人たちが結構あったかい人が多いですよね。健康に気を付けて、残された人生をこの町で楽しみたいです」

 また、原発事故の翌年、一時帰宅中に取材した70代の夫婦にも会いに行きました。避難先のいわき市から通っていて、息子一家と同居するため下繁岡(しもしげおか)地区で家を新築したそうですが、暮らし始めて6日後に原発事故が起きました。当時2人はこう言いました

 「一晩ぐらいで帰れると思ったんです。それが5ヶ所を転々として、会津まで行って…。こんな遠くまで来て、こんな生活しなきゃならないのか、こんな嫌な思いをしなきゃならないのかと思いました。家を見ると、すごくほっとします。ここはいい所ですよ。長男たちと一緒に暮らしたいですね。今は孫がかわいい盛りでしょ。一緒に住めたらね」

 その後、2人は避難指示が解除されてすぐ、自宅に戻りました。今では、念願かなって息子一家と同居しています。ご主人は畑仕事などが日課ですが、奥様は長期の避難で足腰が弱り、こう言いました。

 「もう82才ですからね。もったいない10年だったと考えるんです。もっとやりたいことがあって、旅もしたかったし、お父さんとパークゴルフに行こうとしても、足が悪くて私は留守番でしょ。こういうことがなかったら、“もっと人生楽しめたのに”って思っています」

 健康面からできることがどんどん限られていく高齢者にとって、10年という時間は貴重です。避難という形で大事な歳月と健康を奪われた悔しさは、かなりものです。また、2人はこうも言いました。

 「(福島第一原発で)処理水を出されては、(風評で)野菜など販売できなくなるかもしれない。それが心配です。原発の収束作業は安全に進めて欲しいです。子どもや孫たちに影響がなければいい…本当にこのままで、静かに収束できるのか考えます」

 国が福島第一原発で発生する処理水の海洋放出の方針を決め、いま福島は大きく揺れています。今年に入って東電では、柏崎刈羽原発で核物質防護のセキュリティー不備が露呈し、原子力委員会が核燃料の移動禁止命令を出しました(原子炉に燃料が装てんできなくなる、事実上の運転停止命令)。福島第一原発では、地震計の故障を長期間放置していたことが発覚しています。どちらも極めて重大な問題で、処理水の海洋放出はもちろん、廃炉そのものを東電に任せて本当に大丈夫なのか、漁業者に限らず、県全体に東電への大きな不信が広まっています。