6月20日放送「福島県 若者・子ども編」

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 今回は、福島県の若い世代の声です。はじめに、原発事故で全住民が避難を余儀なくされた自治体を回りました。いずれも現在は、放射線量の高い帰還困難区域を除けば、避難指示は解除されています。

 

 まず、富岡町(とみおかまち)に行きました。

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3年前に一部で避難指示が解除されましたが、人口のうち、実際町内に住む人は約1割です。原発事故や町の現状を伝えるNPO法人“富岡町3.11を語る会”を訪ねると、語り部を務める21歳の男性が話をしてくれました。去年、避難先の郡山(こおりやま)市から戻りましたが、同世代は全国各地に散らばり、1年経っても同い年の人を町内で見かけないと言います。新型コロナの影響で“語り部ガイド”のキャンセルが続きますが、全国の若者が気軽にスマホで見られるよう、十数人いる語り部の話を動画に残し、YouTubeやSNSで紹介する計画です。ガイドでは必ず母校の富岡第二小学校を訪れますが、避難で児童数が激減し、他校と統合されて校舎は解体中です。

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 「語り伝える方って高齢の方ばかりで、若い世代が避難中にどう思ったのか、家に戻れない時にどう思ったのか、言えるんじゃないかなと思って、語り部をしています。解体も復興だと言う人もいますけど、もったいないですよね。復興って何なんだろうって思いますね。元に戻っている感じではないので、元に戻らない町で、“前の町はこんな所だったんだよ”と、ちゃんと話せるようになりたいです」

 町では、3年前に全国初の震災遺産保全条例が制定され、地上3階建てのアーカイブ施設を整備中です。町民の体験談を大型スクリーンで紹介したり、災害対策本部の再現や、津波を受けたパトカーなども展示します。来年夏に開館予定で、彼の世代が伝承に取り組む意味はさらに増しています。

 続いて、飯舘村(いいたてむら)に行きました。

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3年前、一部を除いて避難指示が解除され、徐々に農業も再開されています。カスミソウを栽培する30代の女性は、去年3月に福島市から移住し、就農しました。飯舘村から避難中の夫と結婚、夫の実家は取り壊されましたが、その畑を使って農業を始めたそうです。補助金で農業用ハウスも整備し、今は夫や3人の子どもと、村内の公営住宅で暮らしています。

 「母親が“子どもの頃、農家に嫁いで、農家をするという夢があったよね。それが飯舘村で叶えられるんじゃないの?”って、背中を押してくれたんです。家族もサポートすると言ってくれて、見るに見かねて旦那も一緒にやっています(笑)。周りの農家さんも優しく教えてくれたり、第2のお母さんみたいな感じで、“ご飯食べたのかい?”って言って、おすそ分けを持ってきてくれる…昔あったような光景がいま見られることが、すごくうれしいですね。生産者も増えてほしいし、夢はマイホーム購入です」

 飯舘村では、畜産でも若い新規就業者がいます。避難したまま帰還しなかったり、高齢化などで再開を断念する農家が多い中、彼女のような農家が畑を広げていければ、地域の大きな光になります。

 その後、葛尾村(かつらおむら)に行きました。

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事故の翌年から活動する地域おこし団体を訪ねると、25歳の男性職員が話をしてくれました。村で生まれ育ち、東京の大学に進学後、そのまま東京でサラリーマン生活を送りました。去年Uターンし、葛尾村の米でせんべいや酒を作るなど、村の魅力を伝える商品づくりに力を入れています。

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福島の地域づくりを担う人材育成のため、東京から講師を招いてコミュニケーション講座なども開いているそうです。実家は帰還困難地域に隣接していて、両親と祖父母は、避難先の本宮(もとみや)市に新たな家を構えました。

 「村は懐かしいっていうか、安心しますね。空気とか、音とか。ばあちゃんに連れられて、春になると鎌を持ってタラノメを採って、秋はキノコを採って夜に食うみたいな、うまいんですよね、それが…。僕の中で、葛尾村がなくなるんじゃないかという危機感が大きかったです。それだけこの村の価値は感じていたし、だからこそ無くしたくないっていう思いなんです。自分は被災者であることから逃れられない、であれば、どれだけ満足して充実感を持って生きていけるかで決まると思うので、“これのためなら力を惜しまない”というものを探していたんですよね。それが、ここなんじゃないかと…」

 もともと人口が少なく、いま実際に村内に住む人は原発事故前の3分の1以下、わずか420人ほどです。多くが高齢者で、村の存亡は現実味を帯びています。彼らの活動には、期待と注目が集まります。

