【キャスター津田より】12月19日放送「首都圏編」

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 今回はいつもの取材と異なり、福島県から避難して、今も首都圏で暮らす方々を訪ねました。

 福島県外に避難したまま、そこで暮らし続ける方々は、今なお約3万人います。そのうち約1万人は、東京、神奈川、千葉、埼玉の首都圏に住んでいます。県外避難者に対して、安直に“福島を捨てた”などと批判する人もいますが、全くの的外れです。最も頼れる避難先、例えば息子や娘、親戚や友人などが、県内にいたか、県外にいたかの違いに過ぎず、避難後に病気が増えれば、医療が十分整っていない所では暮らせませんし、帰還しても前と同じ商売が不可能なら、生活できません。子どもが避難先の学校に溶け込み、生活を確立したため戻れなくなってしまったケースも非常に多いのが現実です。

 

 まず、浪江町(なみえまち)と富岡町(とみおかまち)の方に会いに行きました。どちらも原発事故で全町民が避難を強いられ、3年前(2017年春)に一部で避難指示が解除されました。すでに2つの町にはスーパーや公営住宅、診療所、ビジネスホテルなどがあり、こども園や小中学校も町内で再開しています。ただ、実際に町内に住む人は、浪江町が人口の9.1%、富岡町12.6%に過ぎません。

 はじめに、東京都心から電車で40分の調布(ちょうふ)市で、浪江町出身の80歳の男性を訪ねました。

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現在、東京都に避難したまま暮らし続ける方は、3000人以上います。男性は首都圏に住む子らを頼って避難し、おととしマンションを購入。現在は夫婦で暮らしています。複数の病気を抱える男性は、医療への不安から帰還を断念し、40年近く暮らした自宅は今年解体しました。

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 「今年の3月末で、(県の)家賃の補助が切れたから、向こう(浪江町)に行こうかどうしようか考えたんですけど、有り金はたいて、子どもの支援ももらって、ここにマンションを買いました。浪江町にも未練があるので、完璧に浪江が消えたとか、ふるさとを失くしたということは考えられませんね。どこに住んでいても“仮の宿”だと、そういう気持ちだもの。なんでこうなったのか、こういう目にあったのか、その思いは抜け切らないです…10年ですよ。今日あっても明日の命は分からないから、一日一日が大事。命あってこそ何でもできると、そう自負しています」

 男性が一番悔しいのは、浪江町でのコミュニティーを失ったことだと言います。パークゴルフや芋煮会など、近所どうしで仲良く楽しんだ時間はもう戻りません。大都会のマンションでは、住民どうしが廊下で会っても声も交わさない暮らしで、失ったものの大きさを毎日かみしめながら生きています。

 次に、千葉県に行きました。千葉県内には、原発事故のあと避難した福島の方々が、今も2100人以上暮らしています。

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成田空港から車で数十分の多古町(たこまち)では、浪江町で養豚業を営んでいた60代の女性を訪ねました。震災の4年前に夫が他界、受け継いだ豚舎をやむなく放置し、次女が住む千葉に避難しました。豚はその後、逃げ出すなどしたため、全て失いました。全域に避難指示が出た町で再び養豚に取り組むのは、多額の設備投資や出荷後の市場評価を考えれば相当リスクがあります。女性は帰還を諦めて定住を決意し、5年前、多古町に自宅を新築しました。現在は長男と暮らしています。

 「福島にいたら、ずっと重い雲が頭の上に乗っかっている中で生活しなくてはならないと思う…ここは普通なんです。千葉県は普通。原子力発電所の事故って、そんなに簡単ではなくて、あと10年生きていても、(影響は)終わらないだろうな。元気、元気で、笑顔を忘れず…自分を奮い立たせる言葉かな。私はここで頑張る、そして“お母さんはここにいるぞ”、“いつでも戻ってきていいぞ”と、そんな感じ」

 女性の5人の子ども達も、原発事故で職を失うなどしたため、新たな仕事を求めて東京や千葉などに移りました。夫の死後、団結してきた家族が離ればなれになったことは、悔やみ切れないと言います。

 一方、帰還を望む人もいました。

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同じ千葉県にある港町、富津(ふっつ)市に住む富岡町出身の70代の夫婦は、親せきが所有する家で暮らしてきました。去年、富岡町の自宅の修繕を終えたそうで、自宅の管理のため、ご主人は月に2回、車で5時間かけて富岡町へ通っています。

 「3年過ぎたら80歳になるわけで、そうすると車の運転だって、ちょっと危なっかしい。一刻も早く、歩けるうちに、元気なうちに戻らないと…って思うよ。富岡では、やっぱり和やかになりますよね」

