【キャスター津田より】1月16日放送「宮城県 東松島市」

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 今回は、宮城県東松島(ひがしまつしま)市です。人口は約4万で、震災では約73%の家屋に半壊以上の大きな被害が出ました。1133人が犠牲になっています。

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 この10年で、市の復興事業はほぼ完了しました。集団移転で造成した土地(717区画)の引き渡しは5年前に完了し、2年前には1101戸の災害公営住宅の整備が完了しました。あおい地区(約580世帯)、野蒜ヶ丘(のびるがおか)地区(約450世帯)など、大規模なニュータウンが誕生しています。特に野蒜ケ丘は、集団移転にあわせてJR仙石線の駅も移設され、市民センターや福祉施設、観光物産交流センター、さらに小学校や保育所、クリニックや消防署などもそろいました。被災した農地や漁港の整備も終わり、農業では法人化による大規模経営が増えました。宮戸島(みやとじま)では、津波で浸水した農地で始まったモモの栽培が成果を上げています。県内最大級のパークゴルフ場も完成し、特産品を販売する観光施設や、廃校になった校舎を改修した宿泊施設なども相次いで開業しています。

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 1月10日、東松島市では成人式が行われました。3密回避のため式は2回に分けて開催され、感染症対策も徹底されました。震災時は小学4年生だった308人が出席し、式では震災で亡くなった6人の同級生に黙とうを捧げました。会場にいたある新成人の女性は、

 「多くの人を笑顔にできる大人になりたいです。将来はテーマパークで正社員として働くことが夢なので、震災で悲しい思いをした、ちょっと暗い気持ちを持った方々も、たくさん笑顔にできる人になりたいと思っています」

と言いました。別の新成人の女性は、こう言いました。

 「看護師の資格を取るために看護学校に通っているので、人の役に立てるようになりたいです。母が看護師なのが一番大きな理由かなと思います。震災の時に直接母の活躍を見たわけではないのですが、母の話から、震災で皆が困っている中でも懸命に働いていたと聞いて、人の役に立てるってすごいと思って、自分もなりたいと思いました。私も家が被災したり、何もできない無力感で心が痛んだりしたんですけど、震災という経験があったからこそ、自分がなりたい将来像も見つけられたと思っています」

 そして今回は、この時期らしい別の行事の場にもおじゃましました。成人式の3日前の1月7日、野蒜地区にある白鬚(しらひげ)神社では、正月飾りや古いお守りなどを焼いて無病息災を祈る“どんと祭“が行われました。この神社は津波で社殿を流されましたが、社殿のがれきの中から御神体が見つかり、氏子の寄付や全国の神社関係者からの義援金によって、震災の5年後に再建されました。

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第14代の宮司を務める60代の男性は、こう言いました。

 「10mの津波で御神体が残っていること自体、奇跡に近いですから、御神体が留まったという話をすると、氏子の皆さんは“やっぱり白鬚様だ”って感心しますね。震災で地域の住民がばらばらになりまして、神社ができて、集団移転の場所も完成して、家もそれぞれ建って、新たな野蒜のスタートということで形はできたんですけど、まだ馴染んでないというか…やっぱり人と人、人と地域がいま一つ馴染んでいるとは言えないですからね。こういうお祭りをただただ繰り返していくことで、人と人、人と地域が馴染んでいくというか、新しい伝統が1年ごとに築かれていくと思います」

 また、この野蒜地区は特に被害の大きかった地区で、津波で約2000戸が全半壊し、住民の約1割(516人)が犠牲になりました。被災した跡地には、震災遺構の“旧野蒜駅”が残され、震災復興伝承館が建てられています。

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18歳だった三女を亡くした50代の女性は、仮設暮らしの後、3年前に集団移転先の野蒜ヶ丘地区で自宅を再建しました。10年という月日が経った今、私たちにこんなことを言いました。

 「津波のすごさというのを分かってなかった…助けてやることができなかったです。自宅から飛び出したんだと思います。それで波にさらわれて…。なかなか心から笑うことができていないので、これからは心から笑えるように生きたいと思っています。娘を忘れず、ただそれで悲しんでばかりはいられないんです。これから元気で明るく暮らすことが、何より供養になると思っています。娘に“いつまでも泣いてるんじゃないよ”と怒られそうだなという思いが一番強いですね。子どもたちの笑い声をたくさん聞くと元気をもらえるので、子どもたちが元気に笑って遊べる街になってくれればと思います」

