【丹沢研二】未来への証言/名取市閖上 丹野祐子さん
丹野祐子(たんの・ゆうこ)さん(53) ※年齢や情報は取材時点
名取市閖上在住。震災で、閖上中学校の1年生だった息子の公太さんと夫の両親を亡くした。息子の「生きた証」を残したいと、亡くなった14人の生徒の親たちとともに閖上中学校遺族会を立ち上げ、震災翌年の3月11日に慰霊碑を建てた。その後、津波復興祈念資料館「閖上の記憶」の語り部として震災の記憶を伝え続けている。
(聞き手・構成:丹沢研二アナウンサー 令和4年1月10日取材)
海がこんなに近いという感覚がなかったんです
丹沢)3月11日、丹野さんはどんな状況でその時を迎えられたんですか?
丹野)当時私は、中学3年生で15歳の長女、それから13歳で中学校1年生の長男、2人の子どもを持つ母親として、スーパーのパートに出ながらごくごく当たり前の専業主婦としてこの閖上で生活をしていました。まさにあの日は旧閖上中学校の卒業式だったんです。
丹沢)卒業式当日だったんですね。
丹野)中学3年生の娘が卒業する主役でもありましたので、当日私は中学校の卒業式に参列をしていたんです。3年生の保護者の私たちと子どもたちは学校を出た後、場所を移動して公民館で謝恩会を開いていたんです。時計を見るともうすぐ3時だから、じゃあちょっと中締めをして、残る人は残ってお茶でも飲もうかと。そんな話をしていたときにガタガタガタっていう揺れが始まったんですね。立っていた人間はしゃがむのが精いっぱい。とにかくその場を動くことができないほどの大きな大きな横揺れをみなで経験して、でも私たち大人って何となく騒ぎになればなるほど落ち着かなきゃいけないって思うので、何の根拠もないのに「大丈夫だよ。大丈夫だよ」ってみんなで連呼していたんですよ。
当時私が持っていたガラケーも、緊急地震速報のピロロロンって音を初めて聞いたんですよ。あげくに画面に出てきた日本地図、太平洋側に赤いラインがビーッと引かれているのが見えて、「あっこれはもうとんでもないことが起きた。津波が来るかもしれない」って。でも、津波っていうものの経験が実は私たち全くなかったんですね。私たちが暮らす閖上は本当に海のすぐ近い所にある地域なんですが、何となくふだん海でご飯を食べていない私たち、震災前は住宅がびっちり連なるだけの普通の住宅街という感覚しか私にはなくて、海がこんなに近いという感覚が実は全くなかったんですね。
丹沢)そうなんですか。地図で見て近いことと生活の感覚は違うんですね。
丹野)まったく。同じ宮城県内に津波警報が出ているのは知っているけど、気仙沼とか南三陸町とか過去にも大きい津波の経験がある場所にはもしかしたら水が行くかもしれない。でも仙台市内や名取は「まあここは大丈夫だろう」と、勝手なことをみんな頭の中で考えてしまっていたんです。人間って本当に愚かで、過去に経験がないことを想像するっていうことができないんですよね。津波警報が出ているってさわいだ時も、口では「大変だ」って言いながらも、頭の中ではまあ床下浸水程度だろうなと。町がなくなるとか家が流されるっていう津波なんて、想像すらできなかったんですよ。「泳げばいいんじゃない」なんて、そんなふざけたことを口にできるくらい、津波っていうものはきれいな水がザブンって町の中に来るっていう感覚でしかなかったんですね。
ただ「1時間6分」が過ぎていった
丹野)実は津波が私たちの町を襲ったのは、地震から1時間6分後のことだったんですね。今冷静に考えれば、大事なものをまとめて車に飛び乗って海から離れるとか高い所に逃げるとか行動が出来ていれば、もしかしたら家屋敷は流されたとしても命を失うことはなかったはずなのに、あの時は「逃げよう」って頭が全く働かなかったんですよ。実は震災の1年前にチリで大きな地震が起きて「日本にも津波が来るかもしれない」って避難指示が出たことがあったんです。私が住んでいた場所は自宅待機組だったんですね。貞山運河っていう小さな川がこの町に流れているんですが、川から海沿いの地域の人は避難をするけど、内陸に近い人は避難をしなかった。そんな経験を1年前にしているというのもあって、私は家の近くにいれば安心。ましてや今まで謝恩会を開いていた公民館が避難場所になっていると信じていましたから、ここにいれば安心。近所の人がみんな集まって来て「危なかったね」「大丈夫だった?」「けがしてない?」って口々に言う。何か「一人じゃない」って安心するんですよね。まさに「赤信号みんなで渡れば怖くない」あの状況だったんですよ。
