【キャスター津田より】12月5日放送「岩手県 山田町」

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 今回は、人口約1万5千の岩手県山田町(やまだまち)です。

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津波で町内の家屋の半数近くが被災し、そのほとんどは全壊でした。津波の直後には大規模な火災も発生し、町中心部の家屋はほとんど焼失して、陸中(りくちゅう)山田駅の駅舎も全焼しました。駅前には、黒焦げのまま立つ大木もありました。

 あれから間もなく10年…。一時1900戸以上あった仮設住宅の入居者はゼロになり、当初の計画より遅れたものの、新たな宅地455区画、災害公営住宅640戸の整備が2018年度に完了しています。4年前、陸中山田駅のすぐ近くに共同店舗がオープンし、地元スーパーを中心に10店舗が営業を始めました。その後、復興事業の進展で次々と店が建ち、現在は新しい陸中山田駅を中心とする徒歩圏内に、衣食に関する店や金融機関、郵便局、公園などが集約されています。高台には県立山田病院や消防署、交番も再建され、中心部の主要地点を結ぶ“まちなか循環バス”も今年から運行しています。去年3月に三陸鉄道リアス線が開通し、三陸道の山田インターチェンジ付近には、新たな道の駅も整備されます。

 一方、去年は台風19号で被災し、一部損壊以上の被害が約190戸に及びました。基幹産業の漁業でも、担い手不足(=漁協組合員数は震災前から3割減)や、秋サケの記録的な不漁など、厳しい現実があります。集団移転跡地の6割近くで使い道が決まらないのも、町づくりの課題です。

 

 はじめに、山田町立“鯨と海の科学館”に行きました。昭和20年代に盛んだった捕鯨にちなみ、道具や歴史について展示しています。

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見どころはマッコウクジラの全身骨格で、世界最大級の標本だそうです。津波で8mの高さまで浸水し、約1000点の展示品が流されました。唯一残ったのが、マッコウクジラの模型と骨格標本でした。6年後に念願の再開を果たしましたが、去年、台風19号で再び被災し、1階が泥水で覆われました。2度目の休館、さらに新型コロナウイルスでのオープン延期をへて、今年7月、ようやく一部で再開しました。

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館長の70代の男性は、こう言いました。

 「皆さんのおかげで開館ができた、あとは我々がやっていかなきゃならない、そういう強い気持ちで 職員もやっています。震災で先が見えない中で、ボランティアさんをはじめ、いろんな方が駆けつけてくれました。その皆さんの優しい笑顔に我々は救われた気がしますし、笑顔によって我々は動くことができました。今度は我々が、皆さんが笑顔で帰っていくように頑張っていこうとやっています。あの震災を経験しているので、何があっても動じない、そういう気持ちでいます」

 それから陸中山田駅前に整備された“うみねこ商店街”に行くと、4年前に取材した衣料品店が再建していました。

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以前は仮設商店街にあった店で、店主の60代の女性は、“今より少しでも売り上げが伸びて、お客様に喜んでもらえるお店になれば…”と、“うみねこ商店街”での再起にかけていました。

 取材の翌年、女性は現在の衣料品店を再建し、店舗面積は仮設商店街の4倍になりました。

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 「おかげさまで何とかやっています。お客さんの数は震災前にようやく戻ったという感じ。このまま定着するようにしないと…。今はコロナで、“行く所がここしかないから”って遊びに来てくださる方もいます。来ていただくのがありがたいことで、商売だけではないですよね。商売以外の、別の話をさせていただいたりするので、人と人とのつながりを大事に、“これからもよろしく”という思いです。若い人もお店を開いてほしいです。少しでも若い人が集まるお店が出てくれるといいですね」

 さらに、中心部から車で5分の洋菓子店にも行きました。

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店主は50代のパティシエの男性で、妻と2人の子どもがいます。津波で店は全壊し、仮設店舗をへて5年前に再建しました。約30年間、神奈川県などで働いた後、地元に戻って念願の店を開きましたが、4か月後、津波ですべてを失いました。

 「その時は当然借金もあったし、新たな借金と、二重にかかるじゃないですか。いろいろな補助を活用して、やっと5年たって少し落ち着いてきたかなと…。ケーキって嗜好品なので、そんなに必要とされていないと思っていたんです。でも震災があって気づいたのは、甘いものを食べて“おいしい”と言う、自然に笑顔が出る、そういうちょっとした幸福ってあるじゃないですか。私がそれを作って、食べてもらっているんだって一番感じますね。甘いお菓子やケーキを食べるって、私もお客さんも、みんなを笑顔にする力を持っていると思うんですね。それを私がずっと提供できるように、頑張りたいです」