 

 その後、市内でカキ養殖を営む60代の夫婦を訪ねました。東松島市の前に広がる松島湾は、カキの養殖で全国的に有名です。今は出荷の最盛期で、この夫婦も夜明け前から海に出て、水揚げを行っています。

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震災では養殖のいかだや作業小屋などが甚大な被害を受けましたが、3年前には息子も家業に加わり、昨シーズンは震災後で最高の売り上げを計上しました。2人はこう言いました。

 「もう一度やるか、やめるか悩んだんですけど、漁師仲間のみんなで再建に向けて頑張ろうと…。やっとメドがたったというか、このままの調子でいけばいいなと思っていたんですけど、去年の3月、4月からはコロナが心配で…今シーズンはどうなんだろう?って。どうしても消費が落ち込むんじゃないか、そうすると出荷の価格も低くなる、でも私たちは出荷しないことには収入にならないので、休まないで出荷したい…こればかりは先が読めないんで、しょうがないと思うでんすけどね。地場産品として笑われない、誇りを持てるカキにしたいですね。これからも10年、20年と元気で頑張っていきたいと思います。普通の生活ができる、普通の仕事ができる、そういう未来になってほしいと思います」

 また野蒜地区では、名物メニューで震災前からよく知られた食堂を訪ねました。70代の母親と50代の息子が営んでいて、海岸近くにあった家と店舗は津波で流されたそうです。この時期限定の“かきラーメン”は、ラーメンに大ぶりのカキが7個ぐらいのって1000円と、驚きの値段です。

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震災の年の秋には仮設店舗で“かきラーメン”の提供を再開したそうで、今はコロナ禍で営業への影響もありますが、今後さらに別の場所に店を新設し、観光にも一役買いたいと考えています。息子さんはこう言いました。

 「当初はボランティアも多かったんで、“こんなラーメンがある”って広まって、ネットで見て仮設店舗を探して来たお客さんもいました。家族全員、津波で流されたんですよ。親父とお袋は自分たちの車で、俺は俺で自家用車で…。2台とも車ごと流されて、それでも全員生き残ったんだから、どういう因果かよく分からないけど、とりあえずは“やっていかなきゃ”って思いましたね。全国各地、津々浦々から来ていただいて本当に感謝です。今後、野蒜でやっていくためにも、気合入れていきます」

 最後に、スタッフは宮戸島へ向かいました。海水浴場のある月浜(つきはま)地区は、20軒あった民宿が津波の被害を受けました。

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6年前に高台に再建したという民宿を訪ねると、70代の夫婦が営んでいました。息子夫婦と孫の3世代で暮らしていて、民宿の再建では補助金を活用し、足りない分は借金でまかなったそうです。津波で建物は全壊し、半世紀続いた民宿をやめるかどうか悩みましたが、孫の“後継ぎになりたい”という一言で再建を決意しました。10年経った今年、孫は立派な男性に成長し、成人式を迎えました。彼は海で働きながら、民宿も手伝っています。ご主人はこう言いました。

 「当時小学4年生の孫が“ここから離れたくない”って言ってね。私らが民宿をできるだけやって、息子らが継いだ後は、孫がやりたいって言うから…やっぱり孫の意見が大きかったね。コロナの前までは思った以上に営業も順調だったけど、コロナは震災よりずっとひどいね。これからどうしよう、借金があるからどうしようって、寝ていてもいろんなことを考えるね。私の中では令和3年は“常に前進”で、コロナがなくて良い方に向かって前進するのが一番だけど、なかなか難しいと思います。一番ひどい年になるんじゃないかと思いますが、それに負けずに進んでいく気持ちです。まずは孫にバトンタッチすること、余裕をもたせてバトンタッチすることだね」

 カキ養殖、食堂、民宿と、皆さんがコロナ禍の影響を受けています。そもそも被災地の主力産業は一次産業で、それに連なる食品加工業が雇用の要です。農産物や水産物、その加工品を全国に出荷するのが地域経済の基本であり、全国的に飲食業界が低迷して供給がだぶつき、値崩れするのは大打撃です。さらに被災地の外から直接お金が落ちる観光業も重要な柱でしたが、これも苦境にあえいでいます。
 震災10年や復興五輪で区切りがついて一件落着…そんな風潮は、被災地にはほとんどありません。