 また、奥様はこう言いました。

 「富岡の知り合いに電話をかける時があるのね。そうすると若い時と同じ感じになっちゃうね。しゃべったりすると、いくら時間経過があっても元に戻るっていうか…」

 縁もゆかりもない土地とはいえ、10年近くいれば人のつながりも濃くなります。正直なところ奥様は、あと3年くらい富津にいたいそうですが、いずれにせよ2人とも、町へ戻る意思は固いようでした。

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 その後、埼玉県加須(かぞ)市に行きました。埼玉県には現在、2600人以上の福島県民が住んでいます。加須市には一時、双葉町役場も置かれたため、今も約400人の双葉町民が暮らしています。

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双葉町には福島第一原発があり、面積の96%は帰還困難区域です。今年3月、JR双葉駅の周辺など、ごく一部で避難指示が解除され、震災と原発事故の伝承館や飲食店も入る交流施設がオープンしました。しかし、復興のスタートを切るまで9年…。住民意向調査でも、“戻りたい”という回答は約1割でした。

 双葉町で100年以上続いたという理容店は、6年前、加須市で再オープンしました。2代目の80代の男性は、妻と息子夫婦の4人で店を切り盛りしています。一家は4世代7人で加須市に避難し、去年、双葉町の店舗兼自宅は取り壊しました。

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今では、開店前に行列ができる人気店になりました。

 「ここで生きていく気持ちになったのは、床屋の技術で食べていける自信がついたから。他の床屋さんを見て、我々のほうがましかなと…(笑)。帰れるなら、今でも帰りたいですよ。だからといって、帰って生活できるかといえば、できない。特に家も壊しちゃったから…。仕事は死ぬまで続けます」

 男性の話の端々に、“うしろは振り返らない”という思いを強く感じました。

 そして、神奈川県にも行きました。神奈川県には、1800人近くの福島県民が暮らしています。

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秦野(はだの)市では、浪江町から避難した夫婦が営む雑貨店に行きました。60代のご主人によれば、震災前も雑貨店を経営し、秦野市には妻の実家があるそうです。新店舗は、関東大震災を経験した築100年の洋館です。

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以前住んでいた場所は海から300mで、自宅は津波で流されました。避難指示は解除されたものの、災害危険区域に指定され、家の新築は許可されません。

 「ここは関東大震災で被災して、一度壊れて翌年できあがった建物ですから、震災がらみでとても思いがある、気に入った建物なんです。秦野の生活も慣れて、温かく受け入れていただいています。でも、原発の事故だけはどうしても許せないところがあって…。何とかならなかったのかという思いがあって、本当に時間を巻き戻せたら、巻き戻して欲しいんですけど…。なかなか言葉にできないところはありますね。まだ前に進めない方もいるので、これからの人生を楽しめるよう、一緒に進んでいきたいです」

 原発事故について男性が言葉にした思いは、福島県民の心の中では決してゼロにならない思いです。普段は考えないように、口にしないように生活しているだけに違いありません。

 さらに、秦野市から電車で1時間の、相模原(さがみはら)市に行きました。

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福島県の内陸部にある大玉村(おおたまむら)に住んでいた50代の女性は、原発事故の時は娘がまだ4歳で、避難指示は出なかったものの、健康を案じて相模原市の実家へ来ました。去年、住民票を相模原市に移したそうです。現在は、福島について自由に語り合う『3.11カフェ』という活動に熱心に取り組んでいます。

 「実家で過ごして、娘に“夏休みが終わるから、そろそろ福島に帰らなきゃ”って言った時に、娘が“放射能怖いから帰りたくない”と言った一言がきっかけでしたね。住民票を移してなんかすっきりしましたけど、“避難してここに住んでいる”という感覚はやっぱり残っていますね。“避難している”じゃなくて、“ここを選んで住んでいる”と思える時が区切りなのかな。世間が言う“月日の流れのどこかが区切り”ではないと思います。福島出身って言えない若者も結構いて、10年が経つこれからは、やっと声に出せるようになる人が増えていくんじゃないかと思います。“泣いてもいいよ”って言ってくれる方って、周囲に探せばいると思うので、その人たちの前で泣けたら、皆さん一歩前に進めるのかな」

 情報が錯綜した原発事故当初の混乱期、避難指示が出たかどうかに関わらず、まだ小さい子どもを連れて、つてがある県外にいったん出たという方はたくさんいます。住む場所を個人が自由に決めるのは憲法でも保証されていますから、個人の避難の選択に良し悪しの評価を下すことは誰もできません。福島出身と言えない人たちにかけた言葉が、印象に残ります。