丹沢)じゃあずっと公民館に。
丹野)そうです。公民館のグラウンドに待機をしていました。一度自宅の様子を見に行きました。家の中はもうメチャメチャだったんです。テレビをつけて情報を知ろうとしたんですが、リモコンをピッと押しても映らなかった。「あっ、停電なんだ」ってそこで気が付いたんです。水道の蛇口をひねったんですが、水が出なかったんですよ。「あっ、水道もダメなんだ」ってその時に気が付いて、私は主婦ですから、最初に考えたのは「さあこれは困ったぞ。今晩のご飯をどうしよう」。避難先のグラウンドでも同級生のお母さん同士で「今晩どうする?」ってそんな話をしていたんです。
丹沢)その時は日常が続いていたんですね。
丹野)そうなんです。何とも思っていないんですよ。友達の家に遊びに行っていた息子がちょっと離れた所で男の子数人とサッカーボールを見つけてボール蹴って遊んでいたんですよ。娘はすぐ隣にいる。周りには近所の奥さん方や謝恩会に出ていた仲のいい友達同士がみんなで集まっているから、まあここにいれば安心だろうと。勝手な思い込みのまま時間だけが過ぎていった。今考えると「早く逃げろ」って声をかけてくれた方もいたんです。ただ、逆にその人たちのことを「大げさだな」って思っていたんですね。夫の両親の家がちょっと離れた所にあったので一度そこを見に行ったんですね。まもなく80歳になろうとしていた私の義理の父親が、「閖上さ津波なんか来ねえんだぞ。大丈夫だから」って、近所の人と立ち話をしていました。自分の住む町は安全であるって、そう思いたいんですよね。残念ながら両親の姿を見たのはあれが最後になってしまったんです。「何か上着着た方がいいよ」ってひと言だけ告げて、私は再び実家から公民館のグラウンドに戻って来てしまったんです。
そして真っ黒な津波が来た
丹野)誰かがね、「6メートルの津波警報が出てる」って言い出したんですよ。今なら6メートルっていう高さがどれほど恐ろしいものかはすぐ頭の中で想像できるんですが、あの当時は全く想像できなくて。逃げなくちゃいけないって多くの人が移動し始めたちょうどそのころに顔見知りの市会議員さんに声をかけられたんです。「大きい津波来るから早く逃げろー!」って真剣な顔で私に声をかけてくださったんです。
「あれ?」と思って何気に東の空を見たんです。そうすると私の目線の先に、家と家の間に黒い煙がもくもくもくもくっと湧き上がっていたのが見えたんですね。てっきり当時はその黒い煙が、「地震の後だから誰かの家から火が出たんだ」って思ったんですよ。すぐ隣にいた友達に「ちょっとちょっと大変!火事じゃない?!」って教えようとしたかしないか、その声に「津波だー!」っていう大きな声がかぶさってきたんです。グラウンドにいた私たちは、一斉にぱーっとちりぢりになったんですね。たまたま私はコンクリートの2階建て、ついさっきまで謝恩会を開いていたその場所に逃げ込むことができました。上までだーっと上がって、2階ではぁっと一息をついた時、足元に真っ黒な水が流れてきたんです。墨汁をたらしたような真っ黒で油がギラギラ浮いてて、ザラザラでベタベタで、何とも言い表すことが出来ない真っ黒な水でした。津波っていうのは海の水だから、透明なのか青なのか、きれいな水が町の中をザブンって来るんだろうなって思ってたんです。これは何事だと思いあわててベランダに駆け寄ったとき、2階の私の目線の先に船が流れていくんですよ。家の2階部分が壊れながら流れていきました。ありとあらゆるものが海の方から内陸に向けてぜんぶ流れていく所だったんです。最大高さ9メートルの津波がこの閖上地区を襲って町はたった3分で壊滅状態になりました。私がさっき見た黒い砂煙っていうのは、火事の煙ではなくて、津波によって家と家がドミノのように押しつぶされていったときの砂ぼこりだったんだそうです。
建物に登るとき一瞬だけ、さっきまでボールを蹴って遊んでいた息子がいる方をちょっと見たんです。「公太―!」って大きな声で叫びました。でも私が一瞬ふり返った時に、もう息子の姿はそこにはなかったんですね。たぶん私の声も届いてはいないと思います。あとで聞かされましたが、私が逃げた方角ではない反対の、閖上中学校方面に走ったっていう目撃情報を最後に、2週間後、瓦礫の中から息子は発見されました。おじいちゃんとおばあちゃんも残念ながら瓦礫の中から発見されました。
息子が「生きた証」を残したい
