4月18日放送「宮城県 岩沼市」

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今回は、宮城県岩沼(いわぬま)市です。

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人口は約4万5千で、津波で市の半分が浸水し、180人以上が犠牲になりました。建物の被害は5400戸を超えています。宮城県内では岩沼市の復興スピードが圧倒的に速く、“復興のトップランナー”と言われてきました。海岸線から約3㎞内陸にあった広大な田んぼを埋め立て、新たな住宅地“玉浦西(たまうらにし)地区”を造成しました。

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農地が多い岩沼市は平坦で広い土地を確保しやすく、地権者の同意も早かったため、県内でいち早く、震災翌年に国から集団移転事業の認可を得ました。住民代表や学者、市の職員が、30回近く会合を重ねて地区の設計を徹底議論したため、住民と市の間に決定的な対立も生まれず、スムーズに集団移転は進みました。沿岸部の6つの集落に住んでいた約1000人が、新築した家や災害公営住宅に移り、すでに5年前に“まちびらき”が行われました。その翌年には、380戸以上あったプレハブ仮設住宅から入居者全員が退去し、これも県内の沿岸自治体では初めてのことです。集団移転の跡地では、市が造成した産業用地の分譲が2年前に完了し、農業用資材の卸会社や食品輸送の会社など4社が進出しています。跡地には、緑の防潮堤“千年希望の丘”やヒツジ牧場、ソバ畑なども造られ、太陽光発電所も相次いで完成しました。

 はじめに、玉浦西地区に行きました。去年、新たにつくられた子育て支援センターを訪ねると、4月から館長を務める60代の女性が話をしてくれました。施設では育児相談などの支援を行うほか、保育所も併設されていています(現在、保育所以外は休館中)。

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この保育所の前身は津波で被災し、女性はそこで主任保育士を務めていました。その後、仮設の保育所では所長なども務め、現在の施設の立ち上げに深く携わったそうです。つらい状況の中、無邪気に遊ぶ子どもの姿に何度も救われたと言いました。

「やっぱり形の復興のほかに、心の復興とか、見えないところの復興もあると思うので、少しずつ歩み続ける中で、心の復興は進んでいくのかなと感じます。震災の時も何が起こるか分からないと感じましたし、今もコロナウィルスで何が起こるか分からない…やっぱり、今を大事にしないとだめだと思うし、今を楽しんでいこうという気持ちです。ども達の笑顔を見て、生きていて良かったと思える楽しさをもらい、子ども達には、どんなことがあっても強く乗り越えて、生きていってほしいと思います」

 次に、地区内の一角にある革製品を作る工房を訪ねました。30代の男性が新築した自宅の横に構えた工房で、以前の自宅は津波で全壊したそうです。3年前に結婚し、今年2月には長男も生まれました。現在は奥様と2人でオーダーメイドのカバンなどを製作しています。男性は、学生時代から独学で革製品を作って販売していて、自宅のガレージが工房代わりでした。震災時はイタリアに短期留学中で、その時に作ったブレスレットを語学学校の仲間や現地の皆さんが購入し、支援金として渡してくれたそうです。それを元手に帰国後も創作活動を続け、2年前に工房を再建しました。

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 「震災で苦しんだ点はあったんですけど、それを超えて、逆に人とのつながりとか得たものもあって、震災前に自分の好き勝手に作っていた時とは違って、より人のことを思って作るように変わった気がします。最悪な時に支えたくれた人、そのあと力を貸してくれた人、その人たちへの感謝を忘れずに、“あの縁があるから今の自分がいるんだ”と思って、一歩ずつゆっくりでも前へ進もうという気持ちです」

 さらに、玉浦西地区から徒歩10分の理容室を訪ねました。店主は50代の女性で、津波は店の入り口まで迫り、がれきや木などが山のように流れてきたそうです。震災から数週間で店を再開し、客足は減少していますが、集団移転団地などから新規の客も来てくれるようになりました。店の横にある塀には、地面から50㎝ほどのところに、浸水した高さを示す看板が取り付けられていました。

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「ここまで津波が来たというのを分かっていてほしいんです。市外から仕事で来た人とか、ここに津波が来たのも分からないし、どっちに逃げていいかも分からないんですよ。この9年間は、お客さんに支えられましたね。自分が落ち込んでいた時に、お客さんの一言一言に勇気づけられて、頑張って私も前に進まなくちゃと思いまして…。これからの未来も、引っ込まないで前向きに頑張っていくのが一番かと思います。みんなが幸せであれば、自分も幸せだし、ニコニコした顔を見るのが一番ですね」

