【キャスター津田より】4月3日放送「宮城県 仙台市」

 4月に入り、新年度が始まりました。
 この番組も『被災地からの声 つぎの一歩』という新たな名前でスタートします。
 これまで東日本大震災で被災した方々、のべ4813人の声をお伝えしてきましたが、10年が経ち、岩手と宮城では、住まいや道路など復興事業はおおむね完了しました。福島でも帰還困難区域では復興拠点の整備が進んでいます。そうした中で、今後は“つぎの一歩”をキーワードにお伝えしていきます。
 もちろん、大きな一歩も小さな一歩も、差は全くありません。さらに10年経っても“つぎの一歩はまだない”という現実を伝えるのも、『被災地からの声 つぎの一歩』の大事な使命です。
 これからもよろしくお願いいたします。

 

 今回は、東北最大の人口を抱える、100万都市・仙台市です。

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震災では900人を超える方々が犠牲になり、25万棟以上の建物が被害を受けました。その後、1300棟以上のプレハブの仮設住宅が整備されましたが、5年前には全住民の退去が完了し、市内各地の災害公営住宅などに移り住みました。

 

 はじめに、以前番組で出会った方々の“つぎの一歩”を取材しました。震災からひと月後、約300人が避難していた宮城野(みやぎの)区の小学校では、当時50代の農家の女性と出会いました。自宅や隣にあった長男家族の家、畑、ハウス7棟など、津波で全てを失い、当時はこう言いました。

 「たくさんの人にお世話になって、朝昼晩、食事できることが一番うれしいです。でも本当は、悲しいことばっかりです。頑張らなきゃいけないけど。普通の生活に戻ることが一番ですね。やっぱり汗を流して働いて、お茶を飲んで、ぐっすり眠りたいです。なんだか悲しくなってきた…涙が出てきそう」

 私たちは10年ぶりにこの女性のもとを訪ね、当時の映像を見てもらいました。画面を見つめ、“こんなこと言ってたんだ…”と一言つぶやきました。女性は仮設住宅を経て、2014年に内陸部に自宅を新築し、現在は長男家族とともに4世代8人で暮らしています。農業も2014年に元の場所で再開し、今は毎日元気に畑に通って、栽培した季節の野菜や花を農産物直売所に出荷しています。

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ご主人も震災後に発足した農業生産法人で稲作を行っているそうです。還暦を過ぎた女性は、今回、こう言いました。

 「震災直後に“生きてしまった”って言ったら、“生きてしまったんじゃない、生かされたから、生きなきゃならない”と言った友達がいて、“そうだな”って気持ちが動いて、やる気になりました。二度ない人生でも、やり直せるんだね。今はやりたいこともできているし、幸せに向かっています」

 次に、震災翌年に若林(わかばやし)区の荒浜(あらはま)で出会った、当時50代の女性を訪ねました。荒浜は津波により、ほぼ全域が人の住めない区域になりました。

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女性は結婚後、別の町に住んでいましたが、全壊した荒浜の実家を修繕し、ボランティアの休憩所としてカフェを開きました。カフェは、家を失った地元の人々が集う場にもなっていて、当時はこう言いました。

 「ここに戻ってきた時に、生活していたものが全くないわけです。どこにその気持ちをぶつけていいか分からない…。“もう明日はないわ”と言う人もいるし、全く見通しがついていない方もいる。そういう時に話を聞いたり、愚痴を聞きます。うちの前の道路から向こうには行けないです、いまだに…。同級生も亡くなっていますし、知り合いも亡くなっていますし、まだ行けないんです。希望だけは失いたくない…みんなにも希望だけは捨てないでほしい、それだけです」

 女性にも、以前の映像を見てもらいました。9年前の自分をじっと見つめ、少し目頭を押さえました。復興工事のため、カフェは7年前に閉店し、現在は道路になっています。2年間でボランティアなど5000人が訪れたそうで、女性も今、ボランティアとして、交通指導安全などに取り組んでいます。

 「今も変わりないですね、気持ちは…。2014年に初めて、道路から先の観音様に行ってお参りさせてもらって、それからいくらかは楽になったんですけど、お盆と春と秋の彼岸に墓参りに来るだけで、精いっぱいで…。性格的に暗い性格じゃないけど、落ち込むんです。荒浜の風景が全然違うので、この風景を見ても自分の生まれた所ではないと思っています。何も思い出せない…。当時の支援には感謝しかないので、それを今度は自分が、ボランティアとしてやっていきたいです」