丹野)避難所にお世話になって、そのあと仮設住宅が出来ましたとお知らせをいただいて、震災から3か月経ったあとでは私たちも日常を取り戻すことができました。主人は仙台市内に務めに出ていたので、震災前と今と変わりのない生活ができています。娘は希望する高校に合格が出来て女子高生をスタートしました。私だけ時が止まってしまって前に進むことができなくなってしまいました。なんで母親である私だけが生きていて、たった13年しか生きることができなかった息子の命が失われなければならなかったのか、考えると本当に悔しくて。間違いなくさっきまでいたはずだった子どもたちが最初からいなかったように前に進むってことだけは私はどうしても出来なかったんですね。
仮設住宅には全国からボランティアさんが私たちを励ましに来てくださって、「きょうはおいしいお菓子があるから一緒に食べましょう」とか「楽しい映画があるからみんなで笑いましょうよ」って声をかけていただくことが多々ありました。でも10年前の私は、おいしいものをおいしいって思えることも、楽しいものを笑うっていうその感覚も全くなくなっていて、ただ息子の仏前でメソメソ泣いているだけだったんですね。「お母さんが泣いていると息子は成仏できないよ」って私を励ますために言って下さる方もいて、「笑うことなんて出来ないのに泣くことがだめなら、じゃあ私はどうやってこの先生きていけばいいんだろう」って考えてしまうようになりました。
家が全部流されるっていうことは息子との思い出もすべて瓦礫になってしまうってことで、母子手帳もへその緒も息子の写真もビデオも何にも手元に残っていなかったんですよ。私に丹野公太っていう息子が生きていたということを証拠として残すものが本当に何にもなくて、とっても悲しくなったんですよ。「だったら自分で作ればいいんじゃないか」って考えるようになって、1人で勝手に息子の慰霊碑を作りたいと思ったんです。私一人ではどうすることもできずにNPO法人「地球のステージ」という団体の力をお借りして、まずは閖上中学校の遺族会を立ち上げる。そしてその中で私の思いに賛同してくださるお父さんやお母さんと一緒に14人の亡くなった子どもたちの慰霊碑を作るってことが決まったのが2011年の11月のことでした。2012年の3月11日、ちょうど震災の翌年、14人の子どもたちの名前を刻んだ慰霊碑の除幕式をすることができました。慰霊碑を作ったことで、集まる場所が必要だと「閖上の記憶」というプレハブが出来、そこであの日を語るという活動がスタートしたんです。
津波で犠牲になった14人の子どもたちの名前が刻まれた慰霊碑。
はじめ旧閖上中学校の敷地内に建てられ、のちに別の場所に建てられた閖上小中学校に移された。
名取市閖上の津波復興祈念資料館「閖上の記憶」
慰霊碑を守り、震災の記憶を伝える場所になっている。
変わらないこと、変わったこと
丹沢)震災からまもなく11年が経とうとしていますが、丹野さんの中で変わっていないものは…。
丹野)息子との思い出は何も変わっていないんですよ。寅年なんです息子は。だから生きていれば24になります。ことし年男です。でも私の中では13歳で止まったままなので、大人になった姿ではなく、13歳当時で頭の中は止まっていますし、子どもへの思いはあの当時のまま何も変わることはないです。なので今でも仏壇にはフライドポテトとかハンバーグとか当時の子どもが好きそうだったものばかりを供えています。
丹沢)少年ジャンプも買っていらっしゃると聞きました。
丹野)そうです。きょう月曜日なんで午後からジャンプを買うために本屋に行きます。毎週月曜日はジャンプを買うのをすごい楽しみにしていて、ただ当時の私は「勉強しなさい」とか「宿題しなさい」とか口うるさいことばっかり言っていて、息子が何を楽しみに読んでいたのかとか全く理解してあげられてなかったんですが、避難所で息子の同級生が1冊のジャンプを回し読みしているのを見て、「ああ、うちの息子も多分続きが気になっているんだろうな」と思うと、空いてるコンビニ探してジャンプを1冊また1冊と買い続ける。それが今の私にできる唯一の供養になりました。1年で50冊溜まるからもう500冊あります。床が抜けそうです。
丹野さんの家の「ジャンプ部屋」
丹沢)その積み重なっていくものが重ねていく年月そのものですよね。
丹野)ですよね。息子は13年しか生きられなかったのに、いなくなって今11年目。この時間が逆転した時に、果たして私たちの心が逆転の時間についていけるかどうかが、これからの私たちが生きていく課題の一つだと思います。
丹沢)逆に11年経ったことで丹野さんの中で変わってきたことはありますか?
