未来への証言 航空大学校を襲った震災

今回はパイロットの菊池義人さんです。
菊池さんは、当時44歳。宮城県岩沼市にある航空大学校仙台分校の教官でした。
仙台空港で離着陸の訓練を行っていたさなか、
揺れを全く感じない空の上で、震災を体験しました。
聞き手は、NHKアナウンサーの松廣香織です。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

菊池)ちょうど滑走路に向かって、高度にして5~600メートくらいのところですね。
着陸をやり直してくださいという管制指示が来まして。
管制指示があったんで、着陸をせずにそのまま上昇に転じたと。
松廣)乗っている方からしたら、なんでだろうな?という・・・
菊池)そうですね、私とかもう1名乗っていた教官の方はそう思ったし、
学生、訓練生のほうはですね、管制官からの指示で実際に突然、
管制からの着陸やり直しは意外と少ないので、ちょっと一瞬面食らっていましたね。

菊池)着陸をやり直して、滑走路上高度を上げながら、登っていくときに、
仙台市内のほう、多分名取とかあの辺の方、煙が2筋3筋上がっているのが見えて。
仙台空港の滑走路ですね、東から西に上昇して行くと、
すぐ先に国道4号線があるんですけど、なんかおかしいなってよく見たら全く動いてない。
上り線も下り線も。これって見渡す限りの車が、
全部4号線止まってる感じって尋常じゃないですよね。

菊池)管制官からの2回目の指示で、空中で待機してくださいっていう
指示が入ったんですけど、そのときにガシャガシャガシャガシャ音がした気がして。
ひょっとしたら地震でものが揺れたり、一部崩れたりしてたのかなって、
そういった音が入った記憶があります。
そのときに管制塔からも、地震があった旨の通報があったと思います。

菊池)しばらく5分か10分待ってる間に、学校の無線の方から、
分校長指示で「仙台空港オープンを待たずに
機長の判断で他の空港に行ってください」と。

その後、菊池さんが向かったのは福島空港でした。
着陸後、空港にあったテレビには、航空大学校の様子が映りました。

菊池)ちょうど航空大学校の校舎、格納庫の方に波が入って行くのが
完全に映っていて、あぁっていう感じでみんな見ていましたね。
松廣)そのとき菊池さんもですけど学生さんとかどんな様子でしたか?
菊池)やっぱりあの、なんて言うんでしょうね。言葉はないですよね。
なんとも言いようがない。ただみんな共通してたのは、
私にしたら仲間であり教え子、それから学生同士であれば友人たちが、
その日天気悪かったのでみんな地上にいたんですよ。
ということは、ほとんど学校内にいるわけで。彼らが無事に避難できているか、
安全なところにいるかっていうのは不安で画面を見ていましたね。
不安かつ何言っていいかわかんない。
言葉も浮かばないような状況でテレビを見ていたという感じですね。

被災地では交通機関が寸断された上、食料やガソリンすら足りませんでした。
そのため、菊池さんはすぐ航空大学校に戻るより、後方支援に回るよう命じられ、
東京の自宅で津波で失った書類・データの復元作業にあたりました。
山形空港への臨時便が運行され、戻ってきたのは、
地震から3週間ほどたった後でした。

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松廣)被害の様子を見てどんな風に思いましたか?
菊池)まあ本当ね なんて言うんだろう・・・
報道番組で画面としてはもう三週間も経ってるから見てるんですよ。
見てるんですけど生で見ると。海上保安庁さんの大きな飛行機が流されてきて
かく座(車輪が壊れて動けなくなること)していると。
えっ、あの飛行機がこんなところまで流されてきて、
空港の敷地外のとこまで来ちゃったんだっていうのでびっくりしました。
やっぱり本格的にあぁってすごかったなって思わされたのは、
もう見るに堪えないかわいそうな状況になっちゃた飛行機が、
一応いる場所だけは正規の場所にポツンポツンと並んで置いてあるのを見て。
まあ悲しいやらねえ悔しいやらねえ。

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ただ同時に思ったのはそれを見て私ども航空大学校では
幸い学生と教職員本人に関しては、被害が、大きなけがとか含めてなかったもんで。
こんだけ被害を受けて教職員学生が助かったのは本当によかったなって思いましたね。