 女性は、震災前の荒浜地区の住宅地図を大切にしています。自分の中では、荒浜は地図の中にしかないそうです。復興工事がどこまで進もうと、元の風景が忠実に再現されることは決してなく、大事なものを失くした現実は自分が死ぬまで突きつけられます。時間で解決できないことは確実にあります。

 

 さて、仙台市内には、震災後に他市町村から避難してきた人たちも多く暮らしています。市中心部にある寺院の集会所では、宮城・岩手の沿岸部で被災した人たちが集まる「ひまわり会」というサロンが、7年前から開かれています。

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20人ほどの会員が月1回交流を深めていて、仙台で暮らす息子や娘を頼って地元を離れた、75歳以上の方がほとんどです。参加者に聞くと、“ここに来るのが一番の生きがい”、“仙台に来て誰も知っている人がいない”、“地元で話していた言葉をそのまま使えるのが一番いい”などと言いました。代表の60代の男性は、震災前、東松島(ひがしまつしま)市で、母親と妻、次女の4人で暮らし、震災当日は里帰り出産の長女もいました。津波により、母親と生まれてすぐの孫が犠牲になり、仙台の長女の家に避難した後、中古マンションを購入して夫婦で暮らしています。

 「向こうに戻る意識は、自分の中にはなかったですね。やっぱり津波ですよ。それこそ周りの人みんな亡くなっているし…。自分が生きていてもいいんだろうかって思うこともあったけど、震災後の10年で、いろんな出会いや、いろんなことがあって、人間として生きられるように育ててもらったという感覚がありますね。10年間、みんなと一緒に過ごすことができたから、今があると自分は思っています」

 また、「ひまわり会」に通う80代の女性にも話を聞きました。震災前は夫と一人娘の3人で、気仙沼(けせんぬま)市にある家で暮らしていました。女性の目の前で夫と娘が津波に流され、亡くなったそうです。5か月ほど避難所で生活した後、知り合いのつてで仙台に移り、郊外に自宅を構えました。仙台での一人暮らしには慣れましたが、近所に知人がいないのが悩みだそうです。

 「一人でいいから、心から通じあう人が欲しいです。娘でもお父さんでも、2人一緒でなく、どっちかでも生きていれば、こんな苦労しなくて済むのにって、それだけ思うよ、毎日…本当に悔しくてさ。私、何の悪いことをして、こんな罰を受けたのかと思うよ。気仙沼はみんな流されて、代替地だって5年、10年で家は建てられない。仙台に行けば、すぐ建てられるって思ったの。また戻るのも嫌だし、老い先も長いことないから、このままでいいと思っています」

 最後に、気仙沼市唐桑(からくわ)地区から、太白(たいはく)区の住宅地に移り住んだ夫婦を訪ねました。ともに80代で、自宅を流され、親せきや妹を頼って各地を転々とした後、秋保(あきう)地区のアパートで2年5か月生活しました。自宅の跡地を市に売却し、7年前、現在の建売住宅を購入したそうです。ご主人はマグロ漁船の元船長で、2人はこう言いました。

 「一人娘が仙台に嫁いでいるから、最後にはどうしても、ここまで来なきゃと思ったね。気仙沼ではワカメの芯抜きの仕事をしたりして、小遣い稼ぎになったから、やっぱり気持ちでは“またやりたいな”って頭があるから、寂しいですね。この10年は早かった…たちまちだもの。これからも変わりなく元気で暮らしていきます」

 2人には、仙台でうれしい出会いがありました。すぐ近所に、気仙沼市大島(おおしま)の人が引っ越してきたそうです。2人の会話を聞いていて、同郷だと思って声をかけてくれたそうで、気仙沼から魚が送られてくると、2人にさばいてもらっていると言います。そんな同郷のご近所との行き来もあり、楽しくやっていると言いました。

 壮絶な経験を背負って故郷を遠く離れ、右も左も分からない大都市・仙台の一角で生きてきた方々が、他にもたくさんいます。息子や娘を頼って避難し、故郷へ戻る願いを抱えつつも、年齢や通院といった事情から定住を選んだ方々です。“被災”という同じ体験を共有できる、自分が一番なじんだ言葉で話せる同郷の人こそ、かけがえのない心の支えです。いま仙台には、「ひまわり会」の他にも、気仙沼出身者の「気仙沼はまらいんや会」、東松島出身者の「鳴瀬(なるせ)サロン」、さらには福島から避難した人たちの会など、“同郷サロン”がいくつかあります。