2011年08月23日 (火)津波から生き延びる 釜石東中学校の報告


東日本大震災の教訓を考えようというシンポジウムが東京都内で開かれ、津波から避難して、学校にいた生徒全員が助かった岩手県釜石市の中学生が、当時の体験を報告しました。

このシンポジウムは、災害からどのようにして生き延びるかをテーマに内閣府などが開き、震災当時、学校にいた200人余りの生徒が高台に避難して無事だった、岩手県釜石市の釜石東中学校の生徒が体験を報告しました。
(このブログ記事の末尾に、ある生徒の講演概要を掲載しています)

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このうち、2年の男子生徒は、震災前から、自分の命を自分で守ることを目標に、学校で防災学習に力を入れてきたこと、近くの小学校と合同で行った津波の避難訓練では、形式的に行うのではなく、絶対に生き抜くと思って真剣な気持ちで取り組んできたと報告しました。

20110832012.jpgまた、3年の女子生徒は、最初に着いた避難場所で、お年寄りから、崖崩れがあるので逃げるように言われて高台を目指したものの、次の避難場所でも危険を感じ、とっさにさらに高台へと逃げ、一度も後ろを振り返らなかったことなど、当時の状況を語りました。

そして、別の女子生徒は「あのとき、お年寄りのアドバイスがなければ、生き延びることはできなかったと思う。自分自身もこの体験を語り継いでいきたい」と話していました。

20110832017.jpg会場で講演を聞いていた東京の小学生は「日頃の訓練を真剣に行うことが大事だと思いました。家族で地震があった場合の行動などを話したいと思います」と話していました。

【以下は、3年生の講演の概要です】

備えはしても、決して迎えたくはなかったあの日。3月11日午後2時46分。私たちは、放課後の部活動練習のために、それぞれが準備をしていました。信じられないくらいの揺れを感じ、机の下にもぐったり、校庭付近でしゃがんだり、頭を押さえ、じっと耐えていました。鳴りやまない地鳴り、止まらない揺れ、校舎がこのまま倒壊するのではないかというぐらい、激しい揺れが長く続きました。

揺れが収まり、先生方が、早く校舎から出なさいと叫んでいました。避難訓練のとおり校庭に行くと、皆が集まってきていました。そして、そこで聞こえた指示は、「点呼はいいから、すぐに『ございしょの里』に走りなさい」ということでした。

私たちは、いつも避難訓練で走ってきた避難路を必死で走りました。ございしょの里まで500メートル。訓練のときよりも足が重く、進まない気がしました。それだけ怖かったのです。震えて息も速くなりました。それでも、なんとかございしょの里にたどり着きました。いつものとおり、避難訓練どおりしていれば大丈夫と、心で唱えながら素早く整列点呼をしました。少しして、小学生がやって来て、私たちの隣に整列しました。ございしょの里に着いても余震が収まらず、ずっと揺れていました。ございしょの里の隣の崖が崩れてきました。自分たちが整列点呼をして数分後、校長先生が次のように話しました。「ここは崖崩れがあるかもしれないから危険です。もっと高いところへ避難します。『やまざきデイケア』まで行くので、皆さん立ってください」。私たちも小学生もすっと立ち、さらに上のやまざきデイケアに避難しました。
小学生が一緒になったので、この前の訓練のように小学生の手を引きながら、やまざきデイケアを目指しました。小学生に、大丈夫だよ、大丈夫だからね、と気持ちを落ち着けながら話しかけました。小学生を守らなくちゃ、私たちがしっかりしなくちゃ、泣きそうなぐらい怖い気持ちを奮い立たせました。 

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私たちがあとにしたございしょの里は、このあとに来る津波に完全にのまれました。もし、私たちがあのまま待機していたら、私たちも流されていました。あとから聞いたのですが、崖が崩れて危ないから、もっと上に避難したほうがいいとアドバイスしてくれたのは、近くに住むおばあさんだったそうです。

やまざきデイケアまで全員がたどり着くか着かないかで、整列がまだままならないそのときです。建物の裏手のほうから、「ごごー」という大きな音が聞こえてきました。すぐに分かりました。津波が来た、大人たちが叫びました。津波が来たぞ、逃げろーと。津波の押し寄せてくる恐ろしい音と叫び声が混じり合い、その中をさらにさらに上の道路に向けて無我夢中で走りました。このときのことはもうほとんど覚えていません。ただ、何も考えずただ上へ向かって走りました。後ろは一度も振り返りませんでしたが、恐ろしい波の音が迫っているのは感じていました。

私たちは、もうこれ以上、上は、山しかないという国道まで走りました。大丈夫。ここまでは来ないぞ、誰の声とも分からない声が耳に入ってきて、道路の真ん中であるにもかかわらず、その場にしゃがみこみこんでしまいました。山に向かっている人がいます。まるで現実ではないような、映画のような風景が目の前に広がっていました。
でも、これは逃れられない現実で、私たちは、その現実を生き延びたのです。

20110832015.jpg過去の浸水区域として想定されていた範囲を、はるかに超えていました。私たちの町は流され、多くのものを失いました。見慣れた町の姿はなく、見渡すかぎり、泥とがれきで覆われていました。また、気づいたのは音がないことでした。町の息づかいが聞こえなくなって、そこに、ただの風と波の音だけが響いていました。

私たちの学校では、家が流されたり、浸水したりした家庭が68%、約7割の生徒が、住むところを無くしました。3人に2人が家を無くしたのです。通っていた中学校も、完全に海の中に沈みました。先生方の車も流されたそうです。海の水はしばらく引かず、その後、近づくことはできなかったそうです。数日たって水が引いてから、先生方が学校の中で撮った写真です。教室を仕切る壁はすべてはぎ取られ、天井の鉄骨が折れ曲がり、真ん中の写真では車が教室に突っ込んでいます。海から来た泥が、校舎すべてを覆っていたそうです。
私たちは帰る家も、通う学校も、何もかも失ってしまったのです。大津波のあった3月11日から、私たちは、旧釜石第一中学校体育館、中学校、避難所の体育館、親戚の家、そして仮設住宅と転々とすみかを変えてきました。

気持ちが苦しくなったり、体が疲れることが何度もありましたが、それでもここまで生きてこられたのは、全国、そして、全世界からのたくさんの支援があったからです。たくさんの支援を頂きながら思うことは、感謝、そして支援に応えたいという思いです。ありがとうという気持ちとともに、助けていただいた私たちだから、できることを実行していくこと、それが、私たちの経験したことを、広く、深く伝えていくことだと考えています。たくさんの人たちが、いろんな形で私たちを支えてくれました。ここでは紹介しきれないほど、たくさんの支援です。一生懸命励ましてくれる人がいる、一緒に泣いてくれる人がいる、肩を叩いて笑ってくれる人がいる、私たちは孤独じゃない、日々、そう痛感しています。

投稿者:伊達裕子 | 投稿時間:06時00分

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