【丹沢研二】震災証言インタビュー/気仙沼市 菅原文子(すがわら・ふみこ)さん

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菅原文子さん(72) ※年齢や情報は取材時点
気仙沼市で酒屋を営む。東日本大震災の津波で夫と義理の両親の3人を失い、店も全壊した。
震災の1ヶ月半後には2人の息子とともにプレハブの店で営業を再開した。自ら書いた酒のラベル「負げねぇぞ気仙沼」は、復興へ向かう町の心を表すものとして全国に知られるようになる。
(聞き手・構成:丹沢研二アナウンサー 令和3年8月3日取材)

あっという間に主人が波にのまれたんです
丹沢)2011年3月11日。地震、津波が起きた時はどんな状況だったのでしょう?

菅原)これまで体験したことのないような大きな揺れでしたので、ただ事でないっていうのは分かりました。主人も息子たちもみんな店にいたんですけど、「津波が来るかもしれないから車を避難させろ」と、息子たちが車を持って店を離れたんですね。主人が近くにいる一人暮らしのおばちゃんを見てくると言って店を離れまして。私は、いつも津波警報が出ると隣の千葉さんという方が避難してくるので、2階の茶の間にじいちゃんとばあちゃんと私と千葉さんと4人でいたんです。そのうちご近所のみなさんが避難しましてね、「奥さん避難しないの?俺たち行ってっからね」って。みなさん明るかったですよ。多分すぐ戻れるって、そういう雰囲気でしたね。商店街のみなさんも誰もいなくなって、シーンと静まり返ったときにたまらなく不安になりましたよね。
主人が帰ってくるのが2階の窓から見えたので、「お父さん早く早く!」って言って声をかけたんですけども、何か胸騒ぎがしまして、立ち上がってみたら商店街にすーっと黒い波が入ってくるのが見えた。「じいちゃん、あれ津波かなあ」って言って、じいちゃんも「何?」って立ち上がったんですけど、私はすぐ主人を迎えに、わが家は2階玄関なので倉庫に降りたんですけど、階段の下から5段目ぐらいで私が階段の手すりをつかまえて「お父さーん!」って叫んだら、主人が手提げ金庫を持って倉庫から出てきたんですけど、あっという間に水位が上がりましてね、主人がその水をかき分けるように私のもとに来て、手を伸ばしたんですね。私が「早く早く!」って手を伸ばして主人の手とふれた瞬間に、ものすごい波が、私の背後とか倉庫の入り口から入ってきて、あっという間に主人が波にのまれたんですね。

丹沢)手はふれていたんですね。

菅原)間違いなくふれたと思います。その波にのまれた瞬間の映像は私の頭の中にずっとこびりついているんですけど、主人があっという間にいなくなったので、私も腰から波をかぶったんだけれども、すぐ私は階段を駆け上がって玄関の戸を閉めたら、波がこうバシャバシャっと上がってくるのが見えたんですね。すぐ「じいちゃん、ばあちゃん、屋根の上だよ!」って叫んで私はそのまま物干し台に続く階段を駆け上がった。その階段に続くドアを開けた時に、「じいちゃん!」って言って私が振り向いたら、じいちゃんが「早く行け!早く行け!」って言っている姿が見えた。それは私に言ったんじゃなくて、じいちゃんの前にペタンと座っているであろうばあちゃんに言った言葉だった。私はそのまま千葉さんと一緒に物干し台に駆け上がったんですけど、物干し台のドアを開けた時に、土煙を上げた大きな津波が、漁船を巻き込んでどんどんどんどん来て。多分私はその瞬間におかしくなったというか、何も感じないというか、何が起きたかわからない。

 

なんてきれいな星空なんだろうと思った
菅原)物干し台にあったビール枠とか酒枠とかを重ねて屋根によじのぼって二人で屋根にすがっていたんですけど、そのうち雪が降ってきてね、雪だるまみたいになっちゃいましたよ。ゴミ袋をかぶったりして二人で夜を迎えたんですけど、夜になったら気仙沼湾が炎上しましたよね。

丹沢)それも見ていたわけですね。

菅原)鹿折の町も燃えたんですよ。ものすごい炎で、時折プロパンガスが爆発したであろうものすごい爆発音がして、でも星空がものすごくきれいで。二人でただ黙って屋根の上にいた記憶がありますよね。

丹沢)その時に「星がきれいだ」と思うぐらい静かな気持ちで?