 さらに、大熊町(おおくままち)に行きました。

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福島第一原発が立地する町で、去年4月に避難指示が一部で解除され、150人ほどが災害公営住宅などで暮らし始めました。住民の一人、千葉県出身の30代の女性は、原発事故の3年後に町民が避難するいわき市に移住し、復興支援団体に就職しました。去年から大熊町で暮らし始め、コミュニティーづくりや伝統芸能の継承支援を担当しています。

 「母の実家が大熊町の隣の双葉町(ふたばまち)で、夏休み、冬休み、連休は全部こっちに来ていたので、田舎といえば双葉みたいな感覚で…。原発事故で完全に双葉に行けなくなるんだ、お墓参りすらできなくなるという感じがして、ずっともやもやしていました。やっぱり一番知りたい場所に行こうと思って、こっちに来たんです。来てみて衝撃的だったのが、地震があって津波が来て、原発が事故を起こして…というのを、皆さんびっくりするくらい、ジョークみたいに話してくるのがすごいなあって思いました。だから、その人たちが今も大好きだし、その人たちがいるから、ここにいたいと思いました。今は大熊町で農業をやる、大熊町の伝統芸能を継ぐということに、意義や楽しさを感じています」

 沿岸部の浜通り地方では、避難によるメンバーの離散などで、210もの伝統芸能団体が活動休止に追い込まれました。そのうち、再開したのは一部です。大熊町では、9割以上の町民の自宅が、放射線量が高い帰還困難区域の中にあります。大半の町民は全国の避難先で、すでに自宅を構えています。その大熊町に豊かな農地が広がり、伝統芸能も盛んなれば、福島を見る全国の目が大きく変わるはずです。

 

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 そして、福島第一原発に近い沿岸部を離れ、内陸の古殿町(ふるどのまち)に行きました。

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昔から林業が盛んな町で、伐採業者の30代の男性は、別の業者で働いて独立し、原発事故に見舞われました。県が定めた空間線量の目安を下回る森林で、木を伐採しています。伐採には重機も活用し、作業負担を減らすことで職場環境の良さをアピールし、新たな担い手の獲得にも取り組んでいます。

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 「福島県の材料というだけで、風評被害がすごいあって、買い手がつかないというか…。重機の車内はかなり密閉されているので、作業中に放射線物質がどうとか、そういったストレスの軽減にもなるかなと思います。原発事故の不安の中でも試行錯誤して、どういうふうにやれば林業が成り立つのかなと考えています。原発事故で何かしら行動を起こさなければならない時に、チャレンジ精神がなかったら、いま自分はたぶんいないです。今後も本当にチャレンジする、し続けると思っています」

 建築材などの木材生産、栽培きのこ類など、県内の林業産出額は少しずつ回復しています。一方、間伐、植林、下草刈りなど、林業に必要な森林整備の面積は、原発事故後の担い手不足が深刻で大きく伸び悩んでいます。新規就業者は震災を機に大きく減りました。この男性には大きな期待が集まります。

 最後に、郡山市の百貨店に行き、福島県内の雑貨を集めた販売会を訪ねました。

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ある会社は、女性の視点で福島の伝統工芸品をアレンジし、会津木綿を用いたピアスなど、様々な製品を作っています。

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会社設立から8年、全国各地の物産展に出品してきたそうで、伊達(だて)市出身の18歳の女性社員は、販売技術に磨きをかけようと、この春から接客を学ぶ専門学校にも進学したそうです。

 「県外で販売した時、“あ、福島のものなんだ”って、パッと手を引かれたり、悲しいというか、苦しい気持ちもあるし…。もっと福島にいろんな顔があって、いろんな魅力があるのをたくさんの方に知ってもらって、ネガティブな印象が少しでも変わればいいなという思いがあります。変わるように自分に何ができるか、すごく考えています。震災前、隣の家の人が、ご飯を作り過ぎたら分けに来るみたいな…すごく好きだったので、子供を産んで育てるとしたら、都会よりも人が温かい所で育てたいと、すごく思っています。福島が好きですね、ずっと嫌いだと思っていたけど、すごく好きでした」

 そう話すと、彼女の目には涙が浮かびました。少し恥ずかしくなって苦笑いしていましたが、被災地で育った私にも、気持ちは分かります。震災前、ふるさとは空気と同じで、あまりにも身近で代わり映えしないので、時には嫌気もさします。その空気のような存在、ふるさとを突然失って初めて、無いと自分が一番困るのを痛感するのです。だからこそ、ふるさとが人から嫌われてほしくないし、時に愛おしさのあまり、涙も出るのでしょう。