2018年05月17日 (木)それぞれの「火垂る」


※2018年4月20日にNHK News Up に掲載されました。

4月に亡くなった高畑勲さんが監督したアニメ映画「火垂るの墓」。公開から30年経った今そのポスターが、インターネットで話題になっています。そもそも「火垂る」の意味とは、そして取材を進めると、人々の記憶にそれぞれの「火垂る」があることがわかってきました。

ネットワーク報道部記者 管野彰彦・伊賀亮人
岡山放送局アナウンサー ホルコムジャック和馬

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<ポスターに隠された意味?>
昭和63年に公開されたアニメ映画「火垂るの墓」は、野坂昭如さんの小説を原作に制作されました。

空襲で親を失った14歳の兄と4歳の妹が、2人だけで生き抜こうとするものの、力尽きていく過酷な運命が描かれていて、ポスターでは夜空に飛び交う蛍を眺める妹の笑顔と見守る兄の優しげな表情が心に響きます。

sor180420.2.jpgこのポスターは、スタジオジブリの歴史を振り返る巡回展の一環として4月からは兵庫県立美術館で展示されていますが、インターネットには、「よく見ると上の方にB29が映っている」とか、「実は蛍だと思っていたのは焼夷弾だった」といった指摘が相次ぎました。

sor180420.3.jpgポスターをよく見てみると、確かに上空に爆撃機のような陰影が見えます。また“蛍の光”も、丸いものと紡すい形の2種類が明確に描き分けられていることがわかります。

「ポスターには隠された意味があった」
「知らなかったので身震いがした」
「涙が出てきた」

ネット上にはこうした感想が寄せられています。でも実際に制作にあたった人たちに確かめた記述はありません。そこでこの映画の製作会社で取材の窓口にもなっている新潮社にたずねました。


<担当者語る ポスターの意味>
紹介してもらったのが村瀬拓男さん(55)。現在は新潮社を退職していますが、当時、スタジオジブリと連携して映画製作にあたりました。

村瀬さんに早速、確認すると、上空に描かれているのは「B29爆撃機」だと言います。ポスターを見た人は兄妹や光に目を奪われるため見過ごしてしまうのかも知れません。

では、2種類の光の正体は何なのでしょうか?村瀬さんの記憶では焼夷弾が描かれているといいます。ネット上の指摘どおりでした。


<そもそも隠していない>
ただ村瀬さんは、「ポスターに隠された意味」のようなものはなく、最初から「兄妹」「蛍」「空襲」の3つの要素を取り入れて作られたと言います。

ポスターの原画には「B29爆撃機」がもっとはっきりと描かれているそうですが、印刷すると黒の濃淡が出にくかったのだと言います。

焼夷弾についてもむしろ、「すべてが蛍の光ととられていたことは意外でした」と驚いているようでした。

村瀬さんはもう1つ、重要なことを教えてくれました。ポスターの基本的なデザインを担当したのは映画の監督をつとめ、先日、亡くなった高畑勲さんで、9歳の時、岡山で経験した空襲の様子が色濃く反映されているというのです。

sor180420.4.jpg高畑勲さん


<監督が見た「火垂る」>
高畑監督は実際にどんな光景を見たのでしょうか?

私たちは、岡山空襲を体験し今も健在な女性に話を聞くことにしました。高畑監督より6歳年上の額田昭子さん(88)です。

sor180420.5.jpg額田昭子さん
当時15歳で女学校の生徒だった額田さんは、昭和20年6月29日、市街地から離れた訓練所で合宿していた時に空襲を体験しました。

「蛍のようかは分かりませんが、赤い火がゆらめきながら落ちてきました」

額田さんは焼夷弾が投下された様子をこう話します。子どものころから絵を学んでいた額田さんは、市内に残っていた家族の心配をしながら、手持ちのスケッチ帳に燃える街を必死になって描き上げたそうです。

sor180420.6.jpg額田さんの描いた絵
岡山空襲では市街地の6割以上が焼失し、1700人以上が犠牲になったとされています。

これが、高畑監督が見た「火垂る」。生前、「人生の中でいちばん大きな出来事」だと語っていました。


<焼夷弾 食い違う証言>
ただ、燃えながら落ちてきたという焼夷弾についての目撃証言は必ずしも一致していません。写真は当時、アメリカ軍が使用していた2種類の焼夷弾ですが、いずれも金属の筒に油脂が詰められていて地面や住宅に落ちた衝撃で爆発を起こして燃え広がる仕組みです。

sor180420.7.jpg写真提供 岡山空襲展示室
岡山空襲展示室の学芸員によりますと、構造上は落下中に火がつくものではないということです。火がついていなかったという人もいれば、線香花火のようだったという証言もあり、見え方はさまざまだったようです。


<原作者が見た火垂る>
そこで、改めて映画の原作者野坂昭如さんの小説を読み返してみました。すると兄・清太のセリフにこんな一文がありました。

「そや、三月十七日の夜の空襲の時みた高射機関砲の曳光弾は、蛍みたいにふわっと空に吸われていって、あれで当たるのやろか」(野坂昭如「火垂るの墓」新潮文庫より)
曳光弾とは、上空に飛来した爆撃機を打ち落とすために発射する高射砲の弾の一種です。夜空のどの方向に向かって飛んでいるのかわかるよう、弾丸の底が光るようにしたものです。

その光景は原作者の野坂さんも目撃していたとみられます。終戦の年の3月から6月までの3度にわたる空襲などで8000人以上が亡くなったとされている神戸大空襲です。

ある市民の記録では、空襲で昼のように明るくなった町に降り注ぐ焼夷弾と打ち上げられる曳光弾が交錯する様子を「見とれるばかりの美しさ」と表現しています。

その異様な美しさの中であまりにも多くの人たちが犠牲になった空襲の様子を、野坂さんは「火垂る」と表現したのでしょうか。

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<薄れる記憶と伝える大切さ>
ポスターについての取材を進めると、私たちが「空襲」と表現する戦争被害は体験した人それぞれが違う光景を記憶していることがわかってきました。でも、そこに横たわる恐怖や深い悲しみ、そして怒りは共通しています。

焼夷弾が降り注ぐ「岡山空襲」の様子を描いた額田さんは、多くの命を奪い家族が大変な思いで逃げた空襲について思い出すことがつらいと、長年、絵のことを忘れていました。それが戦後40年たったころ、新聞記者だった父から「重要な記録だから大事にしなさい」と教えられたそうです。

取材を進める中で浮き彫りになったそれぞれの「火垂る」の記憶。今に生きる私たちがそれをどう伝えていくのか、1枚のポスターはそう問いかけているように思えてなりません。

投稿者:管野彰彦 | 投稿時間:14時31分

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