10月3日放送「福島県 浪江町」

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 今回は、福島県浪江町(なみえまち)です。人口1万6千あまりの町で、原発事故による全町避難が続きましたが、2017年3月に一部で避難指示が解除されました。町の面積の8割は今も立ち入りが規制されている帰還困難区域ですが、多くは山林です。震災前の人口で見ると、避難指示が解除された地域の町民が約8割、帰還困難区域の町民が約2割です。

 

 今回はまず、帰還困難区域の津島(つしま)地区の方を訪ねました。

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和牛の繁殖を行っていた70代の男性で、50㎞離れた大玉村(おおたまむら)に夫婦で暮らしています。1年半ぶりの帰宅に同行すると、背丈を超える雑草や木々が生い茂り、家屋は緑に埋もれていました。田んぼは周囲の荒れ地と同化して、見分けがつきません。何百万円もかけた牛舎には物が散乱し、野生動物の糞もありました。

 「元の姿がないです。10年経つんだよね、忘れられないけれども…。

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避難の時は牛が8頭で、どうしようもないからそのままにして、エサを山盛りにして、3日後くらいに戻って来たかな。エサ箱はカラカラになってね。生きてはいたけれども、悲しそうな目を今でも思い出します。ここに生き、地域の人たちと一緒の、人間としての生活が俺にはあった…それがある日、突然奪われたわけだよ。地図上は浪江町津島って残っているけど、生活の全てが奪われたという意味では、地図上から消えちゃったと言っても過言ではないでしょう。原発事故さえなければ…原発が憎いです。諦めろと言われても、諦められないね。残りの人生わずかだけど、俺は最後まで頑張る。津島を元に戻したい、その思いで頑張ります」

 避難当時の牛は、全て業者に引き取ってもらったそうです。

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経済動物とはいえ家畜も家族であり、その家族が避難中に餓死したとか、安楽死させられたとか、悲惨な話がたくさんあります。震災から9年半も過ぎると、“被災者はいつまで後ろ向きなんだ!”というSNS上の批判も目にします。そうした狭量な理解は捨てて、この国の中に“帰還困難”と言われる場所がある事実を忘れてはいけません。

 

 次に、避難指示が解除された地域で取材しました。川添(かわぞえ)地区に帰還した80代の農家の男性は、スタッフに家の周りを案内しながら、10軒ぐらいあった家々も、震災後に引っ越してガラ空きになったと言いました。奥様も、“昔の面影が薄らいでいきます。みんな帰って来ないんだなと思って…”と寂しそうにつぶやきました。浪江町に1500戸以上あった農家も、今は44戸です。それでも町では、新たにタマネギの産地化を目指しており、男性も震災後にタマネギ栽培を始めました。

 「私一人になってもここに戻りたいという、土地への執念が強かったね。農家の生まれだから、農地から離れるというのは俺自体が考えられないし、本当にここで生活できるのかと言われれば、疑問なところはあるけどね。戻ってきて農業をやる若い者は、本当に数えるくらいしかいない。私たちの集落でも、実際10分の1くらいしか戻ってきていない。年寄りだけでこの土地を守っていけるかというと、到底守っていけないですね。これだけの農地を今後どうしていくか、一番の悩みの種だと思います」

 そして幾世橋(きよはし)地区に行き、震災後に修復された初發(しょはつ)神社に行きました。

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禰宜(ねぎ)を務める40代の神職の男性によれば、社殿は福島県の重要文化財ですが、地震で倒壊寸前まで傾いたそうです。県と町の助成金や氏子の寄付により、去年3月に修復が完了しました。男性の家はここで代々神職を務めていますが、今では避難先のいわき市に家を構え、3人の子どもはいわき市の小中学校に通っています。男性はいわきと浪江を行き来しながら、神社の管理をしています。

 「傾いた社殿を見続けるのは神様に申し訳ないですし、私にできるのは境内の掃除をするくらいで、情けない思いをずっと持ちながら、1日でも早く再建したいという思いでした。

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誰にも先のことが見えないのが、何とももどかしい…町に戻らない人の気持ちも分かります。やはり若い世代、働いている方は仕事があります。子ども達もいます。例えば病院であったり、生活を考えたらなかなか一歩が踏み出せないのは、私自身ありますし、震災前のようにいかないのはもちろんだと思いますね。神社の復興はふるさとの復興なくして成し遂げられません。1日も早いふるさとの復興を願っています」

どんなに町を思っても、高齢者や学齢期の子どもを抱えた人が、自宅を離れて5年も6年も仮住まいの避難を続けるのは無理です。現在、浪江町に住民登録がある人のうち、町内に住む人は8.7%です。