丹野)直後は息子の話をするたびに泣くだけで前へ進めなかったんです。でも泣きながら話をすればするほど、聞いてくださるみなさんには「可哀想なお母さん」っていう印象しか残らない。でも本当につらいのは亡くなった息子だし私は今生きているわけだから泣くわけにはいかない。泣いて話をしても相手には何も伝わらないということはこの10年でよく分かったので、何があってもまずは生きなくてはいけないんだよという、命の大切さを、子どもたちが教えてくれた一番大事なものは命であるということを泣かずに伝えていきたいと思うようになりました。
後悔し続けながら生きていこうと決めた
「閖上の記憶」の前に置かれた、かつて閖上中学校にあった机。
丹野さんの思いがつづられている。
丹野)私は当時を語るということでこの10年を歩いてくることができたような気がするんです。語れる人間から順番であの日を語ることが、もしかしたら次につながるんじゃないかなと。本当だったら私たちは10年前に他の地域をもっと学ぶべきだったんです。たとえばもう27年も前になる阪神淡路大震災。地震の時はどうすればいいのか。家族がバラバラになった時はどう対応すればいいのか。ちゃんと学んでおけば、もしかしたらもっと助かる命もあったのではないか。私たちはあまりに知らな過ぎた。他を見ようとしなかった。そのことにとても今後悔をしています。なので私たちの経験が、「東日本の時はこんな過ちがあったから次また同じことが起きそうな時はこうなってはだめだよ」とか「こんなものが役に立ったよ」という経験が次の世代にもしつながるのであれば、あの日を語る意味になるんじゃないかなと今はそう考えています。
丹沢)記憶と向き合うことってしんどくないですか?
丹野)いや、しんどいですよ。今の私が生かされているのは、あの日の後悔が後押ししてくれているからであって、あの日と向き合ったからこそ、あの日を後悔し続けながら生きていこうって決めたんです。
たぶん逆にすんなり受け入れたら、もしかしたら今私はこの世に生きていなかったかもしれないです。だってね、親である私が「早く逃げろ」ってさえ、そうひと言さえ告げていれば、息子は命を失うことはなかったはずなんです。助けてやれなかった後悔がいま私を動かしています。
ただね、私も娘とか若い世代の人たちに「あの日と向き合いながら生きていきなさい」とはやはり言えないです。もうね、忘れてほしいです。本当につらかった記憶、悲しかった記憶は忘れて、自分の人生は楽しく生きていてほしい。ただほんのちょっとでいいから、あの日自分が受けた苦しみや悲しみはもう二度と繰り返さぬように、その思いをほんのちょっとだけポケットに入れて、あとは忘れて生きていてほしいってそう考えるんです。なので「全員が全員向き合いなさい」とか「語ってほしい」なんてことは言いません。語りたくなった人に語ってもらう。その場所がここ(「閖上の記憶」)にあるから。しゃべりたい人は来てくださいねって。そんな場所であり続けたいです。何となく過去は全部なかったことにしてきれいさっぱりゼロスタートで今があるような、そんな勘違いをしてしまうことも時々あるので、そうじゃないんだよって。過去があるから今があるんだよっていう風に私もこれから伝えていきたいです。