未来への証言 半年間の避難所暮らし

今回は、宮城県石巻市の高橋利政さんの証言です。
当時59歳だった高橋さんは市内の水産加工工場で働いていた時に震災にあいました。
屋上に避難して津波を逃れ、1日経ってから自宅に戻った時、
想像を超える被害を目の当たりにしました。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

高橋)道路とかそういう所は建物のがれきで、ぐるっと裏の方回って「なあに2階ぐらいあっぺな」と思って来たけども、土台だけ。本当に。コンクリの土台だけ残っててさ、「ああ~」と思ってがっかりしてさ。本当に何もねえんだ。着の身着のままで会社さ行ってたからね。
他の人たちは結構家族の人とか亡くなってさ、子どもとかね、可哀想だけっども声のかけようがねえんだもん。
俺の親戚でもおっかさん亡くなったりさ、兄弟亡くなったりする人たちもいたからね、本当にね、大変でした。
そのあとはですね、役場の隣に公民館があるんですけど、そこに死体を運んでね、タンカも何もないから、ドアの所に立てる戸、木で作った戸ね。
あいづをタンカ代わりにしてそっちさ載せて、みんなで公民館のとこさ運んで。
そういうふうにしてみんな亡くなった人たちを集めたんだね。

丹沢)そんなに沢山の亡くなった方にふれるって、多くの方がそんな経験はないじゃないですか?
高橋)ないないない。その光景見たらね。声出ないね。
ええ~こんなにって思うくらい一気に亡くなっているんだから、だからね。衝撃はあったね。

高橋さんはその後、近くの「渡波保育所」で、およそ半年間の避難所暮らしを経験しました。
はじめは食料も十分でなく、風呂は仮設。親しい人の死に深く傷ついた人も多い集団生活でしたが、そこには温かい心の交流もあったといいます。

高橋)みんなで協力して、やらなきゃねえっていう思いね。そしてあの高齢者の人たちが多かったから、ばんちゃんたちのためにんじゃああいづすっかとかね。やっぱりそういう面では団結してましたね。
みんなあとおっかさんたちも手分けして料理作ったりさ。あと風呂ね、たまたまうちでは古川さんって人が風呂作ってくれたから、うちら風呂たき誰がやれって言われたわけではねえけど私ら朝起きるの慣れてっから、3時か4時ごろ起きてね、風呂たいて、7時か7時半になったらおばあさんたち入る人入らんよって言って入らせて。
結構風呂あるとみなさん寄ってくっからね。やりがいもありましたよ。
やれば「いつもどうもねー」なんて喜ばれると、やっぱりやってていがったなーとかさ。
やっぱりそういう感じだったね。

丹沢)それがあるから避難所がいい雰囲気で回っていたんですかね。
高橋)そうだね。そしてみんな同じ思いしてんじゃない。うちでもこんなだったとか、私もこういうふうになったとかね、そういう思いをみな一緒に経験してきたから、話がスムーズに語り合えるっていうかね、できるわけですよね。
やっぱり家族とか何とか亡くした人はつらいと思うのね。だけっどもある程度時間置いてね、自分の心もある程度落ち着いて、ああ私だけではねえとか俺ばりこういうふうになったわけでねえとある程度あたりの状況見て、やっぱり分かって来るじゃない。だんだんね。
心が固くなっているのがだんだん柔くなってね、みんなと話したりすることによって紛れていくっつうかね、そういうこともあると思います。
とにかく渡波の保育所は和やかっつうかね、本当に。そう感じましたよ。私も。