 自営業の方々も決して楽ではありません。人口は震災前から2割も減り、復興特需も終わりました。すでに震災から9年の時点で、町内337の被災事業者のうち、約4割が廃業したか商工会を脱退しています。それでも衣料品店や洋菓子店のように、確かな意欲を持った方々はいます。

 

 その後は海沿いにある北浜(きたはま)集落に行き、老人クラブの会合におじゃましました。メンバーは50人ほどで、福祉施設で踊りを披露したり、花壇を手入れするなど、地域のために活動しています。災害公営住宅に住む女性は、“扉を閉めれば外部との接触が全然ないので、月1回の例会、週1回の踊りは元気のもとです”と言いました。事務局長の70代の男性によると、震災直後、全国から様々なボランティアが訪れ、今でも定期的に交流しているそうです。一人一人の誕生日になると、寄せ書きを贈ってくれる団体もあります。男性はこう言いました。

 「私たちは忘れません…悲しみに泣いた日のことを。私たちはもっともっと忘れません。生きる希望と力をくださった、全国、全世界の皆様のことを…。この津波をしっかり伝えねばならないということと、震災を機会に多くの人にいろんな支援を受けたということ、これを絶対伝えていかなくちゃならない。ますます心を一つにして、ふるさとのために何かやっていきたいという思いで生きています」

 男性たちは2年前、思いを形にしようと、“慰霊と感謝の碑”と刻んだ大きな石碑を建立しました。

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震災そのものの伝承活動はたくさんありますが、震災後にどれだけ人に助けてもらったか、つまり“人間の善意の尊さ”を後世に伝える活動はあまり聞きません。それもまた、未来に役立つ貴重な教訓です。

 そして、三陸鉄道の新しい織笠(おりかさ)駅とともに整備された、高台の集団移転団地に行きました。

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ここでは、6年前に仮設住宅で取材した80代の男性を訪ねました。当時は津波で自宅を流され、夫婦2人で仮設暮らしをしていて、こう言いました。

 「高台移転の造成地の早期完成を望みます。私たちは高齢者ですから、早く完成して、そこで安心して暮らしたいです。前の土地は売りました。自宅の再建資金に充てないと足りないので…。今度は小さくてもいいから、女房と2人分のベッドが入る部屋を確保したいです」

 あれから6年…。男性は4年前に自宅を新築し、夫婦で元気に暮らしていました。

 「今は高台ですから、前はちょっと地震があれば津波も気になったんですけど、今は少しぐらいの地震では落ち着いていて、その点がいいです。漁師の人が“今日これとってきたから食べろ”とか、私も“これ半分食べてけろ”とか分けたり、そういうやり取りもあるんだよね。都会へ行ったら、そういうのはないと思うので、ここでよかったですね。今はお世話になった皆さんに、感謝の気持ちだけです。いろいろ来て、清掃とか何でも手伝ってくれた人たちに感謝したい…本当にありがとうございました」

 最後に、国道45号線沿いにある木彫り工房に行きました。工房のあるじは80代の男性で、退職後、仲間と趣味で木彫りを始めました。道の駅でも売っている“山田ホタテ海童(かっぱ)”を作っていて、姿はカッパなのですが、頭の皿はホタテの殻で、愛くるしい表情をしています。

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聞けば、昭和62年の町おこし運動で誕生したマスコットだそうです。津波で仲間2人が犠牲になり、制作者は男性一人になりました。工房は天井まで浸水し、道具もすべて流されました。震災後、仲間を思って仏像を彫りはじめ、気持ちがだんだん整理されるにつれて、再び仲間との思い出の品を作るようになりました。

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 「津波の後は頭がぼーっとして、仲間のことを思い出したり、津波のことを思い出したり…それが1年ぐらい続いて、調子が悪かったね。そのうち祈ろうと思って、本を見ながら仏像を彫ってみるかって思ったんだ。そのうち、やっぱり昔、仲間と町おこしをやった時のことが頭にあったために、ホタテ海童をもう1回やったほうがいいと思って、また始めたんだ。津波の後はもうやめようかなと思ったけども、カッパに生かされたというか、生きがいにもなって、これがなければ生きていられないというかね。もうカッパになったつもりで、一生懸命彫ってるんだ」

 震災時の町民19000人のうち、825人が一度に亡くなったため、ほとんどの町民が知っている誰かを亡くしています。一人一人が亡き人を常に思いつつ、前を向いて生きてきました。