 

 その後、原発事故に加えて津波の被害も受けた、請戸(うけど)地区に行きました。請戸漁港は3年前から利用が再開され、今年4月には9年ぶりに競りが復活しました。

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しかし今も、日数を制限して漁を行う試験操業が続いています。請戸地区に町が整備した水産加工団地には、今年4月、第1号として魚の仲買と加工を行う業者が社屋を構えました。

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会社の3代目、80代の男性に聞くと、千葉市に避難して廃業も覚悟しましたが、震災の翌年、請戸の漁師たちと築地を訪れたことで思いが変わりました。

 「工場、自宅2つ、倉庫6棟に冷蔵庫3つ、あとは車が7台、全て流されて何もなくなったんですよ。もう、復興する気もなかったし…。40名くらいの仲買の同業者もいたんですけど、誰も戻って復興する人がいなくてね。でも築地に行った時、(自分の上着に刺しゅうしてあった)我が社のマークを築地の皆さんが覚えていてくれて、“出荷するのにこのマークなら大丈夫だ”と話してくれて、一緒にいた漁師の人たちが喜んじゃってね。なんとか復興してくれないかと言われて…。地元で生まれて地元で育ったので、やっぱり漁業者を放っておくわけにもいかないですから」

 県水産海洋研究センターの調査では、2015年4月以降に試験操業で取れた魚のうち、放射性セシウム濃度が国の基準を超えた検体は1つもありません。9月29日、福島県漁連の組合長会議で、来年4月から本格操業の再開を目指すことになりました。本格操業への期待は一段と高まっています。

 さらに、浪江町のアウトドア用品メーカーがいわき市で再開したと聞き、訪ねました。

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社長は40代の男性で、6年前、新工場を建てました。かばんやウェットスーツなどを製造し、売り上げは震災前を超えたそうです。自宅は帰宅困難区域にあり、現在はいわき市で家族と暮らしています。

 「浪江に近いのと、人材確保の面でいわき市で再開しました。人手不足で断っている仕事もあったので。このあいだ久々に浪江の家に行ったら、自宅が森になっていましたね。悲しいけど、しょうがないことなので…。浪江に残した工場も10~20年後には、30人規模くらいの工場にしたいと思っているんです。浪江を捨てられないので、浪江でそういう工場がつくれたら、人が集まるかなと思っています。ものづくりで浪江を発信できればいいかなと…」

 最後に、幾世橋地区にある介護福祉施設に行きました。

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今年4月にデイサービスを再開しましたが、介護福祉士などが集まらず、サービスは限られます。施設を運営するNPOは花き栽培も行っていて、隣の敷地をはじめ、町内3カ所にある20棟のハウスでトルコギキョウを栽培しています。原発事故から4年後、私たちはこのNPOの代表だった60代の男性を取材していました。介護福祉施設は再開のめどが立たず、日中だけ立ち入りが許可される中。新たな収入源として花き栽培を始めたばかりでした。

 「浪江町で何十年か後に、若い人たちがねじり鉢巻きしながら農業をしている光景を夢に描いて、それを形にするにはどうしたらいいかと考えながら、今を生きています」

 あれから5年…。NPOの栽培規模は10倍以上に増え、従業員も7人雇っています。トルコギキョウ栽培には他の農家も参入し、東京の民間企業の参入も予定されていて、着実に産地化が進んでいます。

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 「本当に皆さんのおかげで、“浪江といえばトルコギキョウ”というようになって…。この10年間は、やっぱり避難した人の生活支援とかを頑張らなきゃならなかったけど、今も被災地に変わりはないけれども、そこに意識を置いたままでは次に進めないわけだよね。経験したことの中から学びはたくさんあったわけだから、その学びをこれからの人生に活用してかなきゃいけない。自分が育った浪江町に誇りを持てるようなものをつくらなきゃいけないと思います。浪江に住んでいる者としてはね」

 避難指示を経験した他の自治体でも、カスミソウ、アンスリウム、コチョウランなどが栽培されています。花は食用ではないので風評の影響も受けにくく、期待を集めています。

 浪江町では他に、3年前に診療所と地元銀行が再開しました。2年前に認定こども園と小中学校が開校し、去年の夏は大手資本のスーパーが、今年の夏は道の駅とビジネスホテル(客室数93)が開業しました。町が整備した集合住宅があり、今年3月には産業団地も完成して、世界最大級の燃料用水素の製造拠点やロボットの研究開発拠点も開所しました。課題から未来への光まで、多くを見た取材でした。