 その後、下野郷(しものごう)地区へ向かいました。農家の50代の男性に聞くと、農業に憧れて20年前に脱サラしたそうで、震災前は葉物野菜などを栽培してとのことです。畑は津波の被害を受けましたが、借地での経営だったため、制度上は補償がありませんでした。震災後の3か月後、内陸部に土地を借りて露地栽培に挑戦しもののうまくいかず、借金してハウスを建てましたが、葉物野菜の通年出荷には規模が足りませんでした。3年前にキュウリ農家から土地とハウスを借り、ノウハウも教わりながら栽培を始めたそうです。

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もともとキュウリ畑で、土づくりを一からせずに済んだのも幸いしました。

「畑が変わっても同じことをやるんだから、できると思ったんですけど全然違って…。畑の土が全く違うし、道具もそろっていなかったし、無理矢理やっていたから全然食えなくてね。最初はやらなきゃだめだ、頑張ろうという気持ちがすごくあったんですけど、その後は思っていた以上に大変だなという思いがずっと続いて、ようやく最近、頑張れば何とかなると感じたり、ちょっと希望が見えてきたところですね。“じっとこらえて頑張る”という思いでやってきましたし、これからも頑張ります」

 そして、寺島(てらしま)地区に行き、70代の男性から話を聞きました。

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自宅が津波で全壊しましたが、集団移転の対象地域から外れたため、4年前、同じ場所に自宅を新築しました。家を建てた後に、対象地域外の住民も集団移転先に住めるというルールに変更され、少々不満もあるそうです。自宅を再建してすぐ、妻が病気になり、余命半年を告げられました。息子と娘は隣町に暮らしているため今は一人暮らしで、楽しみは花の栽培だといいます。

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「今の状態…まあ、震災が原因か分からないけど、女房が具合悪くなっちゃって、3年少し前にがんで亡くなったんですよ。気持ち的には、から元気というか、まだだめだね。地獄だったよ…だって、60歳ちょっとで被災でしょ。家をようやく建てて安心したかと思ったら、女房がそういう状態だから。亡くなって3年ちょっと、岩沼は復興が早いほうだったから大体終わっちゃったけど、気持ち的にはまだ復興半ばかな。花をやっていると、気持ちは全然違うね。このあいだも2軒の家に、シバザクラを株分けしてあげたの。この地区にいっぱい植えて、花だらけにしてやろうと思ってね」

 どんなに早く自らの復興を果たしても、必要なのはそれだけない…そんなメッセージにも聞こえます。前の農家の男性もそうですが、“復興のトップランナー”という肩書の割には、意外な言葉を聞く結果になりました。“復興の1丁目1番地”といわれる住まいの再建がとにかく早かった岩沼市は、復興の先頭を行く好例として、プラス面だけ報じられることが多かった被災地です。だからこそ、個人の苦労や本当に言いたいことは隠れがちです。一人一人からしっかり話を聞く大切さが、改めて身にしみます。

 最後に寺島地区で、8年前に取材した別の農家を訪ねました。60代の男性で、以前会ったのは震災から1年後でした。自宅前にある野菜直売所の営業を再開していて、当時はこう言いました。

「町を早く復旧させないと…誰かがのろしを上げないとね。それを態度と形で示せば、一番いいかなと思ってね。皆さんにいろんな勇気をいただいたので、私も勇気を返す…私を見れば、じゃあ自分たちも頑張りましょうと、お互いに切磋琢磨することになるのではないかと思います」

 あれから8年…。男性の自宅は災害危険区域に入ったため、やむなく内陸の寺島地区に自宅を新築し、家族で農業を続けていました。移転後は野菜作りのかたわら、被災した農地を市から借り受け、観光果樹園をつくる計画を進めています。ブルーベリーの畑で摘み取り体験をしたり、オリーブを植えて油を搾ったり、農作業の体験農園もつくるそうです。

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後継ぎの息子に負債を残したくないと、資金は自らの持ち出しと野菜の利益でやり繰りし、作業場を果実の加工場として改装する計画を立てたり、ピザ窯も置いていたりと、地区に再びにぎわいを取り戻す夢は膨らみます。

「後世に何かを残していきたいというか、可能性というか、そこをやはり示したいなと思っています。外から人が来て、その地域の人たちと密着する農業スタイルがあっていいんじゃないかなと思います。自然に溶け込むことが農業の原点かなと考えていて、70歳近くになって初めての挑戦だと思っています」

 果樹園が全て完成するまで、あと10年だそうです。男性の意欲はますます盛んでした。