菅原)妙に冷静だったんですよ。なんてきれいな星空なんだろうと思ったのは本当に覚えている。涙も流れず、白々と明るくなった時に、町がなくなっているっていうか、電信柱がひっくり返り、大きな船がひっくり返り、遠くでは火事の煙があがっていたり、何が何だか分からないというか。
そのうち「おふくろー」って呼ぶ声が聞こえてね。じっと見たら息子だったんですよ。息子2人がビール枠をこうやって振っている姿が見えて、そのとき涙がどっと溢れてね、「ああ息子が生きてる。生きていける」って思った。
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震災直後、全壊した酒店(気仙沼市本浜町)

 

義父母は亡くなり、夫は行方不明に
菅原)午後、次男が物干し場に上がってきて、「親父は?じいちゃんは、ばあちゃんは?」って言って、「わかんない」って。「じいちゃんはいたよそこに。多分ばあちゃんもいたかもしれない」
息子が「きょうはもう無理だからまた明日助けに来る」って言ったけど、でも千葉さんと二人で「出よう」って。息子の後を追いかけて脱出したんです。長男のお嫁さんの実家がちょうど鹿折川の上流の方にあったので、着の身着のまま1か月ちょっとお世話になりました。
じいちゃんとばあちゃんは遺体安置所で確認して、主人は行方不明になってしまって、あの瓦礫の山の中に朽ち果てているのかと思うと、本当に張り裂けそうでしたね。でもたちまちにボランティアの人とか沢山の人が押し寄せて、何が何だか分からないうちに、色んな渦の中に巻き込まれたみたいになってしまったんだけど。

 

瓦礫が残る町での営業再開
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震災から1か月半後、菅原さんたちは無事だった酒瓶を洗い、仮設の店舗で営業を始めた。

菅原)自分たちがどう生きていけばいいんだろうって言った時に、息子たちがやっぱりやろうと。一人でもお酒を売ってくれという人がいるんだから、やろうよって。太田という所でバラックのような所で商いを始めたんです。
震災の年のゴールデンウィークの時ですよ。みなし仮設に入ってね、悔しくてみじめでね、情けなくて、息子と二人で本当に「負げねぇぞ」だよなって。「負げねぇぞ」って書いたんですよ。私は震災のだいぶ前から自己流なんだけど赤ちゃんの名前とか新郎新婦の名前とか書いてそれをお酒のラベルにしてやってたんだけど。あの「負げねぇぞ」は本当にどうしようもない気持ちで書いた字だったんです。
それをたまたま通りかかった報道カメラマンの方がとらえてくれて、全国放送になってあっという間に広まったんですね。
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菅原さんが自ら書いたラベル「負げねぇぞ気仙沼」は全国から注目される。

 

行方不明だった夫が見つかる
菅原)そしてうちの主人も1年3か月後に全身遺体で発見されたんですけどね。

丹沢)1年3か月も経っていたら全身遺体で見つかること自体が…。

菅原)奇跡だと言われました。それは古いアパートだったんですよ。たぶん私の手から離れていって、その大きな波のまんまそこにスポッと入ったんだろうなと。その主人の上にね、何枚も畳が重なっていたんですよ。畳がご主人を守ったんだよって言って下さる方がいてね、本当に衣類も立派で、私が確認の時に一目見て「あっお父さんだ」って分かる。ウエストポーチに免許証やら携帯やら、孫とかお嫁さんが「あっ!じいじだ!じいじだ!」って言うぐらいちゃんとした衣類でした。
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夫・菅原豊和さん

