縄文時代、青銅(せいどう)や鉄といった金属はまだ作れなかったため、木を削るときに石を使っていました。削った跡を調べれば、削る場所によって斧のサイズを変えているかといったことがわかるかもしれません。
縄文人は木の性質をよく知っていて、どの部分をどう使うべきなのかをよく考えていたようです。
なぜムクノキ?
ムクノキはかたくてねばり、割れにくい性質があるため丸木舟に向いています。ただし、縄文人はムクノキ以外の木も丸木舟によく使っていました。そのことから、木の素材にこだわることはなかった考えられます。樹種(じゅしゅ)だけでなく、運びやすさなども考えて、舟にする木を選んだのかもしれません。
かたちから考える使われた場所
若狭三方縄文博物館蔵
写真下:縄文丸木舟
船首を反り上げ、舷(げん 舟の横の部分)を高くしてあるので、波のある海で使われたと考えられます。池や湖のそばで見つかった丸木舟はサーフボードのようにひらべったいものが多いです。池や湖は大きな波がないので、そのようなかたちにしてあると考えられます。
石でどうやって切った?
実験協力:東京都立大学 山田昌久 特任教授
縄文時代と同じ石の斧(おの)で木を切る実験です。石と石をぶつけて割ってかたちを整え、一端をていねいに磨(みが)くことで石の刃(は)を作ります。それを加工した木の棒(ぼう)にくくりつけて石の斧にします。
石の斧は、刃が太いため少しずつ削(けず)りながら切り倒(たお)していきます。石の斧は金属に比べて切れ味は劣(おと)りますが、根気よく作業すれば大きな木も切り倒せます。
木を切り倒したら、舟の形にするために削(けず)っていきます。木を切り倒す石斧は柄(え)と刃が同じ向きで縦斧(たておの)と呼ばれます。こちらの斧は横斧(よこおの)あるいは手斧(ちょうな)と呼ばれ、農具のくわのように持ち手と刃が直角にまじわります。丸木舟を作るためには、上から手斧を振り下ろして木の繊維(せんい)をえぐるように削っていきます。
なぜ重さが変わる?
木の生えている場所によって、成長のスピードが異(こと)なるためです。太陽がよく当たる場所はよく成長するのに、影(かげ)の部分は成長が遅(おそ)くなります。木の密度(みつど)が異(こと)なるため重さも変わるのです。
どこまで丸木舟で行った?
日本中の離島(りとう)から縄文時代の遺跡(いせき)が見つかっています。
もっとも遠い島は本州島から180kmも離(はな)れた八丈島(はちじょうじま)。世界最大の潮流(ちょうりゅう)・黒潮(くろしお)が流れているため航海(こうかい)の難易度(なんいど)は高いのですが、本州から縄文人が何度か渡(わた)ったとされます。波が舟の中に入ったらその都度(つど)、水をかきださないとバランスを崩(くず)してひっくり返ってしまうので危険(きけん)です。逆(ぎゃく)に舷(げん)をあげすぎるとこぎづらくなるため舷の高さを決めるのは舟の性能にとってとても大切。八丈島の遺跡には何世代もの縄文人が暮らしていた痕跡(こんせき)があるため、移住のために丸木舟で海を渡ったと考えられます。
なぜ焦がした?
詳しくはまだわかっていませんがいくつかの説(せつ)が考えられています。
1)
内側(うちがわ)を燃(も)やして削(けず)りやすくした可能性(かのうせい)
2)
石斧(せきふ)で削(けず)ってできるささくれを取った可能性
3)
木を変形させるために、燃やして熱した可能性
などがあります。熱して舷(げん)の部分に力をかけて、舟を押し広げたのかも?
移住(いじゅう)のために何を運んだ?
八丈島(はちじょうじま)の遺跡(いせき)からは各地の特徴(とくちょう)を持った土器が出土しています。島の土ではよい土器が作れないため本州から丸木舟で運んだと考えられます。もともとは島に生息していなかったいのししや犬の骨(ほね)も見つかっています。
いのししは生きたまま運び、島で増やしました。食べるだけでなく、いのししの牙(きば)を加工して釣り針(つりばり)にしていました。犬は狩(か)りをするために使われたと考えられます。
縄文丸木舟とは?
八丈町教育委員会蔵
全長 5.79m、最大幅(はば) 0.72m、最大の深さ 0.42m
縄文時代は、およそ1万6千年前から1万年以上も続きました。
長い間、きびしい寒さが続いた氷河期が終わって暖かくなったことで、人々の生活が豊かになり、新しい文化が生まれました。縄の文様がついた縄文土器と呼ばれる土器が使われたことから縄文時代と呼ばれます。
縄文丸木舟は、およそ5300年前の地層(ちそう)から見つかった縄文時代の舟。木をくりぬいて作られています。1984年に東京都北区で発見されました。
どのように作った?
東京都立大学 山田昌久研究室蔵
木を削(けず)るために使われたのは石斧(せきふ)と呼ばれる石の斧(おの)です。石同士をぶつけて打ち割(わ)り、たたいて形を整えてから、磨(みが)いて作った斧です。
大きな石斧は木を切り倒(たお)したりするのに使い、小型の石斧で丸木舟の形を整えたと考えられます。
どこで見つかった?
縄文丸木舟は、1984年、東京都北区の中里遺跡(なかざといせき)で見つかりました。
東北新幹線の路線工事に伴う発掘調査(はっくつちょうさ)で古い地層(ちそう)から掘(ほ)り起こされました。
縄文時代の丸木舟は全国でおよそ160艘(そう)ほど見つかっていますが、木は腐(くさ)りやすく変形しやすいため当時の姿のまま見つかることがほとんどありません。ほぼ完全な形で見つかった貴重(きちょう)な考古資料です。
何を運んだ?
静岡県河津町教育委員会蔵
生活に欠かせない希少(きしょう)な素材(そざい)や身を飾(かざ)る装身具(そうしんぐ)の素材を運んでいました。
黒曜石(こくようせき)
火山のマグマでできた天然のガラスで、硬(かた)くて切れ味が鋭(するど)いため、矢の先につけるやじりにしたり、ナイフとして使っていました。伊豆諸島の神津島(こうづしま)は黒曜石の一大産地で、日本中の遺跡(いせき)から神津島産の黒曜石が見つかっています。丸木舟を使うことで、遠くまで大量に運ぶことができたと考えられます。
オオツタノハの貝輪(かいわ)
オオツタノハは伊豆諸島で採(と)れる希少な貝で、貝輪とは貝の上の部分を削(けず)ってリング状にした腕輪です。美しい艶(つや)が人気となり、全国的に広まったと考えられます。丸木舟で運ばれたものには、黒曜石のような生活に欠かせない機能を持った道具になる素材と、美しくて綺麗(きれい)という装飾品の素材の両方がありました。