悲しみがあるから生きてこられた
菅原)この10年、本当に必死になってやってきたんだけれども、亡くなった3人がいつも私の中にあって、いつも私を迷わず歩めるように守ってくれていたような。悲しみがあるから自分は生きてこれたというか。それが私自身の生きる力でもあったし、震災前、じいちゃんばあちゃん息子夫婦、孫たち、4世代家族だったけど、ああなんて幸せな時だったろうと思うしね。日常の一コマ一コマ、ばあちゃんが私を呼んだ声とか、じいちゃんが私に何か語りかけたこととか、主人の返事ともつかないような何ともつかないような「おう」みたいな。そういう何気ないことがなんてあの時幸せだったんだろうと思うような。それは私の体の中、頭の中、胸の中に沢山あって、姿はないけれどもともに生きてきたなと。私たち家族は、事あるごとに「親父これ好きだったよな」とか、鰹が出ると「じいちゃんすごいあら汁が好きでね」とか、そういうことがいつも暮らしの中にあって、ともに生きているというかともに暮らしているというか、だから決して悲しみだったりそういうことを愚痴るとか誰かを恨むとか、そういうことは私たち家族は考えていない。あの震災の時だって、まさかあんなことになるとは誰も思っていなかったしね。明日のことは分からないけど今を精一杯生きるというか、こうやって生かされてきて本当に有難いことで。

丹沢)悲しみがあるから生きてこられたとおっしゃったんですが、悲しみが生きる力を奪うこともあると思います。菅原さんはなぜそれが生きる力につながったんですか?

菅原)にぎやかで幸せな日常を奪った震災で、もうどん底に突き落とされてどうしていいか分からない。深い深いどうしようもない絶望ですよね。でもその絶望の中から、亡くなった3人に対する愛情というか感謝というか、じいちゃん見てて、絶対負けてなるものかと思ったしね、私はあの悲しみがあったから「なにくそ」と思って、それを力にしました。

 

コロナ禍で気づいたこと
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2016年末 菅原さんたちは元の店に近い新浜町に酒店を再建した。

菅原)こんなどん底だったけど沢山の人が励ましてくれてね、ここからまた新たな歴史だなと思っていた矢先に今度はコロナがあって、また色んなことを思ったりしていた時に、私はいつも「お店を再建するんだ」「看板を上げるんだ」ということばっかりで、じいちゃんとばあちゃんとお父さんと、あの楽しかった日々を思ってその悲しみの中に泣きながら誰かと語りたかった、そういう思いがあったんだけど、それをいつもどこかに閉じ込めて、頑張らなくちゃ、やらなくちゃって突き進んできた自分に気が付いた。あるときふっとね、「何であの時じいちゃんとばあちゃんのそばに行かなかったのかな」とか「お父さんごめんね」とか色んな思いがあったんだけど、そんな思いがこみ上げて来てね、
何か私の心の中の何か弱い部分が泣きたいというか悲しみに浸りたいというか、悲しまなかった自分がすごくね、「何だい。さっぱり俺たちいなくなったのに泣きもしないのかよ」って言われているような気がしてね。こうやって、地元に帰ってきて店作って、昔からある思いをつないでいるから、それでいいんだよねって思ってみたり。まあ10年、長かったよね。
一生悲しみにあわずに生きる人なんていないしね。みんな明日何があるか分からないから、生かされている今を一生懸命生きるしかないしね。
そしていま私が頑張ることは次の世代がきっと見てると。よくね、私が子どもの時に「世の中が見てんだ」って言葉を田舎で言ってたんです。「神様が見てる」とか「仏様が見てるから悪いことしちゃだめだ」とか、子どもの時よく言ったけど、どこの誰だか分からないけど頑張っていればきっと手を差し伸べて、世の中の人が見てる。だから「絶対こうなる」「なりたい」って口に出しているとそっちに導かれるっていうね。だからあんまり後ろ見ないで前だけ見て来ました。コロナでちょっと後ろ振り向いたけど。